落ちないように
クーラーが効き過ぎてると思った。

全国の学生の必死の祈りもむなしく、夏休みと言う極定期的でかつ限定的なモラトリアムはもうケツを見せ、今明るくさようならとでも言うように手を振って別れを告げようとしている。夏休みの癌である課題を終らせていない奴らはきっと、朝には暑いからやる気が出ないと言い訳して、夜には眠たいから出来ないと嘆いて、結局は提出日前夜に泣きながら勉強机にしがみつく羽目になる。まぁ、あんなの期限に間に合えばなんでもねぇ。でも俺はもう、そんな心配は要らない。ちょうどさっき課題は全て終らせたからだ。午後になりたての空は明るくて、部屋の電気をつけるのをもったいなく思った。外に比べて少し暗いだけ、と言う俺の部屋の真ん中に仮設置されたテーブルには俺とみょうじの課題やらシャーペン、消しゴム(消しカスとあえて表記しないのは、それは消しゴムと消しカスというのは表裏的な関係だからだ。例えばトイレとトイレットペーパーのように、切っても切れない関係なんだ)ポテトチップスのカス、麦茶が入ってたコップが残した、切れ切れになった水滴の輪が渇こうとしている。持ち主である俺とみょうじはというと、低い位置から始まったガラス窓に背中を預けて、俺の、半袖から伸びた腕とみょうじのシンプルなワンピース(ほとんど下着のようだ)の肩ひもを乗っけた肩から滑らかに生えた白くて細い腕が引っ付くくらいの距離に居る。何をするでもなく、投げ出された足の爪をじっと見てた。みょうじは何をしてたか知らない。

背中に触る窓ガラスは少し暑いくらいで、外の世界が溶けそうなほど暑いんだってことを唯一、俺たちに教えてくれる。背中はあったかいのに体のほうは少し鳥肌が立つほど冷えてて、クーラーの温度を上げるか、あるいはもう電源を切ってしまうか…でも、リモコンをとりに行くのがめんどうだなあ…なんて考えてた。

「すごく寒いの」
「あ、クーラー切る?」

みょうじが急に口を開く。みょうじの方に顔を向けると、みょうじもやっぱりさっきまでの俺と同じように、自分の足の爪の方をぼうっと見つめていた。小さく首を振るみょうじ。

「違うの。夢の話。最近よく見る夢」
「どんなのか訊いてもいいの?」

みょうじはたまに変だ。いつもはにこにこしてておもしろい事言ったり、まぁ言わなかったり、歌ったり甘えてきたりキスしたそうにしてきたり。普通に可愛い彼女だ。でも、なんかの拍子に、例えばこの間は道路でネコが死んでたときとか。アリが死んだちょうちょを運んでる時とかなんだけど、急に無口になって、しゃべってもぽつりぽつり言葉をこぼすだけで、しかも変なことを言う。ネコは本当は車より早く走れるんだ、ネコはわざと車に轢かれてやって、自動車を発明したからっていい気になるなよ?その便利さにはこんな危険も潜んでるんだぞって体を張って中傷しながら警告しているんだ。とか、アリはちょうちょを食べずに巣に持って帰り、どうすれば自分達にもあんなキレイな羽が生やせるだろう?と研究をしてるんだ。地を這って、木に登るだけのアリは、華麗に空を舞うちょうちょに憧れてるんだ。なんてことを言う。あとは、生理の時。この時が一番不安定で、しゃべりかけても返事はないし、かと思ったら俺の話なんて無視して一人でマシンガンのようにしゃべり続けてからぷっつり話さなくなるって事もある。周りの奴らはそれが変だって言って、よく付き合ってられるな?俺は無理だなって言ってくるけど、別に…変だ、おかしいとは思うけど、嫌だとか不快に思うことは無い。好きだからかな?するりと、みょうじの腕の柔らかい産毛が俺の腕を撫でる。

「私ね、1人で森を歩いてるの。すッごく深い森。終わりどころか、始まりがあったかすらも分かんなくなっちゃうくらいに広くて、暗くて、寒いところなの。怖くて、早く帰りたいな、ここから出たいなって思うのね。でも思えば思うほど森の奥に迷い込んで行っちゃうの。木と木の感覚が狭くなっていくの。それでも歩くの。そうするとね、急に足元に穴があいて、あ、本当は穴があって私が知らないうちにそこまで歩いて行っちゃうんだけど、足元なんて見てないから夢の中の私はまるで、急に足元に穴があいちゃったんだって思うの。」
「うん」

みょうじが顔にかかる髪を耳に掛ける。

「穴に落ちるとね、それは穴じゃなくて井戸だったの。でも変よね、囲いのない井戸なんて。危なすぎるわ」
「もともとは穴で、そこに雨水が貯まったとか?」
「ああ、それなら分かる。その井戸、あ、穴?…いいわ、とにかく底の水がすっごく冷たいの。雪解け水どころじゃないわ。なんで氷っちゃわないのかしらって不思議に思うくらいに冷たくて重いの。それで私溺れちゃうの。寒くて暗くて怖くて苦しくて狭くて寂しくて…どうしようもないの。誰も助けてくれなくて、私水の中で叫ぶのよ。でもごぼごぼって空気の泡が出てきて、余計に苦しくなっちゃうだけなの。そういう、真っ暗ななかで急に起きると、私泣いてて、体がとっても冷えてるの。」

かたかたと小刻みに震えだしたみょうじの手を、何も言わずに握り締めて俺の体に寄せるとみょうじは頭を俺の肩に寄せて、甘えるみたいにこすり付けた。

「…安田くんが一緒に居てくれたらな…」
「居るじゃん」
「違う、夢の中によ。一緒に溺れてくれた?」

安田くんが一緒なら、怖くなかったかも。そう言って、俺を見上げて寂しそうに笑うみょうじは頬に小さな水滴をつけてた。違う世界でセミの鳴き声がして、部屋の中ではクーラーが呻ってる。

「俺と一緒だったら穴に落ちねぇし、何よりも森になんか行かねぇ。何にもおもしろい事がねぇ。虫が居るし、クマが出たら大変だし、そもそもケータイの電波が通じないところには行かない主義だからな」

みょうじはぽけっとした顔で俺を見つめた。今更になって繋ぎ寄せた手が俺の股間付近にある事に緊張してきた。もっと楽しい所つれて行ってやるよ、遊園地とか、俺ん家とか。そう続けるとみょうじはクスクス笑って口元を隠した。ああ、可愛い。

「でも」
「でも?」
「みょうじがどうしても、俺と一緒にそこに溺れたいって言うなら、俺はいいよ。みょうじが一緒なら」

みんなアホって言うかも知んねぇけど、みょうじは信じてくんねぇかも知んねぇけど…全部なんて言わない、100%ほど信用出来ないものはねぇ…それでも俺の98%くらいは、俺のほとんどがみょうじのために存在してて、だから、みょうじのためなら俺の98%はどうなっちゃったって言い訳で、溺れても、寒くても、切り刻まれても(痛いのはやめよう)まっピンクに色染めされてもいいんだよ。そういうの口で具体的に説明するのは難しいし、まさか円グラフ描いて『俺の98%はみょうじに所有権があります。残り2%はその他』なんて冗談にしか思えない。だから俺はみょうじとなら、みょうじが一緒に溺れたいって言うなら、いいよって答えて思い知らせてやることしか出来ない。臆病で大胆。これが愛の戦士だ。

「…やっぱだめ、だって私、やっぱり安田くんに助けて欲しいな。寒くて冷たいあの水の中から安田くんが私のこと引っ張って、助け出してくれるの。それで、安田くんが私のこと、あったかいふかふかの毛布でくるんで抱きしめて、人工呼吸してくれるの。これで目が覚めれば最高だよ」
「じゃあそうする?」
「え…」

ピーっとクーラーが機械音を発して、ぶぅうんっと一息ついてから止まった。連続運転時間が過ぎて自動的にセーブモードに切り替わった。外の世界で聞こえてたセミの声は、クーラーの動作音が止んだ所為で、もっともっと近い世界の音に聞こえた。みょうじのくちびるは冷たくて柔らかかった。肩を抱いてみると、本当に水の中にいたように冷たく、硬くなっていた。


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