白ヤギさん
貢広が事故にあったと聞いてすぐに病院に飛んで行った。病室に入ろうとするとお医者さんに声をかけられた。

「みょうじおなまえさんですか?」

どうして私の名前を知ってるの?


貢広は記憶喪失になってしまったらしい。えー、そんなドラマみたいなこと貢広には似合わないよ、お医者さん嫌な冗談やめてよーもう!はははは

「安田さん、調子はどうですか?」
「ああ、先生…」

先生と一緒に貢広の病室に入ると、痛々しい包帯姿の貢広がベッドに横たわっていた
。貢広がぼうっとした顔で私と先生を交互に見つめる。

「こんにちわ」
「…ほッ?あ…こ、こんにちわ…」

こくっと小さく会釈をする貢広。びっくりして変な声がでた。アホみたいにこんにちわと返す。貢広は私の事が判っていないようだった。100歳のおじいちゃんがケータイを不思議そうに見つめるように、貢広も私の事をごく自然に、不思議そうに見つめた。背中につめたい汗が湧き出た。膝が大爆笑。めまいさえしてきた。

『何が起きてもおかしくない。取り乱したりしないでください』

病室に入る前お医者さんが言った言葉。何が言いたいのかよくわかってなかった。とにかく貢広の安否がしんぱいだった。記憶喪失なんてドラマの中のお話だと思ってた。まさか本当に頭の中に消しゴムなんてものは存在するのか。貢広にとって私はその消しカスなのか。

「先生、あの私はちょっと…あの」

もごもごしゃべりながら病室から飛び出した。外にいた看護師さんに抱きしめられて、ちょっとはなれた待合室で泣いた。


今日から私は『ヘルパー田中さん』だ。私の事がわからなくても貢広のそばに居たかった。それが恋人である私の役目だと思った。お医者さんは記憶喪失はとてもデリケートな障害で、あまり記憶を刺激するようなことはよくないやめとけなんちゃらかんちゃら言ってたけど、私には関係ない。ユーキャンでなんか介護士の免許取っといてよかった。私の事は覚えて居るんだ。みょうじおなまえの事を覚えて居るんだ。だったら、私が一緒に居たほうが、顔は覚えていなくても…貢広としては嬉しいんじゃないのだろうか?私をきっかけにすべてのことを思い出してはくれないだろうか?ドラマと一緒なら、そのうちに…こけた拍子にとか、夢を見てとか、なんかいろいろで私の事思い出して『ずっと、一緒に居てくれたんだな…おなまえ…』って優しく抱きしめてくれる、ハッピーハッピーエンドが待っているはずだ。

初めて貢広が自分から私に話しかけた。

「みょうじおなまえって常伏高校卒の女の人の住所が知りたい」

このときはその瞬間に体中が大爆笑した。歯までかちかちなりそうに鳴った。涙をこらえると、眼球がぎゅうっと痛んだ。私は気色の悪い笑顔を貢広に向けて「かしこまりました!」とか叫んだ。そうだったと思う。それから看護師さんたちの休憩室でぎゃあぎゃあ泣いた。

貢広から薄ピンクのシンプルな封筒(+切手代)を渡された。

「投函しといてください」

投函なんてしてやるもんか。宛名、みょうじおなまえは私なのだ。

『こんにちわ、安田貢広です。こんな書き出しっておかしいのかな?』

汚い字だ。

『みょうじおなまえさん。俺は事故にあって、記憶をなくしてしまいました。』

定例文か。

『自分の名前だって、忘れてしまいました。びっくりですよね』

敬語キモい。

『それでも、みょうじおなまえさんを好きな事を覚えていました』


『見舞いに来てくれる同級生の中に、知ってる顔はありませんでした』


『それでも俺はみょうじおなまえさんを好きだったことを覚えていました』


『よければ会いたいです。顔を見て、俺と貴女の話を聞かせて欲しい』


『毎日毎日、みょうじさん(おなまえさんって呼んでたのかな?)の事を考えます。』


『好きで好きで苦しくなります。大好きです。今の俺には、それしかありません』


『おなまえ(なんとなくこれが一番しっくりするのでこうやって書かせてもらいます)はお仕事が忙しいのかもしれないけど、できるなら、会いたいです。』


『俺は記憶を取り戻したいと思っています。でもそれ以上におなまえに会いたいです。会って…どうなるってわけじゃないんですけどね。ははは(笑ってる音をこうして書くのってなんだかとても妙な気分です)』


『会いたいです。好きです。愛してます。病院の住所を同封しておきます。会いにこれなくても、お返事が欲しいです。よろしくお願いします』


顔も紙もぐしゃぐしゃにしてしまった。

あの日から毎日毎日、貢広から手紙が届く。貢広から『田中さん』あるいは看護師さん伝いでみょうじおなまえに届く手紙は毎日愛の言葉と会いたいと言う言葉で埋まっていた。医者に相談したら、難しい話だといわれた。どうするかは私に任せるといわれた。とにかく毎日受け取った。毎日鼻水をたらしながらそれを読んで、貢広の体温表を記入した。泣きすぎて死ぬことがあるなら今だろう。

「ねぇ、田中さん」

おなまえって呼んでよ

「はい?」

「俺の記憶は、いつ戻ってくるのかな?」

知らないよ。私が聞きたいくらいだ。

「…私にはわかりません」

「お医者にもわかんないんだもんな、田中さんにはわかんないよね」

おなまえだってば

「失礼ですね、安田さん」

「あ、傷つけた?」

毎日だよ、貢広が私の事『田中さん』って呼ぶたびに傷ついてる。

「ものすっごーく」

「ごめんね、あッ!やっべぇ…」

ぺらぺらの便箋に一生懸命、みょうじおなまえへの愛をつづる貢広。となりに居るんだよ。手に触れてしまおうかと思う。私がみょうじおなまえなんだと言ってしまおうかと思う。貢広はなんだか便箋のことを愛しているように見える。

「また、書いてるんですか?」

「…うん。俺にはこれしかないから」

涙が溢れる。私が居るじゃないか。貢広には…。私こそ、それしかない。大好きな貢広は顔を合わせても愛をささやいてはくれないくせに、便箋にはたっぷりそれをぶちまけてくれる。まるで便箋に愛を注いでいるみたいだ。私じゃない。ヘルパー田中さんでもみょうじおなまえでもない。

「みょうじは、いつ返事くれんのかな?」

誰からの返事が欲しいんだお前は

「…私にはわかりません…」

「そうだよな…みょうじにしかわかんねぇよな…」

私にだってわかんないよ、返事書いたら貢広は私の事思い出すの?

「安田さん…本当にみょうじさんの事が好きなんですね」

声を絞り出した。微笑んでみる。貢広も笑う。私に?田中さんに?みょうじさんに?悲しい悲しい悲しい

「よろしくお願いします」
「かならずお届けします」

受け取った便箋。私だって愛してるよ、安田に会いたい。私の事、おなまえって呼んで下品な冗談言ったり、ぎゅうって抱きしめてくれたり、エッチなことしてきたり、恥ずかしそうに手つないできたり、頭撫でてくれたり、たまにイラつかせてきたり、癒してくれたり、優しくしてくれたり…私を愛してくれる安田に会いたい。

たまにみょうじおなまえで居ることがイヤになる。本当にヘルパー田中さんになって、赤の他人として貢広のそばに居られたらいいのに。好きとか愛とかに縛られずに貢広のことを助けてあげられたらいい。それでも私はみょうじおなまえで、安田の愛する女性で、愛をつづった手紙の宛てだった。すっごい苦しい片思いをしてるみたいだよ貢広。お前もそうなのかな?

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