男鹿くんこそは日曜日よりの使者
気持ちが落ち込むことは、誰にでもある事だよね。ただそれは、余りにも強くて、余りにも大きくて、余りにも恐ろしくて、余りにも厄介なもので…風邪みたいに薬があるわけでもないし、恋のお話のように友達と一緒に涙を流せばすっとするなんてものでもない。きっとずっと寄り添っていかなきゃいけない、この仄暗くぬるい感覚は、私だけが抱きしめる事ができなくて、私だけが感じることが出来て、私だけが解決できる事なんだと…自分に言い聞かせて、今日もずっとベッドの上でぼうっと窓の外を眺めてた。

対処法こそ、人それぞれだろう。好きなお菓子を食べれば気持ちが落ち着く人もいれば、好きな音楽を聴くとか、カラオケに行って騒がしく過ごすとか、本を読んで静かにひっそり過ごすとか、好きな映画を見て気分を紛らわすとか、寝てしまうとか…。そういう、個人でどうにか、自分にあった解決法を見出せれば大抵あの嫌な症状は快方に向かう。でも厄介なのは、解決方法が効かない事があるって事。寝れば直る人が、急に寝れなくなったり、好きなお菓子を食べれば解決できる人は、どうしてもお腹が空かないとか…まるで神様の悪戯みたいで、私達は打つ手がなくて、一人ぼっちの鳩みたいにもやもやした気持ちを抱いて、いつくるか分からない解放をひっそりと待つしかない。

私はいま丁度その状況だ。大変な事。だって、せっかくの日曜日なのに、なんにもやる気がしない、やりたい事があったはずなのに…気分が乗らない。でも、時間は過ぎていくし、時計が進んで居るのを見るだけで「たくさん時間を無駄にしたなー」って余計なもやもやが増えていく一方。お昼を過ぎれば私の気分は萎んだ風船。まだパジャマだし…。

「せめて着替えよう」

お気に入りの服でも着れば、気持ちが良くなるかな?髪をセットしたり、お化粧したりすれば…わくわくうきうきしだすかな?祈るような気持ちで服の袖に腕を通す。髪を梳かしてセットして、洗顔を済ませてお化粧をし始めた頃、お母さんに声をかけられた。

「お出かけするなら、お遣い頼まれてくれる?」

洗濯用洗剤を1つ…買いに行かなきゃ行けなくなった…




「あれ、お前…みょうじじゃねぇか」

キーっと自転車が私の横に停車。ちょっと驚いて後ずさってしまうと、見覚えのある男の子が不満そうな顔をした。自転車のカゴに赤ちゃんをのっけた彼は、もちろん男鹿くん。

「あ、男鹿くん…こんにちは」
「洗剤一つにしては、結構な重装備だな」

手にしたビニール袋にはお母さんに頼まれた洗剤が1つ。男鹿くんがそれを覗き込んで、そして私の大いなるおしゃれを眺めてから笑った。嘘みたいに大きな口で笑うから、私もなんだか気恥ずかしさと情けなさの混じった、変な笑いがこぼれた。あ、今日はじめて笑ったかも…お家をでる前に見てた好きなお笑い芸人さんがでてたバラエティ番組でも笑わなかったのに…。

「なんだよみょうじ、風邪でもひいてんのか?」
「大丈夫だよ、体調は悪くない」
「そうか?無理すんなよ?」
「うん、ありがとう。大丈夫気にしないで」

アメリカンジョーク集って本を読んだことがある。ある1人の男が海で一人ぼっちで遭難してしまう。彼は熱心なキリスト教徒で『いつか神様が必ず助けに来てくれる』って信じてた。だから、船が助けに来てくれたときにその誘いを断って「僕は神様に助けてもらうから心配要らないよ」って言った。次に助けに来てくれた船も、その次の船も。かれは全て断り続けた。だって彼は、奇跡のような白装束のひげが生えた立派な慈悲深き神様の助けを待って居るから。結局彼は死んでしまって、天国で神様に会ったときこう言った。「神様、どうして僕の事を助けに来てくださらなかったんです?」神様は困った顔で言いました。「なんども助けの船を寄越したのに、乗らなかったのは君じゃないか」教訓、神はあらゆる姿で貴方を救おうとしている。

「もう帰るんだろ?送ってってやるよ」
「え、でも悪いよ。男鹿くん、何処か行くんでしょ?」
「いや、ベル坊の散歩してただけだし」
「…いいよ、ありがとう。私は大丈夫だから」
「もしお前がこのまま死んだりしたら、俺の寝覚めが悪ぃだろ」
「やだなァ、死んだりしないよ」
「うるせぇ、いいから乗れッ!!乗らねぇと乗せるぞッ?!」
「え、ッ…な、きゃッ…!!」
「ようし!ベル坊ッ出発だァ!!」

無理やり荷台に乗せられて、ぐわんぐわん揺れる自転車の上で振り落とされたりしないように急いで男鹿くんに掴まる。カゴに乗った赤ちゃんが楽しそうに奇声を上げて、男鹿くんの漕ぐ自転車もどんどんスピードを上げていった。こ、こわい…!!男鹿くんの腰を握っていた手に、ぎゅうっと力がこもると男鹿くんが大きな声でゲラゲラ笑って「そのままな!」ってこっちを振り返る。ちょうど真上を過ぎたばかりの太陽が、男鹿くんを照らすためのスポットライトみたいで、暴力的なギザギザの歯も、きつ過ぎる鋭い目も、なんだか映画のワンシーンみたいに、とっても重要な事で、しっかり目に焼き付けておかなきゃいけない気がして、私は普段ならきっと恥ずかしくて目をそらしてしまうくせに、そんな男鹿くんを使命を感じながらじっと見つめ返した。

ぐんぐんスピードを上げる自転車、ぶっ壊れてしまうそうなチェーン、乱暴なステアリングに赤ちゃんの雄たけび。ぜんぜん私の家の方に向かっていない自転車は、自由気ままに左へ右へ。見たことも無い景色に取り囲まれる。いつの間にか降り出した雨だって、男鹿くんの事も赤ちゃんの事もとめる事なんてできなくって、むしろ雨足が強くなればなるほど、2人は楽しそうにゲラゲラ声を上げて笑った。もちろん私も髪の芯からパンツまで雨に打たれてぐっじゅぐじゅになっていたけど、何を言っても男鹿くんは雨宿りもしない止ろうともしない。叫んで背中に噛み付いたって笑うばっかりで、こんなの狂ってるって思ったら、普通じゃないこの行為に対する恐怖みたいなものとか、少しだけ特別感のある興奮で、お腹のそこから空気砲みたいな笑いがこみ上げてくる。土砂降りの中、私も男鹿くんも赤ちゃんも、べたべたに濡れてゲラゲラ笑って、水溜りを跳ねてまた濡れて、濡れた顔を濡れた手で拭ってはまた笑った。声がかれそうなくらい笑った。

通り雨は嘘みたいにやんで、その頃にはみんな笑い疲れてて、スイッチが切れちゃったみたいに静かに穏やかに、やっと家に向かう道を選んで進みだした。私は髪の毛の水を出来るだけ飛ばして、一生懸命なでつけた。ふっと見上げた空は、まだ曇っているところと、真っ青に晴れてるところが半分こずつで、それをつなげるみたいに大きな虹がかかってた。

「男鹿くん!男鹿くん!!虹だよほら!」
「おお!!でっけぇなァ!!見えるかベル坊?!」

耳を突き刺すような赤ちゃんの歓喜の叫び。それに笑いがこみ上げて、つい笑ってしまうと、男鹿くんもはじけたみたいに笑った。触ってた背中に小気味のいい振動が伝わってくる。

「坊っちゃま!」

傘とタオルを持った男鹿くんの奥さん(と、噂の)ヒルダさんが、水溜りを踏み踏み自転車に向かって走り寄ってきた。ああ、いつの間にか男鹿くんのお家の近くまで帰って来ていたんだ…。ヒルダさんを見つけると、男鹿くんは自転車のスピードを緩めてひょいっと降りる。私も降りようとしたら、男鹿くんが手を貸してくれた。赤ちゃんを受け取ったヒルダさんはタオルで赤ちゃんをふいてあげて、まるでついでみたいに男鹿くんに小さなタオルを投げつけた。おおう、ぶっきらぼうだなァ…。カゴから荷物を取って、私はお家に続く道のほうへ向いた。地面は濡れて太陽の光に輝いてて、眩しくて素敵で早くその道を歩いてみたくなった。

「あ、おいみょうじ…」

きっと男鹿くんはタオルを貸そうとしてくれたんだと思うけど、そんなの私には必要なかった。今はなんだかどうしようもなくわくわくしてて、走り出してしまいたい気分だった。だって私は、ぜんぶ雨に濡れてしまっているけど、大好きなお気に入りの服を着ていて、化粧は落ちてしまったけど、靴だってずぶずぶだけど、こんなに新鮮で何もかも透き通っているんだ。虹が出てて、道路が輝いてて、雨がスイッチだったみたいに何もかもが新しくなった。

「ありがとう!男鹿くん、本当に!」

私が振り返ったのは瞬間で、そう伝えきってしまうと、うずうずして仕方が無いこの気持ちを少しでも抑えるために走り出した。ほとんど無意識に走り出して、わくわくしてるのが抑えられない私の口からあのメロディがこぼれる。雨がいっぱい入ったビニール袋の中で洗剤がじゃばじゃば鳴る。私が走れば水溜りが鳴る。そんな事を感じるのに精一杯な私が、自分に夢中な私は、どう考えたって、男鹿くんがずっと私の後姿を見てたことなんて気づくはずないし、ましてやその視線がどんなに甘酸っぱかったかなんてもっともっと知るよしもないのだ。ただただ今は感謝を。ありがとう、男鹿くん。

「しゃららーら、しゃらららーらー…にちよーびよりのししゃー」

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