6.忘れるなんて嫌だったから
立っていた地面が、乾いてひび割れて、ボロボロ崩れて、どこに続くかも分からない恐ろしい真っ暗闇に呑み込まれていく。きっとその真っ暗闇は冷たくて、痛くて、寂しくて、苦しくて、硬くて、怖くて、重くて、ながい…。私の心臓は、手足の感覚は、崩れた地面と一緒に、どこかとてつもなく寂しいところへ呑み込まれていってしまう。目の前の男鹿くんの唇だけが動く。夕日に照らされて…。私の瞳からオレンジ色の水滴がこぼれる前に、男鹿くんを突き飛ばして走り出した。

『ヒルダとベル坊が、魔界に帰ることになったんだわ』

あ、そーいえば。みたいなテンションで男鹿くんが私に言った。驚いて、息をするのも忘れた。悪い冗談だとも思えないし、だからって…こんな軽がると伝えられていい内容でもない。男鹿くんを叱責するより、自分を可哀相がるよりも何よりも先に、ヒルダさんに会いたくなった。会わなきゃいけない、と思った足が駆け出す。

帰っちゃう…って、そんな…急に…。涙で滲む視界が、私の頭の中と一緒にごちゃごちゃになってむちゃくちゃになる。走ってるのが苦しくて、辛くて、体も熱くて、涙も止まらなくて…大声で泣き出したっていいのに、まだ自体を呑み込めていない私の体は、どうも素直になってくれない。不条理な体液が瞳から零れ落ちる。

ヒルダさんが、居なくなっちゃう。私の元からも、男鹿くんの元からも…。声も聞こえないし、姿も見えなくなるし…触れることも出来なくなる。もしかしたら、何かの魔法で私の頭の中から、心から、指先から…私のヒルダさんとの思い出とか、ヒルダさんへの想いとか、ヒルダさんと過ごした大切な時間を…全て消し去ってしまうかも。ヒルダさんならやりかねないと思った。特に、私に対しては…彼女は酷だった。

「ヒルダさんの事が好きです」

想いを伝えてから、彼女は私にとても酷だった。何度も私の事を剣で突き刺そうとしたり、川とか溝とかに蹴り落としたり、高いところから落とそうとしてきたり、車の前に突き飛ばそうとしてきたり…具体的に私の事を殺そうとしているように思えた。男鹿くんになんで?って訊かれたけど、男の子に「女の子が好き」だなんて言い辛くって、どうしても相談できなかった。それでもどうしてもヒルダさんの事が諦めきれなくって、男鹿くんの家に通いつめた。私の事を見ると迷惑そうな顔をするヒルダさん。あからさまに早く帰れと態度に表されたとしても、一緒にいるだけで私は幸せで、顔を見られるだけで満たされていた。私の「好き」への返事は、聞けず仕舞いだ。

どうしてそんなに好きなのか、自分でも分からない。多分、一目ぼれ。もとから同性愛者だったわけじゃない。男性にもかっこいい人、素敵な人は居るし、好きな人が居た事だってあった。それでも、ヒルダさんに出会ってしまった。商店街で余所見歩きしている私が、電信柱にぶつかりそうになったのを、手を引いて、注意してくれたのがはじめての出会いだ。今思えば、どうして助けてくれたのかなんて分からない。男鹿くんに話しても驚いてた。だから、私は…どこかで、期待してしまって居たんだと思う。ヒルダさんは、私の事をよく思ってくれて居るのかも…なんて。

「ヒっルダさ…ヒルダ、さん…」

溢れる涙が止められなくて、夕日が沁みる。拭ったって視界は良くならなくて、足はもつれてこけそうになる。それでも、男鹿くんの家にはまだ距離がある。走るのは辞められない。本当に、ヒルダさんが居なくなってしまったら…。そんな事を考えて居ると、もう私はどうにもならなかった。ヒステリックに叫びながら、涙も鼻水も垂れ流したままフラフラになって走った。もともと体力があるほうじゃない。

「いやっ…ヒル、ダさ…ん!ヒルダさんッ!!」

とうとう立ち止まって、道端で泣き崩れそうになる。体を引き裂くようなクラクション。車が突っ込んでくる事なんて分からなかった。分かったところで反応できない。ただ、そのクラクションの音が体中に痛くて、怖くて、何も出来なかった。

ギシャーと、今まで聴いた事もないような凄まじい轟音が体を包んだ。パニックになって暴れだしそうになった震える私の体を、誰かが力強く抱きしめる。柔らかな感触。憧れていた香り。金色の髪が夕日に照らされて、息を呑むほどに神々しい。私を抱きしめるヒルダさんの背後では、車が漫画みたいにまっぷたつになってて、火花を散らしながら走っていた。

「ヒルダっ…」

触れた唇が、信じられなくて、夢を見てるみたいだった。だいたい、すべての事が劇的過ぎて嘘みたいなんだ。魔界から来たヒルダさんも、ベルちゃんも、男鹿くんの周りで起きることも、私がヒルダさんに恋しちゃうことも、車がまっぷたつにされちゃうだとか、いま、抱きしめられてキスをしている事だって。全部わたしの勝手な妄想で、作り話で、明日目が覚めれば全部忘れていつもどおりの生活に戻ってるんじゃないだろうか。そうじゃないと…そう思っていないと…。このキスだって、ヒルダさんに触れた感触も…全てが悲しすぎて、おかしくなってしまいそう。

「ヒルダさん…どうして」

嫌われているんだと思ってた。好きなのは、私のほうばかりなんだと思っていた。ただ、口を開いたヒルダさんが私と同じ色の涙を流してるから。こんなに悲しい事でも、どうにも忘れられそうにない。


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