傷がうずくので寂しんぼ虎ちゃん
夜中のバイトの最中、泡まみれのシンクの中。かちゃがちゃと皿からコップから箸まで何でもかんでもぶち込んで、手当たり次第にスポンジでざっくりと洗っていた。24時間営業の飲食店。忙しい時間に溜まった食器を夜中のうちにざっと洗っちまう寸法だ。

右手につぅっと違和感を感じた。ん?と思って泡の中から手を出してみると、俺の右手には真っ赤になった泡が、こんもりと乗っかっていた。あ、やべ…

「東条、どうかしたのか?」

バイトの先輩が、眠そうにタバコをふかしていたが、俺が鳴らす食器の音が聞えなくなると、声をかけてきた。サボったわけじゃねぇぞ?

俺は、ぱっくりと開いてしまった右手のひらを先輩に見せる。泡を洗い流したときに少し沁みた。真っ赤な血がたっぷりでてるが、まぁ…そんな気にすることじゃねぇだろ?時計を見ると上がりの4時までまだ、きっかり3時間前だった。この手じゃあと3時間食器洗いはキツイな…

「あの…絆創膏とか、無ぇっすか?」
「圧迫止血して病院いって来い」

先輩はどこからかタオルを持ってきて、こっちに放った。あっぱ、あ…?あっぱくしけつ…?

「…なんでハチマキにしてんだよ」
「…アッパー、串かつ…?」
「バカ、傷口直に押さえとけって言ってんだよ」
「…なるほど」

タイムカードきっといてやるから、今日はもう帰れ。そうやって、バイト先を追い出された。…ずくずくと血が湧き出してくる傷口を、タオルで覆って抑えていると、白かったタオルはすぐに、血液の色に侵食されていった。…病院ッつったってな…。信じきれないくらいたくさんの星が真っ黒な夜空にまき散らかされた夜。とりあえず、宛ては無いけど歩き始めた。



閉まってるに決まってると思ったけど…病院っていわれて、ここにか思い浮かばなかった。みょうじ診療所。昔から外観は何一つ変わってなくて、あえて言うなら余計に古臭くなった…。木で組み立てられた、白塗りの壁に、はげた水色の屋根。出入り口に、一本だけ松の木が植えてあって、傘みたいに出入り口付近を覆っている。

ガラス戸を叩くと、朽ちかけた木の枠にゆるくなったガラスが、かっしゃんがしゃんと酷い音を立てた。何も返事は無くて、当たり前か…。もう夜中の1時を過ぎてる。

もう何度か叩いてから、自分の怪我を見つめなおす。夜に慣れてきた目に、手のひらの傷は痛々しかった。血をすいすぎたタオルは、くさいし重かったのでどっかに捨ててしまった。にんまり、と笑った口がゆがんだような傷口からはまだ、とくりとくりと血が流れていた。手のひらからあふれ出したそれは、俺の手首を通り、腕の筋肉の隆起に沿って、まるで走っていくようなスピードで流れていって、地面にぱたりと落ちた。その流れはまるで、何かの生き物で、最後には死んでしまったかの様に見えなくも無い。

そうやって、ひとつぶひとつぶ血が流れていくのを肌で感じながら、目で追いながら、ぼうっとしていると、診療所の玄関の、小さな電気がぽっと小さな灯りをともした。

「…どちらさま?」
「あ、ども…おひさしぶりっす」

見るからに不機嫌な顔を覗かせた女性。この診療所の院長の娘さん。みょうじおなまえさん。俺の顔を見ると、よりいっそう嫌な顔をした。まぁ…こんな時間に、迷惑だよな…。

「虎くん…なに?時計読めなくなったの?」
「あ、いや…違くて」

おなまえさんは、体のラインがはっきりとわかるような、ぴったりとした薄手のワンピースを着てて、夜になれた俺の目を少し凝らせば、乳房の形はおろか、乳首の形さえ把握できてしまいそうだった。寝ていたんだろう(当たり前だが)、下着を着けていない乳房は、決して大きいとは言えなくとも、形を崩さずに綺麗なまるを描いたままそこに収まっていた。

「なにそれ?けが?」
「そうなんす」

眠そうで不機嫌だったおなまえさんの目が、俺の血まみれの手を見て、表情が変わった。白い手を伸ばして、俺の右手の手首をきゅっと握ると、優勝トロフィーかなんかを掲げるように上げて、建物に引っ張り込むように足を進める。

「入って」

俺よりもずっと小さいおなまえさんは、こうして手を間近で比べて見ると、子どものようだ。全然サイズの違う手。同じ人間だとは思えない…。

薬のにおいが染み付いた、シンプルな診療室。アルミの机に、中身の詰まった薬品棚。硬そうなベッドが一つ、飾り気も背もたれも無いイスがふたつ。流しがある隣の部屋とは繋がっているけど、少し黄ばんだガーゼのカーテンで仕切られていた。カーテンの向こうには血圧測定器が突っ立っていて、肘置きの隣には体重測定器も待機している。

懐かしいな…。ベッドに座らされた俺は、押さえてろと言われた手首の辺りを押さえながら、診療室の天井を仰いで見たり、薬品棚の前でこちょこちょしているおなまえさんを目で追ったりしながら、昔の事を思い出していた。

金がなくて病院にかれなかった頃、病気なんて滅多にしなかったが、予防接種だとか…かんたんな怪我の治療など無償で見てくれた。おなまえさんの親父さんが、「子ども10人診るのも、11人診るのも変わらん」と言って、何度も世話になった。

いつかその頃の金が返せるといいんだけどな…

「ほら、手出して」

いつの間にか白衣を羽織ったおなまえさんが、向かいに座り込んでいた。伏せられたまつげが、上から覗くような形になった胸の谷間が、さらさらな髪の毛が、真夜中の明るい部屋の中で、俺に奇妙な違和感を沸き立たせた。

用意されていた台に、言われたとおり手をのせるとおなまえさんはささっと脱脂綿と消毒液を使って傷口を綺麗にしてくれた。おお、けっこう広かったんだな…。

傷口の全貌に気をとられていると、おなまえさんは、ちいさな銀のプレートに乗った針を、ピンセットで摘んでなにやら細かい作業を始めた。…え?なにそれ?

「ちょっと痛いわよ?我慢できるわね?」

返事をする前に、手のひらにちくりと刺すような痛みが走った。傷口を縫ってくれるらしい…。あ、いや…まぁ、医者なんだもんな…おなまえさんも…。

「虎くん、どうしたのこの怪我?」

傷口から目を離すことも無く、手を休めることも無く、おなまえさんが口を開いた。

「バイトで切った」
「こんな時間にバイト?あんたいくつよ?」
「18」
「学生の癖に」

足を少し開いて、姿勢を低くするおなまえさん。俺の手のにおいでも嗅ぐような格好だ。指先に、鼻息がかかってくすぐったい。俺も傷口を覗き込もうとすると、動くなとおこられた。じゃあどこを見ていればいいんだ。深くなった胸の谷間?広がって陰った足の付け根?どこを見てたって結局、気まずくなって行き着く先は手のひらの怪我だった。


ぱちん。

銀色のはさみに糸が切られると、まるで同時におなまえさんの集中の糸も切れてしまったように、だは〜っと気の抜けたため息をついた。

「はい、おわり」
「どうも」

どうもって何よー!って笑いながらおなまえさんが席を立つ。反射的に俺も立ちあがろうとしたけど、一瞬、足元がふらついて、すぐにまた座り込んでしまった。

「大丈夫?」
「ああ…」

立てなかった俺に気がついたおなまえさんは、貧血かな?とかなんとかつぶやいてから、ぐぅっと伸びをして、時計を見てから嫌な声を出した。もう2時になろうとしていた。

「…虎くん、なんか飲む?」

両腕を頭の上に伸ばしたまま、俺のほうを振り返って笑うおなまえさん。時間の事はもう忘れることにしたらしい…。

どうしても、目が体のラインを追ってしまう。腕を上げて居る所為で、浮き上がる頼りない鎖骨。引き伸ばされたように形を変える乳房。上にずり上がったすそから覗く真っ白な太もも。

「あ…じゃあ、水で」
「やだ、なに遠慮してんのー?」

じゃあココアねーって勝手に決めてしまうおなまえさん。程なく、甘いにおいを漂わせながら、ふたつのマグカップが運ばれてきた。

「あ!手、握っちゃダメよ?」

開いちゃうから。縫ってもらった手をゆっくり動かして、いろんな角度から様子を眺めていたら、おなまえさんに叱られた。マグカップを、治療につかってた台にのせて、おなまえさんが俺の手をとる。傷口を包み込むように、両手で俺の手を挟み込む小さな手。「美女と野獣」なんて言葉が浮かんでは、消えた。

ココアの甘いにおい、おなまえさんの体のライン、少しうずく傷と重なった手。

肘を立てて、握り合った手の横にはおなまえさんが頭をうなだれている。さらりと髪が一束、台に落ちると、おなまえさんの顔は完全に隠されてしまった。

持て余した左手で、髪に触れてみたくなる。

子どもの頃は、届かなかった手。俺よりもずっとお姉さんだったおなまえさん。今は、手を伸ばせば…届くのだろうか?

求めれば、その身体に触れることを許してくれるだろうか?

傷なんてなくとも、手に触れてくれるのだろうか…?

決まりを犯す子どものように、おそるおそる左手を伸ばす。心臓が、こんなに大きな音を立ててなるものだとは知らなかった…。心臓の音をどうにかしたくて、そこを押さえたくなるが…あいにく今の俺には手は一つしかなかった。

「反則だ」

全身の毛が、毛先までぴっしっと立つ。し、しかられるか…?!

「この時間は…」

脱力仕切った声。ああ、驚いた…。気づかれたわけではなかった…。


結局何も出来ずに、二人でココアを飲んで、片づけを済ますとおなまえさんは早々と寝に部屋へと戻ってしまった。

「ベッドと、洗面所。場所はわかるわよね?明日の朝まで勝手に使ってていいから」

おやすみ〜。

俺の返事を聞く事も無く。さようならの手をぷらぷらと振って、診療室を去ってしまった。



言うまでも無く俺はその晩、この診療室のベッドでおなまえさんとセックスする夢を見た。

触れたことの無い乳房の柔らかさ、聴いたことの無い声の甘さ、見たことも無い表情の艶やかさに、夢の中の俺は溺れきっていて、まるで本物の野獣のようだった。妙にリアルな夢だった。部屋のにおいだとか、ベッドの硬さ、見慣れた景色に、自分の体とおなまえさんの体の違い。

それでも目が覚めたとき、夢の中で触れた肌の感触を気無しに確かめようとすると、ぐずりと傷が痛んだから。ああ、夢だったんだな。しょうもない。

夢の中の俺には手に傷なんて無くても、彼女の手と重なっていたのに。



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