子どもじゃない光子郎さんの8/1
夏になって、太陽の朝が早くなった。寝室に光が差し込む時間が早まり、自然と目が覚める時間も…早くなっていった。ダブルベッドの窓側には僕が、部屋の中央クローゼットよりにはおなまえさんが眠っている。そして、おなまえさんの向こうには、ベビーベッドで眠るうちのお姫様が…

Those days, I was a mere child

「ん…光子郎くん?」
「あ、すみません…起こしちゃいましたか」

カーテンが朝の太陽光を吸収して、寝室は少しずつ暖かく、明るくなっていた。こっそりベッドを抜け出して、リビングへと続くドアに手をかけていた光子郎くんの背中に声をかける。光子郎くんは、驚いた様子も無く、苦笑いをしてまだ寝癖の残った頭をぽりぽりと掻いて謝った。枕もとの時計を見ると『6:17』…起きて困る時間でもないので、私も笑って気にしないでと返す。

「今朝は早いね?光子郎くん」
「ええ、行く前にちょっと調べ物をしようと思って」

二人でリビングに移動して、私はカーテンを開けて、光子郎くんはポストまで新聞を取りに行った。テレビをつけちゃうと、その音でお姫様がおきちゃうので、沈黙の中、光子郎くんがリビングに戻ってきた。

「ご飯は?食べていける?」
「あ…どこか外で済ませようと思ってたんですけど…」

外ではセミが鳴いてて、空が高くて、草木は青かった。中庭には昨日お姫様が避暑として遊んだビニールプールが干してある。空になったじょうろとか、お砂場用のスコップとかが詰まった赤いバケツ。わたしのビーチサンダルと、小さな小さなピンクの履物と、光子郎くんの健康ツボのイボイボが付いたサンダルが並んでいる。リビングからそれを眺めている光子郎くんの背中、パパだなァ…

「作るよ、先に着替えてきて?」
「ありがとうございます」

私がフライパンと卵を掲げて、お料理のジェスチャー。振り返って、しっとり微笑む光子郎くん。ああ、その笑顔だけで私なんだって出来ちゃうよ!!

昔の光子郎くんだったら、絶対に遠慮してた。というか、朝ベッドから出るときに、絶対に私を起こしたりしないように、もっと慎重に音を立てずにこっそり…もうそれは忍者のようにこっそり部屋から出て行っただろう。それでも、もしも私がおきたとして「寝ててください」の一点張りだったと思う。…変わったねー光子郎くん…もちろんいい意味で。

ベーコンと卵が焼けるにおい。包んでチンするだけで簡単に温野菜が出来てしまうラバー何とかを使って、ブロッコリーとニンジンとジャガイモをこしらえる。トーストはもうこんがりと焼けてて、数種類のジャムとマーガリンが載ったプレートをテーブルに移動させる。昨晩つくり置いておいた冷えたウーロン茶をコップに注いで、着替えを済ませた光子郎くんに手渡そうと思ったけど…リビングにはまだ、光子郎くんの姿は無かった。


「光子郎くーん?」

珍しい。彼が着替えに時間がかかることなんて今までなかった。

クローゼットがある寝室を覗くと、着替えもそこそこにお姫様に夢中になってる光子郎くんの姿を見つけた。パジャマのボタンは全部外れてるくせに、お姫様を抱っこしたままベッドの周りをうろうろしてた。

「あれ?おきちゃった?」
「ああ、おなまえさん…よかった…」

困った顔の光子郎くんからお姫様を抱きうける。温かい小さなからだ。ふぇ〜とかんま〜とぐずっている。光子郎くんが着替えようとしたときに、物音でおきてしまったらしい。

「すみません」

着替えの合間に、私の腕の中のお姫様の頭を撫でてやりながら謝る光子郎くん。

「ふふ、すみませんって…」
「え?ああ…」

恥ずかしそうに顔を赤くする光子郎くん。きっとこの敬語も、一生直らないんだろうなァ…。まぁ、私は光子郎くんの敬語癖すきだからいいんだけどね。子どもに対しては…将来的に、直って欲しい、かな?


「いただきます」
「はーい、どうぞ」

あやして居るうちにまた眠ってしまったお姫様。光子郎くんはリビングに戻って食事を、私はそのまま寝室で着替えを済ませた。

リビングに戻ると、窓から差し込む光がずっと強くなってて、フローリングが真っ白に光っていた。食事をして居る光子郎くんの背で、7月になっているカレンダーを一枚だけ、ぺりぺりっと破いてしまう。8月。8月の1日。

特別なしるしがしてあるわけじゃない。形にする、必要もない。光子郎くん達があの日の事を忘れることはないし、私としても、光子郎くんとの結婚を決めたときからそっちの世界の事を…しっかり受け止めていかなければいけないという自覚はあるからだ。

光子郎くんは、私と交際していた頃…一度だけあっちの世界から帰ってこなくなってしまったことがあった。向こうではなんだか、私にはわからない、難しい研究をして居るらしい。何かに夢中になっちゃうと、周りが見えなくなる性格だっていうのは知ってた。でも、あっちの世界は、そこまで光子郎くんを捕らえてやまない魅力があるのだろうか?

「僕の帰るべき所が、みょうじさんであって欲しい」

結果的に、プロポーズの言葉となった光子郎くんの言葉。

周りが見えなくなる、これは光子郎くんにも自覚があるのに、どうしてもやめられないそうだ。私が家族で旅行に行っている間。光子郎くんは、あっちの世界に閉じこもってしまった。自惚れて居るわけではないけど、元の世界に戻る事に魅力を感じなかったそうだ。それでも、他の人が…光子郎くんのお母さんやお父さん、先輩や友達や、後輩の子達にしてみればそんな悲しい事はない。あっちの世界から、一向に戻ろうとしない光子郎くんを説得するために、光子郎くんの先輩に頼まれて1度だけあっちの世界にいったことがある。

大きな研究室みたいなところで、壁に設置された何十個っていうモニターを食い入るように見つめている光子郎くん。手元には、パソコンのキーボードなんて比べ物にならないくらいたくさんのキーが並んでいて、光子郎くんの手は休むことなく、テーブルの上を泳いでいるように何かを打ち込んでいた。

光子郎くんの先輩に促されて、少しだけ光子郎くんに近づく。正直、怖かった。まるで、別人のような光子郎くん。先輩たちの声に耳も貸してくれなかったらしい。帰ろうって言っても、もう少しだけ調べ物があるって言って自分だけこっちに残っていたそうだ。

怖い。私が声をかけても、振り向いてくれなかったら…?無視されたら…?

私の知らない世界で、私が知らない事に没頭している、私の知らない…光子郎くん。



「ごちそうさまでした」
「え…あ、お粗末さまでした」

物思いにふけっていると、いつの間にか光子郎くんの食事は済んでいた。食器を流しまで運んで、水をかけておいてくれる。

「ありがとう、光子郎くん」
「いえ、おなまえさんも。こんな時間にありがとうございました」

洗面所に向かう光子郎くんの背中を見送って、さっきの食器の片づけをはじめる。かちゃかちゃと鳴る食器。洗剤のにおいが鼻をくすぐる。



「光子郎くん…」
「…みょうじさん…?」

どうしてこんなところに。

そう言って立ち上がった光子郎くんは、少しはなれたところからこちらの様子を見ていた先輩達に視線を向けて、ばつが悪そうに顔を背けた。

私と一緒にこっちの世界に戻ってきた光子郎くんは、まわりの人に迷惑をかけたことを謝罪して、私を家まで送ってくれた。もう夜になってて、月明かりの中で二人とも無口に歩いた。

私の呼びかけに応えてくれたのは、嬉しかった…安心した。それでも、あんな光子郎くん…見たのは初めてで、どうしても今一緒に居る光子郎くんが同じ人だなんて思えなくて、何を話していいのかわからなかった。

「みょうじさん…」
「…うん」
「怒って、ますか?」
「…ううん。怒ってないよ」

誰も居ない道路で立ち止まって、話をした。色んな話。ずいぶん長く話したと思う。あっちの世界の話。光子郎くんの話。二人の話。あっちの世界と、こっちの世界の話。途中で、私のケータイにお母さんからの早く帰って来いって言う電話が着たけど出なかった。私は光子郎くんの、言い訳とも取れる、あっちの世界から戻ってこなかった理由を飲み込むために必死だった。

「こっちに戻りたくない訳じゃないんです」
「…うん」
「ただ、何も見えなくなっちゃうんです」
「…」

それだけ、光子郎くんにとって、こっちの世界は味気の無いものなのだろうか?私は、あっちの世界の生き物達よりも、ずっと面白みの無い存在なのだろうか?光子郎くんは、私や、先輩達、ご両親よりも…自分の研究のほうが大事なのだろうか?

湧き上がってくる疑問は尽きなかった。自虐的なその質問は、光子郎くんに訊く事は出来ず、代わりに私の目からは涙が零そうになった。

「僕の帰るべき所が、みょうじさんであって欲しい」

先に涙を零したのは光子郎くんだった。




「それじゃあ、そろそろ」
「うん。楽しんできてね」

身支度を済ませた光子郎くんを玄関で見送る。お気に入りのオモチャを振り回すお姫様を抱っこした私。今日は光子郎くん達だけの、記念日だ。私には踏み込めない領域だし、踏み込もうとは思わない。扉を開くと、セミの声が大きくなる。ああ、夏なんだな…。

「帰りは遅くなるので、先に寝ててくださいね」
「わかった。気をつけて、いってらっしゃい」

お互い嘘だって事わかってる。光子郎くんは、帰ってきたときに私に寝てて欲しくなんかない。ちゃんと起きて、待ってて欲しい。私だって、先に寝ちゃおうなんて考えてない。でもわざわざ、『寝ないで待ってるよ』なんていわない。そんなのお互い承知の上なんだから。光子郎くんのあれは、ただの建前だ。人に気を遣わずにはいられない、彼の良いも悪くも癖になってしまって居る。

「いってきますね」
「あーう」

お姫様の頭を撫でる光子郎くん。私がその手に、自分の手を重ねると光子郎くんは笑った。三人で、おでこを寄せ合うように集まると、お姫様のベビーパウダーのにおいと光子郎くんのにおいがした。

「いってらっしゃい」
「いってきます」





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