風見裕也と平和とおっぱい
そういえば、おなまえの部屋に上がるのはどれくらいぶりだろうか。

恋人のアパートに向かう道すがら、ふと立ち止まり黄昏時の空を仰ぐと、小さな白い星を何個か見つけた。どこかの家屋から漏れ聴こえてくる夕方のニュース、あたたかい夕食のにおい、ねこの鳴き声。耳を澄ませば電車の音も聴こえてくる。先ほど自分が居た職場からは切り離されたかのような『平和』の中に放り込まれて、意識と体感がうまく繋がらない。派手な演出の映画を見た後、劇場から出てきた時の日常を非日常に感じるような錯覚。恐怖ではないこの不安をどうにかしたくて、自分を上手くこの『平和』に繋ぎとめてくれる場所へいそいだ。

「おかえりなさーい」

インターフォンを鳴らす前に彼女の部屋の扉が開き、驚いて退けば「ベランダから見てた」といたずらっぽく笑うおなまえ。……つまり、走ってきたのがバレていると言う事か。部屋の扉の前で息を整え、平静を装おうとしたことさえ恥ずかしくなる。誤魔化したくて咳払いをし、通されたリビングでスーツを脱げば、おなまえが自然な手つきでそれを受け取りハンガーにかけていく。この部屋には自分の下着と上下の部屋着を一式預けてある。スラックスも靴下も脱いでしまい、Tシャツとスウェットズボンに着替えてしまう頃には、ボウルサラダとカレーライスと、ノンアルコールビールが2人ぶんテーブルに用意されていた。少しあけられた窓の外はまだ薄明るく、白い月から我々の姿を隠すようにレースのカーテンが風に揺られていた。

「ほら、いっぱい食べて!裕也さん私の分のお肉も食べな!」
「いや、十分食べてるよ」

自分で配膳したくせに、自分の皿から肉を救い上げてわざわざ俺の皿に移して来るのを、口ではいなしていても、構われるのが嬉しくて情けなく笑ってしまう。テレビもつけず、音楽も流さず、おなまえの他愛も無い話(電車に乗ったら赤ちゃんを抱っこした女の人がいて、すごい可愛かった!とか、道路の真ん中に猫の死骸を見つけ、こわごわ近づいたら実際はぼろぼろになったスニーカーだった、とか、そもそも道路に靴が片方だけ落ちてるとはどういうことなんだ?とか)を聞きながら、適当に相槌をしながら皿を空にしていく。自分には、こんな風に話せる事が無い所為か、彼女が自分の分まで話してくれてるみたいだとよく思う。

「今日、庁内の自動販売機の缶コーヒーが売り切れていた所為で、いつもは使わない売店でコーヒーを買ったんだが。間違えて微糖を買ってしまった。」

今日の失敗談を告白して、透明のプラスティック製のボウルに残ったミニトマトを口の中に放り込むとおなまえは、ただそれだけのことなのに、目を大きくして「うそ?!裕也さん、甘いの飲んだの?!」と声を上げる。飲んでいたノンアルコールビールの泡で口の端を濡らしていることを身振りで伝えながら「いや、近くの席の奴にやったよ」と返事し、自分もグラスに残ったノンアルコールビールを飲み干した。おなまえが「よかったー」なんて言うから「よかったってなんだ」と問えば、神妙な顔で「確かに。よかったは変だったね」と笑った。カレーの皿もサラダのボウルも、ビールのグラスも空になり、窓の外はすっかり暗くなっていた。

かすかにカレーのにおいを残した部屋のソファの上で、背後から彼女の胸に手を這わせる。首筋に耳に頬ずりすれば、自分の眼鏡がかちゃかちゃ音を立てた。Tシャツの裾から手を滑り込ませ、指先でブラジャーの、弧を描いた硬いワイヤーを撫ぜ、這い上がりながら、特別大きくも特別小さくも無い胸を包み、こ……もうとしたが、手の動きを止めてしまうほどの違和感。

「どうしたの?」

しまった。動きを止めてしまった所為で、とまった理由を聞かれてしまった。……『太ったか?』なんてきけない。『胸大きくなったな』も、なんだかおっさんくさい気がする。事実おっさんと呼ばれても言い返せない年齢ではあるが、それは別の話だ。なんて言えば彼女の機嫌を損ねず、かつ『胸が大きくなっていること』を伝え、それに驚いて動きを止めたことを説明しなくては……。

「あ、おっぱい?」

あ、はい。おっぱいです。

生理前になると胸が膨らむんだと言いながら、おなまえは自分でTシャツを捲り上げ、上手にちくびを隠しながらブラジャーをずり上げて、こちらに見せてくれた。「実はちょっと痛い」といいながら、真っ白な胸の重力とすけべ心を感じさせるたっぷりと丸い部分についた、痛々しく残ったブラジャーの痕を指先でなぞる。彼女の胸を守るためのパットなりなんなりや、硬いワイヤーに締め付けられて出来たその痕は、捕縛された後の犯人の腕を思い出させた。締め上げ、拘束し、長時間自由を許さない。そうすると腕や体に、青紫色の縛った痕ができる。彼女の胸と、犯罪者の腕を比べるなんてばかばかしい。

身をかがめ、舌を突き出し、彼女の胸の痕をなぞる。くすぐったそうに笑う彼女の声も、Tシャツの中に頭をつっこみ、鼻でブラジャーを押し上げ愛撫を進め続けていけば、切なく甘いものになっていく。同じ人間とは思えないほどやわらかくか細い体の輪郭を、何度も何度も撫ぜ上げて、ズボンも、下着も脱がしてしまえば「めがね」とたしなめらた。いったん、彼女の上から退いて視力がまともに働くうちに時計を確認する。自分のズボンと下着を脱いで軽く丸めている間に、彼女は何処からかコンドームを取り出していた。

久しぶりのセックスだというのに、色気も無く時間を計算しながら腰を降る。あと1時間もしないうちに自分が仕事に戻らなければいけない事はおなまえも承知していて、それでも「うちでご飯食べなよ」と誘ってくれたのだ。壁掛け時計の秒針の音、体がぶつかり合う音、ソファがきしむ音の中で、おなまえがあげる胸を締め付けるような嬌声に堪らず射精してしまいそうになるが、時間が無い。2度も3度もしている余裕は無い。焦る気持ちを押し殺して、極力ゆっくり、痛いといっていた胸がはげしく揺れてしまわないよう手で支えたり、自分の胸で抑えたり。息を抑えながら彼女の耳元で今日は何をしていたのか尋ねれば、ケーキを食べに行っていたと答えて、そんな事はどうでも良いからと必死にキスをねだられる。彼女も彼女なりに、行為を早く終わらさなければと考えているんだろう。このあと、抱き合って眠れるわけじゃない。シャワーを浴びたらすぐに、カレーのにおいがついたスーツを着て警視庁に戻らなければならない。「おなまえ」のどをさらけ出し、体をびくびくと痙攣させる彼女の体を抱きしめながら、今日偶然捜査一課の奴らの話を耳にした、その事件概要を思い出す。

集団暴行に遭った女性の死体遺棄。拘束された痕があり、暴行、酷いレイプの痕跡が見受けられたそうだ。歳はちょうどおなまえと同じで、レイプ・殺害現場はどうやら被害者女性が1人暮らしをしていたマンションの彼女自身の部屋だと推定されている。おなまえの首筋に吸い付き、うっ血痕を残したとして意味は無い。自分の自己満足だということは分かっている。彼女に首輪をして、手錠をかけて俺の家に拘束することも出来ない。一晩だってまともに一緒に居てやることも出来ない自分が、突然彼女のピンチに現れて、スーパーヒーローのように助け出すなんてこと、出来るはずがない。彼女が達するリズムに手を引かれるような射精に震え、あまりの多幸感に涙が滲んだ。

余韻もないまま、それでも離れがたく2人でシャワーを浴び、ドライヤーで髪を乾かしてもらった。お互い自然と無口になっていたが、シャツを着て、ネクタイを結んでもらっているとおなまえが「似合うねえ」と嬉しそうとも寂しそうとも決めきれない顔で笑った。あたたかいコーヒーを1杯飲んで玄関に立つ。「いってらっしゃい」とちゃんと笑ったおなまえに「今度、ひとつ大きなサイズの下着を買おう」と告げれば、彼女は「選んでくれるの?」と挑発的に笑った。黙って部屋を出て、扉を隔てた彼女に「戸締り」と告げれば「あいあい」と返事と共に重たくガチャリと鍵がかけられる音がした。

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