喰われる者
夕方の校内の施錠をすませて保健室に戻ってくると、そこには一人の女子生徒が居た。保健室の中は不気味に暗く、差し込んだ夕日は日々磨きぬかれた床だけを赤く染めていた。そんな中で、どこか遠くをぼうっと見つめるようにあるいは眼球だけは何かを捕らえていても気持ちはどこかに忘れてきてしまったように…立っているというよりは立ち尽くしたといっていいほど放心しているように見える人影があった。うちの学校の生徒だ。俺はそっと彼女に寄り、向かい合わせにたつ。

「みょうじさん、みょうじさん?」
「…」

ぴしりと頬のヒビが伸びる。ああ、またこの子は…

不透明ににごっていた彼女の瞳はようやく俺を捕らえて、膜一枚向こうでぎらりと光った。だらりと開けっ放しになっていた口はにやりと歯を見せてゆがめられる。病的に白くなった肌。首は細く筋張っている。はっはっはと浅い呼吸を始めたみょうじさんはその獣的な表情に反して、弱弱しくすがるように俺の白衣のすそを握った。たらたらとよだれをたらして少しずつ前後に揺れ始めた体は軽そうで、徐々に何かの干物のようにからからと干からびていく。俺はぐっと手に力を込めて、それを彼女に振りかざした。

「あぁ…」

病魔を抜いてやると彼女の体は元の、健康的な体に戻った。脱力して足が崩れ、倒れそうになったのでそれを抱きとめてやると体は冷たく、そして細く、柔らかだった。俺の胸に頬を寄せるような体勢のみょうじさんは体勢を整えようとも、動こうともしなかった。ただただ恍惚とした表情でどこかをぼうっと見つめていた。よだれで濡れた唇を閉じ、ごくりと生唾を飲むと、やっと俺から離れた。何事も無かったように俺の前に立ち直り、にこりと笑う彼女。背筋がぞくりと寒くなった。

「みょうじさん、こんな事やめなさい」
「…何のことですか?」
「何のことって…!こんな風にわざと病魔に罹るようなこと…」

ごまかそうとする彼女にそう怒鳴ると、しゅんと花が枯れてしまったように表情を曇らせて彼女は自身の手をきゅっと握った。

「私、心が弱いんです…だからいつも…」
「嘘をつくのはやめなさい、君は本当は自制心の強いいい子じゃないか」

彼女は、何を考えているのかわからないが…いつもいつも微弱な病魔に罹り保健室に訪れては俺の処置をねだる。はじめは本当に病魔にかかりやすい体質なのかと思い喜んで処置をしていた。しかし次第に感じ始めた不安、彼女の罹る病魔の性質、その頻度、そして何より「保健室まで来る」という彼女自身の意思が通用する、病魔に罹っていながらのその自我の強さ。俺は違和感を覚えた。まさか、この子は…。

「君は…」

そんな事するやつが居ると、思えなかった。自分から病魔に罹って何の得があるというのだ…。自分がそうしているから、その行為がどれだけ危険な事なのか、どれだけ無謀な事なのか…とにかく、正しい判断とは思えない。しかも彼女は病魔に対してあまりに知識が無さ過ぎる…。何が目的か知らないけど、こんな事続けさせるわけにはいかない…

「自分から、病魔を取り憑かせているんじゃないか…?」

俯いて打ちひしがれたようにしていたみょうじさんの方がぴくりと揺れた。ゆっくりと顔を上げて俺をじっと見つめるその瞳は何かに陶酔しきっているようで、恐ろしく不気味なのに、どこか艶っぽかった。

「それって、いけないことなんですか?」
「…ッ!やっぱり、そうだったんだね…」
「だって」

ふらりと俺の体に身を寄せるみょうじさん。その体は先ほどのそれとは信じがたいほどに熱くなっていた。発熱しているようでもあったが、それにしては肌の色が白すぎた。少し爪の伸びた細い手をひたりと俺の胸に添える。何を考えているのかわからない彼女への恐怖、何かに責め立てられているような焦燥感に息があがる。

「きもちいんだもん」

ぽそりとつぶやいたその言葉に耳を疑った。びっくりしすぎて、口を聞くことも出来なかった。するりと俺の胸から手を放し、体を離し、いたずらっぽくみょうじさんが微笑みかけてきた。気持ちがいい?なにが?どういうことだ?この子は、この子はおかしいのか…?

「病魔に罹ったときの、自分が自分じゃなくなる感じ。ふわあって空に飛んじゃうみたいでちょっと怖いんだけど、痛くもなんともないからくせになっちゃって…」

くすくすと笑うみょうじさんは、まるで普通の女子学生が友達との談笑の間にこぼすそれのように純粋に見えた。そんな事が、あるのか…?病魔に罹られるのが気持ちい?そういえば彼女が罹る病魔は決まって複合型だった…でも、まさか…病魔に罹るのが気持ちい…なんて考える人間が…いるなんて…。俺は目の前で頬を染めて笑う少女が怖くなった。この場から逃げ出したくなるほどに…

「でもね、いっちばん気持ちいのは…先生に病魔をとってもらうとき」

知ってた?私先生に病魔とってもらうときにいつもイっちゃうの…恥ずかしそうにそうつぶやいて丈の短いスカートをこちらに向かってめくる彼女。小さな下着を見せ付けられる。すぐに目を伏せたが、それは一目見ればで分かるほど濡れていて体にぴったりと引っ付いていた。目を伏せた俺をくすくす笑う彼女は、テーブルに乗せてあったかばんを取って保健室を出て行こうとした。

「君は、おかしい…」

そうつぶやくと、彼女はそれが気に障ったのかこちらに戻ってきた。さっきよりもずっと攻撃的な瞳で俺を見た。まだ、何かに攻められているような気がして萎縮する。彼女はそんな俺を見て優しく笑い、手を伸ばして頬に触れてきた。ひびをなぞるように…

「先生は、病魔に罹っててそれで病魔に罹った誰かを助けてあげてるんでしょ?かっこいいよねそれって。だって、病魔に罹ってる自分が居なきゃ、みんなが病魔に苦しめられちゃうもんね。先生の病魔は正当化されて意義を持ってて、先生にも、みんなにも守られた存在なんだもんね」「…な、にが…言いたい?」
「私に罹った病魔は今頃先生に罹った病魔にむしゃむしゃ食べられちゃってるのかな?そうしないと、病魔に病魔を食べさせてないと先生ってどうなっちゃうの?困るんだよね?きっと…じゃあ、私が病魔に罹って来る事って嬉しいことじゃない?ご飯よそって運んできてくれたーみたいな感じじゃないの?居なきゃ困るんでしょ?私みたいな弱くて、いっつも何回も何回も病魔に取り憑かれちゃうかわいそうな子が」
「そんな事…」
「あるでしょ?じゃなきゃ先生、自分の中の病魔に食べられちゃうのよきっと。」

何もいえなかった。言葉に押しつぶされて殺されそうだ。胃が切りきりと痛んで吐きそうになる。目の前の彼女が怖くて、自分の事を責められて…歯までかちかちと鳴り始めた。

「でもね、私…いやじゃないのよ?先生がそうやってヒーロー面してるの。病魔がいないと何にも出来なかったとしても…」

膝ががくんと床につき、体が震え始める。彼女がおかしくなったのは、俺の所為だとでも言いたいのだろうか?俺は、俺は…そうだ、病魔を退治する事に何を見出していたんだ?必要とされる自分?でもそれは…結局病魔のおかげなんじゃないか?何を考えて、何を解決すれば楽になるのか、嫌な考えばかりがぐるぐる体中を駆け巡り、そのスピードと量の所為でどれ一つとして手にすることが出来ない。ただ膝をついた俺を覆うように抱きしめた彼女の胸に、一思いに嘔吐した。口の中に酸の味が広がり、異臭が鼻を突く。彼女の服を盛大に汚してしまったが、それでも彼女は俺のことを放そうとはしなかった。

「好きよ?先生。大好き」

その声色に、もう一度嘔吐した。


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