匿名希望
かちり、かちり。事務所の中央、誰からも見れる位置を陣取っている大きなアナログ時計は私たちの番人。彼が許すまで私たちは無条件にこの部屋を出る事は許されない。かちり、かちり。もうそんな時間。まだそんな時間。各々の思惑を抱いて彼の表情に一喜一憂する。ただ、彼のことが好きになる瞬間がある。数分ごとに何度も何度もちらりと盗み見る。ああ、まだかまだか…早く来い、定時…!!

ああああううう!!かちり。彼がまた1時間刻んだ。お、終わらない…!!仕事が終わらない!!もうすでに彼の顔には午後9時という恨めしい時がうつし出されているというのに…!!なんで机の上にはこんなにたくさんの仕事が、仕事が…!仕事がぁあああ!!明日までにまとめて置いてください。今日中にコピーとって置いてください。午前中に終わらせて置いてください。午後には取りに来てください。定時までには済ませて置いてください。でも残業はあんまりしないでね?…上司、先輩、同僚の命令、依頼、お願いがまるで意味の分からないラップの歌のように聞こえる今日この頃。なんで私?とも言えず受け入れてしまっていたらこんな時間…。なんでやねん…なーんでーやねーん!!ようし、あんまりっ使ったこと無い関西弁で気分をリフレッシュだ。せめて今日中には帰りたい…!!私のデスク周り以外は真っ暗になってしまった事務所(情報処理部)は、暗闇の中でもパソコンやらプリンターやらの待機中だかなんだかの小さな光がぽつりぽつりと点灯していて不気味だ。もう、会社には私しか残っていないのだろうか?

「…はぁ、なんで私に頼むのかなぁ…」

仕事は出来るほうじゃない。どちらかといえば出来ないほうだ。横に築かれた書類の城の端を、指でなぞりながらため息が出る。叱られ役は私か…。先輩にはもっと工夫してやれっていわれた。だから自分なりにがんばってみた。それを提出してみれば課長は言われたとおりにやれって怒った。同僚に相談したら上手にやれよっていわれた。上手ってなんやねん…。がんばってるんだよぉ…私なりに。自分の仕事で手一杯なのに人から仕事を任される。断る事ができなくて、全部こなそうとして焦ってミスして怒られる。なんてひどい無限ループ…。誰か助けてー!!なんて劇的なこと言えない。だって助かりたかったら断ればいいんだもん。わかってるよ、わかってるよぉおおお!!でもさ、でもさ!!断れないんだもん!断ったらその仕事どうなんの?!どこ行くの?!やらなくていいことになんてならないでしょ?!だぁかぁらぁ!!私がやらなきゃいけないんでしょ?!そう言う事でしょ?!ねぇ神様ッ!!そう言う事だって言って!!そうすれば私だって雑用押し付けられてこんな時間まで惨めにもサービス残業してるんだって悲しくならなくて済むのよッ!!

「…がんばってるんだけどなぁ」

寂しい時って悲しい事ばっかり思い浮かぶ。一人の時って独り言に拍車がかかる。暗い時間って涙がこぼれそうになる。お腹がすいてぐぎゅううって悲しい音が事務所に響いた。

プルルル…プルルル…

「っえ?!」

内線電話だ。…誰だろう?こんな時間に…?っていうか、誰かまだ会社に残ってるのかな?ど、どうしよう…。これってもしかして、心霊現象的な…?昔会社のいじめに耐え切れずに自殺した女性の自爆霊とか?!仕事が大変でノイローゼになってビルから飛び降り自殺した男性社員の霊とか…?!?!どどどど、どうしよう…!!怖すぎる…!!

プルルル…プルルル…

で、出なきゃ…やまないもんね?ううーん…どうしよう、怖いけど…ん?内線(11)?…あ、営業部だ…。

「はい、もしもしみょうじ」
『僕ぅは知ってるよぉ!ちゃんと見ぃてるよぉ!!がんばぁてる、君のこっとぉ!!』
『おい!安田てめぇうるせぇぞ!!』
『ちょっ!!先輩!!名前呼んじゃダメッ!!匿名の応援メッセージしてたのに俺ッ!!』
『ん?何おしゃれな事してんの?ああ!もしかして噂の情報処理のみょうじちゃん?みょうじちゃーん?!』
『うっわ!先輩うっぜぇ!!絡まないでくださいッ!!』
『みょうじちゃーん!こいつあれだよ!営業部の問題児安田貢広だよー!!みょうじちゃんのことす…』

ぶつッ…っプー、プー

一方的に切られた。大きな声で歌われた歌。ちょっと昔の車のCMで流れてた歌だ…。営業部の安田くん。たしか同期だ…。親睦会で一緒になったことある…気がする…。ちょっと目つき悪くて、なれなれしくて…怖かったけど…

『僕は知ってるよ、ちゃんと見てるよ。がんばってる君の事』

だって…。『みょうじちゃんの事す…』?酢?…素?あの歌の続きの歌詞を思い出して顔が赤くなっていくのがわかった。安田くん、かぁ…。彼の顔を見上げると、いつの間にか9時30分。…ようし、絶対に今日中に終わらせて帰ってやる。それで明日、営業部の事務所に行って安田くんに報告しよう。がんばりましたって。ちゃんと見ててくれるかな?電話の向こうの営業マンに想いを馳せながら、キーボードを叩く私の指は、始業時間よりももっと軽やかな動きで働き始めた。


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