10.おかしくて特別な
夏休みに入って、日常的な学校生活とはどこかかけ離れた体育館での厳しい1日が続く。体育館に入って、立って居るだけでも圧してくるような熱い空気に汗が流れる。息すらしづらい気がする…。が、これも今年で最後なんだと思うと、じわりと侵蝕してくるような物悲しさを感じた。練習開始時間まで、思い思いの練習を続けるチームメイトたち。ボールが床を叩く振動音、チェンジオブペース、バッシュが最高速度で走り出す鋭い音…体に染み入るようなゴールネットを揺らす音…。見渡せば、見知ったメンバーの姿…。…あー、夏休みの課題…さっさと終わらせねぇとなァ…。IH出場メンバーだからって、課題が免除されるだなんてあり得ない…。結構な量出てたよな…みょうじが喚いてた…

IH予選は順調にコマを進めた。それは海常が強豪校たる所以、各選手のポテンシャル、血反吐を吐くような厳しい練習量を考えれば別段に不思議な事でもないが、だからといってここで満足していられる状況でもない。明日は準々決勝…対桐皇戦…、午後からの試合だから、今日は夕方までみっちり最終調整をした。部活からの帰り道、日中に温まった空気が風に乗って夕暮れの中を走って去っていく。夏季制服のシャツがバタバタと鳴って膨らむ。ほうけた脳みそで夏だなーなんて考える。


「あっ、いやァ…!申し訳ないですっ私も最近越してきたばっかりで…」

曲がり角の向こうからどっか聞き慣れた声…、っつぅかしゃべり方?テンション?

「あー!でも、ちょっと待ってくださいッ!あのケータイで調べられるかもッ!!えっと…え、駅…ですよね…ええっと…」
「ごめんなさいねェ…」
「いえいえっ!!困ったときはお互い様なんでッ!!って!ケータイッ!!いう事を聞けっ何を検索しているんだッ?!駅だよッ最寄駅っ!!東京とか嘘つくなっ!!」

あ、やっぱりみょうじだ…。角を曲がってみると、こっちに背を向けて、絵に描いたようなばあちゃんと向かい合ったみょうじが居た。思い通りに行かない自分のケータイを叱咤して地団太踏んでヒステリックに喚いてる…おいおい、ばあちゃんビビッてんぞ…

「はぁ…最寄り駅だったらこの道まっすぐ行って、大通りに出たら直ぐですよ」
「えっ?!なんだ?!ケータイだと最寄駅いくために電車に乗れって言ってるんだけど?!」
「まっすぐ行って、大通りまで出ればいいんですか?」
「はい、大通りに出れば直ぐに駅が見えますから」
「ご親切にどうもありがとう、お嬢ちゃんもありがとうね」
「あ、いやっ!!役立たずでごめんなさいっお気をつけてっ!!」

深く礼をして歩き出したばあちゃんにひらひら手を振りながら「お達者でー」みたいなずれた事を言ってる。楽しそうなみょうじの隣に立って、俺も一緒にばあちゃんを見送っていたけど…こいついつまで手ェ振ってる気だ…?

「…ふぅ、って?!笠松くんッ?!どうしたのっ?!」
「部活帰り、ってか…マジで今気づいたの?」
「ぎゃー!!プライベートな所を見られてしまったー!!うわー!!」

両手で顔を隠して道端でしゃがみこむみょうじ。プライベートって…、まぁ学校じゃねぇし私服だし…プライベートなんだろうけど…なんだその言い方は…。呆れて笑えずに居ると、指と指の隙間から、ちらりと目を覗かせて俺の様子をうかがい始めた。もちろんコスモスは不在…

「なに?」
「…部活、お疲れ様です」
「…あ、あぁ…ありが、とう」

なんだか、可笑しな空間…。両手で顔を隠したままのみょうじと一緒に、どうかしたのか近場の公園で雑談でもする事になった…。別に申し合わせたわけじゃないし、どちらかが誘ったわけでもない…。部活大変だねーとか、手ぶらで歩き回って何してたんだ?とか他愛も無い事を話していたら、ブランコと鉄棒と、滑り台と砂場だけという定番の公園にたどり着いてしまった不思議。ふぅ〜!!とか言いながらみょうじがブランコに飛びついたのをきっかけに…な、なんか!!…ほ放課後…放課後デート…!!みたいに、なって…しまった…。夏休みの課題がひと段落して、気分転換に散歩に出たらしいみょうじは季節の所為で極力薄着…といった感じで…隣のブランコに腰掛けると、その微妙な距離感に緊張する…。

「あ」
「…どうした?」

両手で顔を隠したまま、こっちを振り向く。な、なんか…泣いてるみたいで居た堪れない…。急に元気なさそうにうな垂れるみょうじに、身に覚えの無い勝手な自責の念に駆られた。…な、なにか失礼な…傷つけるようなことを言ったり、したりしたのだろうか?!気持ち的には居た堪れない焦燥感に立ち上がってしまいそうになったが、それよりも先にみょうじが顔を上げた。

「ブランコ漕ぎたいんだけど、顔が隠せなくなっちゃう…」
「…あ、あー…なんか、悪ぃ…」
「あ!でもいい事考えた!!」

両手で顔を隠したままバタバタと草むらに走り出したみょうじは、何かを探してもぞもぞを動き回る。大丈夫か?あんな草むら…、…虫とか、出てきても…あ、平気か、なんかみょうじは虫とか平気そうだな…。何をしたいのかよく分からないままみょうじが戻ってくるのを待ってると、でかい葉っぱに穴を二つあけて顔に押し当てた…なんか、ジャングルの奥地の原住民の中でも希少価値の高い恐ろしい占い師のような…ヤバイお面を自作してきて、自信に満ちた笑い声でブランコの方に戻ってきた。

「こわッ!!みょうじそれ怖いッ!!てかくっさッ!!その葉っぱ臭ェっ!!」
「草だけに臭いって?!わっはは!笠松くんすげぇ!!神奈川のギャグ王子っ!!」
「うるせぇよっ!!」
「ぎゃあっ!!」

ブランコを蹴っ飛ばしてやると葉っぱが落ちて、再び両手で顔を隠すみょうじ。不満げにぶーぶー文句を垂れて、でもさっきの面白いだなんてはしゃいで…俺に蹴りを催促する姿が、どうにも…なんつぅか…、…その、か…かわいいっつぅか…あ、あ愛らしい!!っつぅか…、無差別に女子に照れるのとは全然違う緊張に焦った。顔が熱くなるのは季節の所為じゃない。

「でも顔見せちゃダメなんだよー!勘弁してくれよーとっつぁーん!!」
「誰だよとっつぁんって…、いいから、もう…」
「お?」
「あー、っと…みょうじの方見ねぇから…顔隠すことねぇよ」
「おー!!」

授業中、俺がみょうじの事を見てた事、みょうじは知らない。言ってない、言えない…、…みょうじの事、見たって…コスモスが無くったって、大丈夫なのかもしれないって思えてきたんだ。みょうじがちゃんと間違いなく全部が女の子だって認知してても、もうお面越しじゃなくても…普通に、しゃべれるんじゃないかって、思い始めてる。隣できゃあきゃあブランコではしゃいでる女の子には、いつの間にか、どんどん…他の女子とは全然違った緊張ばっか感じて、そっちの方が遥に強烈で、口がきけなくなるとか以前に、心配停止しそうになる時がある。こういうのに説明プレートみたいなのつけると、あれか?プ、プライスレスの…こ、こここ…こっ!!

「笠松くんっ!!」
「いッ?!なっなんだ?!」
「明日なんだっけ?バスケットの試合っ」

森山くんからメールがあったんだーってと言いながら、頂点から地面に降りてくる。そこからまた頂点まで登っていくみょうじの華奢な背中を見届けながら自分の傍らに置いたスポーツバックの中のケータイを思った。…そういや結局、みょうじと連絡先の交換できなかったんだっけ…あ、いや…し、しなかった訳だけど…いまさら言うのも…なんだ…気恥ずかしい…し、…

「ああ、桐皇と…ったって知らねぇよな」
「うーん、申し訳ない…でも、強い学校なんだろうね?」
「おう、1年にすげぇヤツが居る…し、予選では全勝してる」
「おおー!!すごいなァ…!!全勝って私…すごいなァ…!!」
「ははッ全勝って私…ってなんだよ、それ」
「いやいや、へへ…全勝とかいかなる部門でも経験したこと無いなーって思ってさ」

みょうじの影が、大きくなったり小さくなったりするのを眺めていると一体俺の中の何が何をどうしたのかも予想がつかないが、小気味のいい緊張が胸を締め付けた。夕暮れに伴う哀愁?甘酸っぱい動揺?正体は知れない。とにかくくすくす笑うみょうじが、それだけなのに、すげぇ尊い物のように思えて…馬鹿馬鹿しいけど、可能ならば…俺の人生の中で持て余す時間を切り取って、今ここでみょうじとの延長時間に使っちまいたい気分だ…、…なーんつって…ははは…。…あー、なんだこれ…顔が緩む…ニヤニヤして、きもち悪ぃな俺…

「あのさ、みょうじが良ければ…だけど…明日の試合」

キぃっと鎖が鋭くなって、みょうじの影が形を変える事をやめた。気取られないように、極力抑えた深呼吸を1つ。みょうじに向き合って、顔を見て伝える度胸をつける。

「見に来っぶっふぁッ!!」
「ちょっ!!いきなりこっち向くからびっくりしたよっ!!」

振り向いた瞬間にブランコから飛び降りて地面に突っ伏して丸くなるみょうじ、の、いきなり背中を丸めた所為でずり上がった服と、ずり下がったズボンから覗く肌とパンツ。衝撃に立ち上がると、動揺にコントロールが効かなくなった体…ブランコに足が引っかかり尻から後ろ向きに地面に落ちて大惨事。

「う、わっはは!!あははは!!か、笠松くん!!笠松くん大丈夫?!お尻へへへっかさまつくっはははは!!!!」

ブランコの前方にうつ伏せて丸くなったみょうじは腹を抱えて大爆笑。ブランコの後方に足をブランコに引っ掛けたまま尻餅をついて夕焼け空を仰いでいる俺…なんつぅか…空気ぶち壊しっつぅか…俺かっこ悪ぃ…

「で、えっと…明日がっひひひ、なんだって?」

顔を隠して俺の横に移動してきたみょうじに、そっぽを向いて笑いすぎだと悪態をつくと、またうひひっとか変な笑い方をした。

「試合観に来るかって訊こうと思ったけど、笑うならやっぱやめ…」
「っ行くッ!!絶対行くッ!!バスケってあんまり分かんないけど行きたいっ!!」
「え…あ、まぁ…だったら…こ、来れば、いいんじゃね?」
「やったー!!いぇーい!!がんばろうねっ笠松くん!!」

いったいみょうじは何をがんばるのか、分かんねぇけど…明日の試合、俺ががんばるのは当たり前で、それでも彼女の激励は大変な力を持つ言葉のように思えた。
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