黒ヤギさん
俺は事故にあったらしい。自分の身に起きた事なのに、『らしい』だなんて他人事みたいに語るのは実におかしな事だと思うけど…俺にはとにかく『〜らしい』としか言いようがないんだ。だって覚えてないから。 『頭を強く打った所為でしょう、大脳辺縁系が強い衝撃を受けてどこか損傷してしまったのか…記憶を管理している…なんといえばいいのでしょうね?ううん、今まで経験したことなど、思い出などが時間別、種類別にしまってあったタンスの引き出しが開かなくなってしまったと言えばいいのでしょうか…?』 記憶喪失らしいです。こんな簡単になっちゃうもんなんですね。 はっきりしないお医者は10人に向ければ8人は癒されちゃうような、残り2人は不快になっちゃうようなそんな微笑を俺にむけた。もちろん俺は残りの性悪の2人の1人だ。 「とにかく今は怪我の治療を優先させましょう」 …記憶を取り戻す訓練はその後でも遅くはないでしょう。 遅いかどうか決めるのは医者じゃねぇ、俺だろ? 同級生(デブ、やせっぽっち、黒髪の女、おどおどした男)が見舞いに来たけど、全然判らなかった。学生時代の話をされても、懐かしむ事ができなかった。6つの悲しそうな目(やせっぽっちは悲しそうにはしてなかった…ように思う)が俺をれろれろと舐め回すように、居心地悪そうに動いた。別にそんなに悲しむ事じゃないと思うんだけど…。お前らの事を覚えていないのは悪いと思う。本当だ。デブが持ってきた写真(すごく少ないのだけど…)を見ると俺とデブは結構仲がよさそうだった。そういうのを見ると、おれだって、ちょっとは悲しいとか思うぜ。悪いとも思う。 「ちょっと、訊きたい事がある…んすけど…」 「敬語なんてやめろよ!キモイよ安田ッ!」 「どうしたの?何か、思い出しそうなの?」 デブと女が湧く。俺は包帯を巻いた頭に手を添えて、俺の頭の中で大事にとっておいたソレを手に取る。あたたかくて柔らかくて大事なものだ。 「みょうじおなまえは、どこに居るんだ?」 病室に居た人間がみんな、ふっとろうそくの火を吹き消されたように悲しく静まった。女は目に涙まで溜めた。 俺が唯一覚えてる事。みょうじおなまえ。同級生で、恋人だった。多分俺が事故をした時も恋人だったと思う。ただ、こいつらみたいに見舞いに来ないってところを見ると、俺はみょうじおなまえにあまり愛されていないのではないかと思う。見限られたのか、もともとそんな冷めた仲だったのか、倦怠期なのか…。でもとにかく。俺はみょうじおなまえが大好きなんだ。それこそ、胸がはちきれんほどに。 事故にあって、病院に運ばれて、意識を取り戻し、医者に自分の名前を確認してくれといわれたとき。俺はのどの奥で言葉を詰まらせた。さらりとでてくるはずだ。自分の名前だぞ?そんなの簡単なはずだ。『日本の首都は?』「東京」『君が居るここは?』「常伏記念病院…B棟?」『そうだよ。これは?』(医者が何かを差し出す)「ボールペン」『これは?』「カルテ…たぶん俺の、かな?」『じゃあ、君の名前は?』 医者は意地悪く、カルテの端にある『氏名:』から後を、太い指で隠した。…俺は?俺の名前…?…?…??…??? 「何か思い出せることは?」 「…みょうじ、みょうじおなまえ…」 「誰かの名前だね?お友達かな?」 「…俺の、好きな人…だと思います」 「…そうか…」 診療室のすみっこで若い看護師さんが苦しそうにため息を吐いた。(なんて可哀想なんだろう)なのか(まぁ、ロマンチックなお話)なのかは知らない。 「安田くん、みょうじさんの事は覚えてるの?」 「…それしか、思い出せない…」 「安田、みょうじなら…」 デブがいっそう悲しそうな目で俺を見て、肩に手を添えてきた。女のほうは俺に気づかれないようにそっと涙をぬぐった。おどおどした男も、唇をかみ締めて一生懸命泣くのをこらえているようだった。やせっぽっちは「ふぅ」っと苛立たしげなため息をついた、あるいは俺がそんな風に感じてしまうのは、俺とやせっぽっちの仲はあまりよくないものだったからなのかもしれない。デブが肩に添えた手に力を込める。 「もう、みなさん!面会の規則を守っていただけないのなら追い出しちゃいますよ?」 ぱっと現れたのは、ヘルパーの田中さん。小柄だけどパワフルで可愛い人だ。日中入院病棟をくるくる回ってはじぃさんばぁさんの面倒を見たり、小さな子どもの話し相手になったり、忙しい人だ。足を骨折してる俺を車椅子に乗せて散歩にも連れて行ってくれる。みょうじの事を忘れていたら、彼女に新しい恋心を抱いていてもおかしくはないと思った。元来おれは女性好きな性質の様だ。 面会の規則(安田貢広) 午前11:00〜午後5:00 差し入れ自由(酒類は禁止) ※記憶の詮索は禁止。患者さんを混乱させるような言動もおやめください。 「ねぇ、田中さん」 「はい?」 「俺の記憶は、いつ戻ってくるのかな?」 「…私にはわかりません」 「お医者にもわかんないんだもんな、田中さんにはわかんないよね」 「失礼ですね、安田さん」 「あ、傷つけた?」 「ものすっごーく」 「ごめんね、あッ!やっべぇ…」 シンプルな便箋に0.38の黒ボールペンで文字をつづる。『頑張る』の『頑』の字を書き損じた。俺の手元をちらりと覗いた田中さんがくすりと笑う。 「また、書いてるんですか?」 「…うん。俺にはこれしかないから」 俺が毎日シンプルな便箋に0.38の黒ボールペンで文字をつづるのは大好きなみょうじおなまえのため。田中さんに調べてもらって聞いた、みょうじおなまえの家の住所にも何か記憶の淵が引っかかる事はなかったけど書いた。『好きだ』って事『記憶をなくしてしまった』事、『会いたい』『顔が見たい』って事。『今の俺にはみょうじおなまえしか居ない』って事。毎日書いて、夕方に体温を測りに来る田中さんや看護師さんたちに渡して投函してもらう。返事は来なかった。でも書いた。だって本当に俺にはそれしかないから。 田中さんが目にたっぷり涙を溜めて、顔を伏せた。なんとなく罪悪感を覚えてしまう。俺はこうやって、何人も看護師さんを泣かせてしまっている。たまに男のお医者も泣く。みんなは俺に気取られないようにすぐに涙を隠した。それは俺だって一緒だ。夜に、どうしても悲しくなる。大好きなみょうじおなまえ。どうして会いにきてくれないんだろう?俺にはみょうじおなまえしか居ないのに…。愛しすぎて涙が出ることなんてあるのか、不安で体が震えるなんてことがあるのか…新しく俺の体に刻まれていく記憶は悲しいものばかりだった。 「みょうじは、いつ返事くれんのかな?」 「…私にはわかりません…」 「そうだよな…みょうじにしかわかんねぇよな…」 「安田さん…本当にみょうじさんの事が好きなんですね」 涙をぬぐって、俺に微笑みかける田中さん。不覚にもどきりとしてしまう。それでも、頭に染み付いてるみょうじおなまえがその『どきり』を罪悪に変えてしまう。俺もぎこちない微笑を返して、みょうじおなまえへの愛をつづった便箋を抱き込んだ封筒を田中さんに渡した。 「よろしくお願いします」 「かならずお届けします」 天気のいいのどかな中庭を見ていると、無性に誰かに触れていて欲しくなる。ほら、花壇を飛び交うちょうちょにだって相手が居る。俺はもういっそうのこと大好きなみょうじおなまえの事も忘れたいと思った。正直な話。 |