ぶらり
勤め先の学校の教頭先生が、毎年奥さんと決まった時期に必ず同じ温泉旅館に泊まって、二人だけの時間を作るようにしてる。給湯室でたまたま鉢合わせたときに、互いの手と手には私用のマグカップを持ったまま、そんな素敵な話を聴いた。

「素敵な決まりですね、それって」
「そうだね、結婚生活を長引かせる秘訣かな」

教頭先生の左手の薬指に納まった指輪が、陶器のマグに当たってカチンと音を立てる。私はコーヒーの匂いに包まれながら掛け時計を眺めて、次の授業の事を考えていた。

「みょうじ先生は、温泉好きですか?」
「ああ、好きですけど…遠方まで赴くほど徹底はしてませんね」

スーパー銭湯なんて邪道ですよね?笑って続けると、教頭先生は少しだけ寂しそうに笑った。それは、「スーパー銭湯なんて…」という、軽蔑とか残念の表情ではなさそうで、なんだか少し、人を不安にさせる寂しげな笑顔だった。

「どうか、なされたんですか?」
「…それがね」


ホットスプリング

「ってことで、男鹿くん。私と温泉旅行とかどうですか?」「せんせー、一体全体どういうことなんですか?」

仕事(夜間警備)に行く前に、みょうじの家で夕飯食おうと思って家に寄った。ドアには鍵がかかってて、まだ家主が帰ってきてないことを語っている。鍵を探してポケットをまさぐると、はげたごはん君のキーホルダーに指が触った。ごはん君を掴んで引っ張り出せば、夕焼けを映して荘厳に燃える銀色の鍵。を、鍵穴にさす前に「おかえりなさーい」と、聴きなれた声。いや、それ…俺のセリフじゃねぇの?

ちょうどドアの前で鉢合わせたみょうじは、出勤用のカバンとは別に、小洒落た封筒を大事そうに持っている。俺が鍵を開けて、ドアを開けてやると満足そうに笑って「ただーいまー」とのん気そうな間延びした声をあげながら部屋に入った。後に続いて部屋に入ると、唐突に温泉旅行の話を振られた。

「なんかね、教頭先生が今年は忙しいんだって」
「んで、その夫婦旅行の時間が取れねぇって?」
「そう。でも毎年行くところだからって、いつも来年分を予約していっちゃうんだって」
「何だそれ、無責任な」
「えー、素敵だと思うけどなー」

キッチンに立つみょうじをテーブルに座って眺めながら、温泉旅行の詳細を聴いてみれば…貰い物だったわけか。カッターシャツにタイトスカートでエプロンを着けたみょうじが、その教頭と奥さんの習慣が素敵だー素敵だー言うから、なんだか共感できない自分が恥ずかしいような、不釣合いなような気がして気分が良くなかった。テーブルにつっぷして、もう黙ってしまって料理が出来上がっていく音にだけ耳を傾けた。みょうじが俺のほうを振り向いて、ちょっと笑ったような気がした。なんで笑われたのかも分かんねーし、本当に笑われたのかも分かんねーけど、余計に居たたまれなくなる。顔が熱くなってくのが分かって、目をつむって自分が触ってる部分だけテーブルがぬるくなって行くのを感じていた。

「男鹿くんは、温泉好き?」
「…んー、別に」
「あー、共同浴場とかダメなタイプ?」
「いや、そんな事も無ぇけど」

返される言葉がなくて、ふと顔を上げると、いつの間にか向かいに座ってるみょうじ。両手には2つマグカップを持ってて、あたたかい湯気が踊っている。

「じゃあ、私と一緒ってのが嫌?」

笑って、そんな事言うみょうじはズルい。顎をテーブルに載せたまま、黙って目線をそらした。嫌な、訳がない。でも、温泉旅行なんて…そんな…。あんまり良くない想像ばかりが、ゆけむり宜しく具体的な形もしないままに、もくもくと頭の中で熱く沸いていくのをとめられない。

「おりゃっ!」

変な声を上げて、みょうじがあつあつのマグカップを俺の頬に押し付けてきた。唐突で強烈な衝撃に、俺は声を上げて椅子から転げ落ちそうになった。ガタガタっと傾いた椅子が恐ろしい音を立てる。必死にテーブルにしがみつくと、みょうじが俺の手の上に、自分の手を載せてきた。

「行く?やめる?」
「…行きます」
「よろしい」





男鹿くんを無事に説き伏せて、ゆけむり温泉1泊2日のほほん旅行が週末に決行される事になりました。本当は私が車を運転して行けば、いろいろ都合がいいんだけど、やっぱりお酒飲みたいし、なんだか男鹿くん、私の運転苦手?っていうか…車苦手?いっつも助手席でカチコチに緊張してるから、なんだか可哀相なので…今回は電車を乗り継いでゆったり行く事になった。電車で行けない所ではないみたいで、教頭先生に訊いてみれば、最寄の駅まで旅館の方が車を寄越してくれるそうだ。さすが、常連様には対応が違うなあ!!

電車では男鹿くんにみかんを剥いてあげたり、男鹿くんにペットボトルの蓋を開けてもらったり、お互いに違う種類の駅弁を買って、気になったおかずをちょっとずつ交換したりして楽しんだ。やっぱり電車はいいなー。景色を眺めるにはちょうどいい速度だし、寝るにもちょうどいい振動だし、あー、電車いいわー…うーん…


田んぼ、田んぼ、田んぼ、ドでかい看板、田んぼ、畑、用水路、田んぼ、神社、田んぼ…なーんも無ぇ所だなー。流れてく景色…いや、正しくは流れてってんのは俺のほうなんだけど、そんな他人事な景色をぼうっと眺めてると、方にぽてっと軽い衝撃。

「ん?」

…ッ!!みょうじ、さんッ??!!眠ってしまったらしい、いや、確実に眠りに落ちているみょうじが、ぎりぎりよだれは垂らさないにしろ、薄く開いた唇と、ちらりと覗いた白い歯をてらてらといやらしく濡らして(?!)無防備にも俺の方に、傾いてきた。伏せられたまつげは長くて、柔らかそうで、まぶたにあしらった淡い化粧がどうしようもなく色っぽくて、…ああ、その…あんまり、その…うん、こりゃあ…あのー、な。そうそう、あんまり観察してると、良くないぞ。うん、良くない良くない。一瞬で顔が赤くなって、だからといって何か出きる訳でもないし、そしてさらには、何もせずに居られるかと問われれば胸を張って「YES」と答えられるわけでもないので、俺もとうとうそう言う、認めたくは無いが古市的思想を持ち合わせるようになってしまった立派な男であるから、そういうわけでして、うんと、その…気づかなかったフリをして、みょうじから視線を外して、また田んぼと畑と看板に意識を集中させた。

「ん、…ぅ…すぅー」
「がッ…!!」

寝息にすらこんなにも揺るがされてちゃあ…心配していた以上に、今回の温泉旅行は苦労しそうだ…情け無ぇ…。目的地まであと3駅…、電車が停車するたびに寄りかかってくるみょうじのあたたかい体に、俺はあとどの位我慢できるだろう…。なんだか色々と自身が無い…。


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