住めば都、走れば道、君は私

「私も何年か前に日本からここに越してきたの」

治安が良くて比較的田舎でそれでも便利性は欠かせなくて観光地みたいにやかましくないところ。彼女は指折り唱えて試すように俺の顔を見る。返す言葉も無い。

「藤麓介って言います。出身は常ふ」
「名前だけでいいの。お互い詳しい事は置いときましょ」

俺の言葉をさえぎって彼女は湯気の立つコーヒーに口をつけた。その言い方がひっかかる。彼女は俺の家出の事情をだいたい察していてそれを養護しようとそう言ってくれたのかそれともそんなことどうだっていいのかまるで興味が無いのか…お互い、と言う事は彼女自身も何かしら他人には言いづらい言いたくないような理由でここに来ているのか、それとも俺に妙な気負いをして欲しくないという優しさなのか俺みたいな子どもに話しても仕方が無いと舐められているのか…訊きたい事はたくさん在ったがそういうのは「置いときましょ」ということだから置いておこう。

「あー、えっと…みょうじさん」
「おなまえって呼んで。ここじゃ苗字で呼び合う習慣なんてないの」

私も麓介って呼ぶから。今度は本当に、俺を馬鹿にしたり皮肉言ったりするときにする笑い方じゃない本当の笑い方をした。少し頭をかしげると真っ白な首筋に髪が触れた。ぐるっと首周りが大きく開いた服はおなまえさんの鎖骨を最大限に美しく見せるために選ばれたもののように思えた。驚いた、今やっと気がついたけどこのひと美人だ。

「じゃあおなまえ…さん?」
「なに麓介?…疑問系にするくらいなら『さん』も要らないわ」
「俺まだ今日の宿が決まってないんだ、どっか紹介してくんないかな?」

テーブルの上にこの周辺地図を広げるとおなまえがぐっとみを乗り出して地図を覗き込んだ。その時コーヒーよりもずっと強く香るおなまえの匂いがさっきやっと気づかされた彼女の女性らしさをより見せ付けてくるみたいで急にひどく緊張した。それでも彼女のほうにはそんな気さらさらないらしく俺に「どの辺がいいの?」「勤め先とかどこ?」と問いかけてきた。緊張ゆえにそれにあんまり上手く対応できない俺を怪訝そうに睨むおなまえ。

「もしかして、お金ない?」
「あ…え?あ、金?なら…」

テーブルの上に重量感のあるリュックをどさっと置いてジッパーを開き、詰め込まれたジャケットを引っ張り出す。その下には万札が死体に沸いたうじみたいに乱雑に詰め込まれてる。まるで映画のワンシーンみたいだ。知らない土地、リュックの中の大金、誰も居ないカフェ、店から一歩出れば予定も約束も保障も何も無い、目の前には女。

「わ…なにこれ引くわ…」

麓介ほんとうは強盗とかしてきて海外逃亡してきたんじゃないの?本当に顔を引きつらせて俺を睨むおなまえ。そうじゃないんだと、学生時代にモデルのバイトをやっててそれが上手くいって結構稼げたんだと弁解すると一応彼女は納得した。もう一口ゆっくりとコーヒーを飲んでひとつ軽くため息をついた。

「そういえば麓介ってルックスはいいわよね」
「まだ知り合ったばっかでその言いようはどうかと思うけど」
「まだ知り合う前の女性をリュックで殴りつけるんだもの。中身に期待はしてないわ」
「わざとじゃないって、事故だよ」
「ふうん」

俺が取り出したジャケットをどうにかリュックに詰め込んでようやくジッパーを閉められた頃、テーブルに目をやるとおなまえが何食わぬ顔で俺のアップルパイをとって口にしていた。のん気にもぽろぽろとくずをこぼしている。

「それ!俺の…!」
「これも事故よ」
「んなッ…食いたきゃ自分で注文しろよな」

口の端についた蜜を指でくいっと拭き取りながらおなまえはじっと俺の顔を見てきた。胸元にはまだアップルパイのくずがついていて彼女はそれに気がついてないみたいだった。でも俺がそれを払ってやることはできない。

「麓介、うちに住めば?」
「は?」
「実はこのあたり、もうちょっと都会のほうに行かなきゃアパートみたいなの無いのよ。私は特別にビルの空いてる階を…打ちっぱなしのコンクリートむき出し板張りの難も無いとこを部屋として住まわせてもらってるんだけどね、すごく広いし私はあんまり家に居ないしお金たくさんもってるからって無駄遣いすること無いでしょ?私に任せてくれれば面倒な手続きしなくて済むしこのあたりの事も教えて上げられるし風呂トイレ付よ!」

唐突の提案に眩暈を起こすかと思ったけど彼女の提示する条件には目を見張る魅力がたくさんある。とりあえず、今日これいじょう宿を探したりするのが面倒くさい宿を見つけたところで手続きが面倒くさい飯を食うために店を探すのが面倒くさい早急に風呂に入ってベッドに寝転んでおやすみ3秒決め込めるくらいに実は俺は猛烈に疲れてた。そして『互いに詳しい事は気にしない』というおなまえのラフさが何よりも魅力だった。

「…そりゃあ至れり尽くせりだけど、なんでそこまでしてくれんの?今あったばっかの人間に」

そこが引っかかった。何か企んでるって感じには見えないけど大金を見せたのが悪かったのかもしれない。寝て居る間に持ち逃げされちゃあたまったもんじゃない。今度は俺が彼女を訝しく睨む。おなまえはそんな事訊かれるとは思わなかったとでも言いたげに素っ頓狂な声を上げ間抜けな顔をみせた。

「金目当て?」

単刀直入に訊けばおなまえは弾かれたように大きな声で笑い出した。腹を抱えて身をよじって笑う彼女になんだか余計な心配だったのかと自分が彼女の事を疑った事が慎重になりすぎた事が恥ずかしく思えた。

「笑い事じゃない。真面目なんだけど」
「う、うん…ひひッごめん、ごめんね…ふふッ」

ようやく笑いが引いた彼女はすっと腕を伸ばして俺のあごに手を添えて、くいっと上に持ち上げた。触れた手は案外と冷たかった。

「私ね面食いなの。格好いい子好きなのよ」

色っぽい目線でさらけ出された俺の喉仏あたりを見るおなまえにただならぬ空気を感じ、情けないがごくりと喉が鳴らしてしまった。するとおなまえはまた笑って冗談よと俺の頭をわしゃわしゃと乱暴に撫でた。

「日本人は私と麓介だけだもの。助け合わなきゃ…あと、」
「あと?」

「アップルパイ、食べちゃったし?」

からかわれてるんだ。確信した。


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