1.安心してください、邪魔者は消しましたから
その時私が感じた嫌な予感は、自動車が猛スピードで衝突してくるような強烈で激しいものではなく、降り続く細い糸のような雨がじわりじわりと地面を黒く濡らしていくような、ゆっくりと優しくしっかりと首を絞められるような、穏やかで冷たいものだった。

旦那の“仕事”について深く言及しなかったのは、彼と言う人間を愛していたからだ。私の輪郭を優しく撫ぜるように見つめるあたたかな瞳、くすぐったく甘いキスを降らせてくれるやわらかなくちびる、慈しむように溶かしてしまうように触れる指先を愛していたからだ。結婚して欲しい、と、新しい仕事を探すよ、が同じタイミングだったのも、きっと彼は私に言えない秘密があるからなんだと察しがついた。私だって、もう可愛くて純粋なだけの女の子では無い。彼はきっと何か危険な仕事をしている人なんだと、そんな、今までの彼の在り方を変えてまで、私と一緒になってくれようとしてくれているんだと言うことはわかった。彼が、今までどうやって生きてきたのか秘密にされてしまうのは、それは寂しいことではあったけれど、それ以上に私を選んでくれたことが嬉しかった。だから、私は、私たちの記念日になるはずだった今日のために、2人の小さなアパートで、ちょっぴり良いワインと特別なご馳走を用意していたのだ。

シチューも煮込んで、メインディッシュがオーブンの中でじわりじわりと焼き上げられてるうちに、夕食用のバケットを買いに出た私が感じた嫌な予感は、ゆっくりと背筋を上ってくる氷水のように冷たく私の体を、心を冷やしていた。言いえない冷たい不安を背負い、あたたかいバケットを抱え、彼が待つアパートへ帰ると、玄関で私を出迎えたのは、いつもの革靴を履いた彼の両足首だった。真っ黒な血で濡れた玄関。むせ返るような血のにおいに思わず涙が滲んだ。違う。彼じゃない。いま、私が見ているのは、ただの、飾りだ。勘違いだ。真っ黒な血溜まりを踏み、いつものように彼の靴の隣に、靴を脱ぎそろえる。何処までも続く線路のように、真っ黒な血のあとは、玄関から浴室へ二本の線を延ばしていたけど、見ないふりをした。ハンマーで殴られるようなひどい頭痛がする。目玉が焼け落ちそうな程あつい。けれど、なんでもないふりをして、キッチンダイニングに入れば、彼が座っているはずの席に褐色の肌の男が座っていた。

数日前、一度だけ見かけたことのある男だ。

偶然彼を街で見かけて、喜びに体を震わせ大きく呼んだ時。彼は、この褐色の肌の男と一緒にいた。彼は、一瞬、絶望したような悲しい瞳で私を見た。理由は分からないけど、私の登場にすごく動揺しているように見えた。反して男は喜色ばんだ視線を私にむけた。その時、彼は私にひどく冷たい態度で接したが、男のほうは執拗に私に接触しようとしてきたことをよく覚えている。手の甲にキスまでされたのだ。彼をと心に決めていた私にとって、それは軽率で失礼な行為でしかなかったけれど、その光景を見た彼はひどく怯えていて、まるで私が褐色の男に心移りしてしまうのではないかと危惧しているかのようにも見えた。とんでもない。私が心に決めたのは彼だけだというのに。

「安心してください、邪魔者は消しましたから」

思考を現実に引き戻される。立ち尽くした私を、男はやさしくて招いた。テーブルに用意しておいたとっておきのキャンドルには既に火が灯されていて、煮込んでおいたシチューも、焼きあがったメインディッシュも、用意した覚えの無いサラダもきちんと2人分テーブルに並べられている。バケットを抱く腕に力がこもり、熱い涙が溢れ出す。震えて崩れ落ちてしまいそうな体を叱り大きく息を吸えば、あたたかい食事のにおいも感じさせないむせ返りそうな血のにおい。男は優しく私に微笑んで、座っていた椅子から立ち上がり、向かいの椅子を引いた。「さあ」と、とろけるほど優しい声で私を促す。私が男に従い席に着けば、男は満足そうに背後から私の首筋に鼻筋を埋め、やわらかくくちびるを押し付けた。声を上げてしまいたくなるほど熱く、とろけそうなそのくちびるの感覚に、ぎりっと唇をかみ締める。まだあたたかいバケットをテーブルにのせると、背後から男が手を伸ばし、私を抱くような仕草で、バケットの上の私の手の甲に自身の手をのせ、愛撫するように指でさすった。「まだ、あたたかいですね」何が楽しいのか、嬉しいのか、男は満足そうに私の耳元で囁く。私もこのまま、この男に殺されてしまうんでろうか。そっとまぶたを閉じて、頭の中で玄関から続いた彼の血の跡の先をたどれば、そこは浴室で、きっと冷たいバスタブの中で冷たくなってしまっているであろう彼の姿を思い浮かべる。彼のあたたかな指先、柔らかいくちびるを、最後に、慰みに思い出そうとしても、背後の男のくちびるが邪魔をする。

「や、めて……」

自覚していた以上に涙声の自分の言葉が空間にぽつりと落ちる。男の行為はとまり、安堵するも、バスタブの中で冷たくなってしまった彼が帰ってくるわけでもない。ふっと、短いため息をついて、褐色の男は私からはなれ向かいの椅子に座った。とっさに私はテーブルに並べられたうちのひとつのナイフを握ったけど、男は紙ナプキンの下で重たく光る拳銃の引き金に指をかけていた。

「どうか、僕に撃たせないでください。おなまえ」

懇願するように、私を試すように甘い声を上げる男。声とは裏腹に、絶対私をしとめてやるという刺すような鋭い目つき、突然激しく蹂躙するように重ねられたくちびる、犯されてしまいそうなほど熱い意思を持ち私の頬に触れる手のひら。男の服は黒く血で濡れていて、揺らめくキャンドルが時折それを思い出させるように照らした。とっさに立ち上がり、部屋から逃げ出そうと走り出したけど、伸びてきた男の腕がそれを許さなかった。腕が引かれ、床に溜まった彼の血に湯べり、姿勢が崩れた私を男が抱きとめる。男の服に染み付いた冷たい血が、私の肌に、服に沁みていくのが分かり悲鳴を上げると、髪を指に絡めとり男が私の頭を引き寄せ悲鳴ごとくちびるを奪われる。呼吸を許されないキスの合間で「いけませんよ」と囁く男。やめて、と懇願し、彼に貰った指輪が輝く左手を見せると、男は微笑んで自身の左手を私に見せつけた。血に濡れたペアの指輪。

「彼にあなたはもったいないと思いまして」

彼は全うな男ではありませんよ、と寂しそうな声で続ける。「大丈夫、あなたは僕が守ります」慈しむようにやさしく抱きしめられても、男の真意が分からない私の震えがおさまることはなかった。

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