68
 レウニオンの丘に到着し、レイールの熱烈な抱擁に歓迎されたセツは再会の挨拶もそこそこに、ドーヨーの紹介をして宿へと向かった。
 本当ならば、このまま補を進めてしまいたいのだが、変態したシキは尋常ではない程の体力を使う。その為、彼らは一晩この地で休まざるを得なかった。
 通常ならば、長旅の後の休息は心安らぐ至高の一時である。が、彼らは安らぎなど、一切感じられぬ険しい表情で宿のロビーに立ってた。
 理由は言うまでもない。セツだ。
 セツが目覚めてからと言うもの、彼女はドーヨーの部屋で寝ていた。それは寝首をかかれるのではないかと警戒していた彼らを、これ以上ないほど安心させた。だが、今回はそうもいかない。ドーヨーは既にレイール達と同じ部屋を取っているからだ。
 消去法でセツは自分たちと同じ部屋に泊まることになる。金を払ってセツだけ別の部屋に泊まることも考えたが、それではあまりにあからさまであるし、金が勿体ない。さて、どうしたものか。散々悩んでいると、受付をしていたセツが部屋の鍵を取るように声をかけてきた。
「二部屋取りましたので、後はご自由に別れてください」
 目の前にぶら下げられた二つの鍵を受け取ったクロハエは、怪訝な表情を浮かべた。鍵のプレートには、二人部屋と三人部屋と書かれていたからだ。明らかに、一人足りない。
 どうしたと同じくプレートをのぞき込むケミも、同じ事に気付いて動きを止める。その傍らで、どうしたことか、セツは少ない荷物を背負って外に出ようとする。
「セツ、どこに行くの?」
「私は宿には泊まりませんので、外で寝ます」
「え、何で?」
「理由は皆さんが一番ご存じでしょう。私がいれば皆さんを不快にさせるからです。では、おやすみなさい」
 あっさりと真理を告げたセツは、一礼すると振り向きもせず外へと出て行ってしまった。
 残された一同は、やや気まずい空気の中しばらく突っ立っていたが、やがて一人、一人と部屋へと向かう。その中に、セツの後を追おうとする者は、誰一人としていなかった。

 ・

 レウニオンの森に面した丘の外れ。
 そこに立っている、一本の巨大な木の下にセツはいた。
 周囲を眺め、不審なものがないことを確認した彼女は、周囲を眺めたときと同じように頭上の木を眺め、そして問題がない事を確認した後にゆっくりと木に手をかけた。
「セツさん!」
 声の方を向くと、そこにはランタンを掲げてこちらに走ってくるレイールの姿があった。
 箱入り娘ならぬ、監禁息子であったレイールの走り方は非常に不器用で、見ているだけで危なっかしい。端的に言えば運動神経が悪かった。案の定、手足をどうなればそうなるのか。理解に苦しむちぐはぐな動かし方で走っていた彼は、ランタンを持ったまま盛大に転んでしまう。
 更にランタンの油が漏れて草に引火し、レイールは見事に火に囲まれてしまう。あわを食ったように慌てふためく彼に見かねたのか、セツは黙って彼に寄り、火を踏みつけて鎮火すると鉄の塊と化したランタンを拾い上げ、腰を抜かしたままのレイールに手を伸ばした。
「……ありがとうございます」
 恥ずかしそうに、けれど嬉しそうに差し出された手を握った瞬間、セツは彼の手に違和感を覚えた。以前のレイールの手はまるで少女のように滑らかな手であった。しかし、今握っている手には豆や傷跡であろう凹凸があり、手の厚みもある。
 本当にこれはレイールか? あまりの手の変貌ぶりにそんな疑問を浮かべる前で、レイールは差し出された手を頼りにゆっくりと立ち上がる。闇夜に浮かぶ中性的な美しい顔は以前と変わらない。けれど、草とすすで汚れた今の顔は、以前よりどこか逞しく見えた。
「……鍛えましたか?」
「ええ! 守られてばかりでは駄目だと思い、エウロペに稽古を付けてもらっているのです! といっても、ようやく剣が振れるようになった所なんですが……」
「向いていないのではないのですか?」
「自分でも少し思います。でも、身体を動かすと、なんだか軽くなったような気がするんです。運動とは大事なものなのだと改めて思いました」
 どうやら、レイールの手の変貌ぶりは、彼が行っている剣の修練にあるようだ。
 確かに、幾ら手練れのエウロペとは言え、運動と無縁だったレイールを連れて旅をするのは困難だろう。どちらが言い出したのかは、レイールの輝かんばかりの表情を見れば一目瞭然だが、何にせよ、彼の稽古は良い方向へ向かっているようだ。
「セツさん、宿屋に行ったら姿が見えなかったから驚きましたよ」
「すみません」
「謝ることではありませんよ。私が会いたいから勝手にしたことですし。セツさんとお会いして、お話しするのを、心待ちにしていたんですから!」
「どうして会いたかったのですか?」
「セツさんのことが好きだからですよ」
「好き……? そうですか。ありがとうございます。貴方も私が変わったことに動じないのですね」
 その言葉に、レイールは少し困ったような表情を浮かべ、ゆっくりと首横に振った。
「正直に言うと、驚きました。別れた時と随分変わられていましたから。エウロペもああ見えてとても驚いていたのですよ」
 レウニオンの丘でレイールに抱きつかれても、セツは表情を一切変えなかった。そんな彼女に驚いたのは、意外にもレイールではなくエウロペであった。
 彼は表面上は平静を装っていたものの、感情でしか動いていないと信じてならなかったセツのあまりの豹変ぶりに心底驚き、動揺から宿泊施設に戻るまでに五回転倒していた。そして今は何故ああなってしまったのかをドーヨーに問いつめている。
「でも、少し表情と口数が少なくなっても、セツさんはセツさんです。私の大好きな、セツさんです。現に貴女は転んだ私を助けてくれた。優しい、セツさんです」
 言われてみれば、何故自分はレイールを助け起こしたのだろうか?
 そのまま放っておいても、死にはしないし、助けてやる道理もない。なのに、この体は勝手にレイールを助けていた。
「残留思念というものか」
「え?」
「いいえ、何もありません。それよりもお話、でしたね。立ち話も何ですし、どうぞこちらへ」
 脳裏に赤髪の女性が一瞬浮かび、消えていく。
 よく分からない発言に困惑するレイールを余所に、セツはすたすたと歩く。が、暗闇で足場が見えず、何度も転んでしまう彼に気付き、再度戻って彼の手を引いて歩き始める。
 着いた先は先ほどセツが佇んでいた巨木の下であった。
 暗闇でも分かるその風格に圧倒される彼を置いて、セツはそっと大木の幹に触れて意識を集中させる。直後、彼女の胸元から真珠色のまばゆい光が放たれ、その光は幹に沿って螺旋状に上へと走る。
 光が収まった時。そこには幹に生えるようにして作られた真珠色の階段が出来ていた。
 セツが何も言わずに階段を登り始めても、突如闇夜に現れた真珠色の階段に驚いた彼はしばらく動くことが出来なかった。基礎工事も何もなく、光が走ったと思えば完成していたこの階段は、安全面に優れているとは思えない。しかし、この不思議で美しい階段はセツによって生み出されたのだ。この世で一番信頼しているセツが作った階段。そう思えば、何も怖いことはない。
 再び柔らかな笑みを浮かべた彼は、ゆっくりと階段に足を乗せる。
 ガラスのような見かけの階段はだが、革製の靴越しに伝わる感触は意外にも僅かな弾力性があった。不思議な感触に驚き、足を乗せたまま固まっていると、不意に頭上が暗くなる。
 なんだろうと顔を上げると、彼の丁度頭上の階段の隙間からセツの服の裾が見えた。そこでようやくセツに置いて行かれたことに気付いたレイールは、慌てて階段を駆け上がる。
 セツは歩き、自分は走っている。けれど、セツとの距離は一向に近付かない。
 只単にレイールの足が遅く、セツの歩く速度が速いだけなのだが、一向に近付かない距離が、セツと自分の立ち位置を示しているような気がして、セツがこのままどこか遠くに行ってしまうような気がして、レイールは言いようのない焦りに駆られた。
 ーーセツさん! セツさん!
 幾ら心で叫ぼうとも、セツが振り返ることも、止まることもない。当然だ。幾ら心で語りかけようとも、声に出さねば、形で示さねば、相手の心に響くことはおろか、伝わることも無いのだから。
 当然のことに今更気付いたレイールは、慣れない運動ですっかり上がった呼吸を歯牙にもかけず、掠れきった声で彼女の名を呼ぶ。
「セツ……さんっ!!」
 それは声と言うには余りに頼りなく、ため息にも劣るただの掠れた音。
 あまりに情けない有様に失望し、レイールは辛うじて足を止めなかったものの、その大きな目からぽろぽろと大粒の涙をこぼした。
「どうしました?」
 が、その涙は行ってしまった筈の声によって止まる。
 真っ赤に充血してしまった目で声がした方を見る。真珠色の光の中には、やはりセツが立っていて、レイールは安堵からまた大粒の涙を流した。
 そんな彼に、再度どうしました? と尋ね、彼女は先ほどと同じように手を伸ばす。
「すみません。セツさんがどこか遠い所に行ってしまいそうで、怖かったんです。セツさんこそ、どうして戻ってきたのです?」
「レイールに呼ばれた気がしたので」
 セツの手で起こされたレイールは、その返答に驚き、涙を拭うことも忘れて目を見開く。
 まさか、あんな吐息に近い言葉を聞き取っていたなど、にわかに信じ難いからだ。
「……行きましょう!」
 背負おうかというセツの申し出を断り、レイールはすっかりくたびれた足で賢明にセツの後を追う。断った理由として、申し訳ないという気持ちは勿論ある。しかし、最大の理由は少しでもセツに近付きたいという一心であった。
 もう駄目だ。セツが足を止めるまで、何度と無くレイールは自分の限界を感じた。だが、前を行く小さな、けれど大きいセツの背中を見る度にそのような考えは消えた。
 この背中にどれほど重い物が背負われているのか、レイールは知らないし、セツも言うことはないだろう。彼女が背負っている物に押しつぶされそうになっても、レイールが代わりに背負うことも無いだろう。彼女は決してそれを望まないだろうから。
 だからレイールは彼女の荷を背負うこと、そして肩を並べることを諦めた。その代わりに、彼は彼女が唯一感情を露わに出来る存在になろうと、彼女の心の支えになろうと決めた。けれど、セツが感情を失った今、ささやかなその夢さえも断ち切られてしまった。
 一体今の自分に何が出来るのか。それは未だ分からない。けれど、今セツについて行けば、彼女と共に同じ景色を見れば、何かが分かる。そんな気がしたのだ。
 肉体の限界を超え、精神力のみで歩いている状態になった頃、ようやく階段の終わりが見えた。安堵と共に足の力まで抜いてしまわないよう気を付けながら、レイールは震える足取りでゆっくりと樹皮に足を着ける。
 堅い樹皮の感触を足裏で感じていると、セツは指を鳴らして能力を解除した。途端、地上から続いていた真珠色の階段はあっという間に光となって消えていく。
 まるで蛍火のように宙に消えていく光達。幻想的な光景に今までの疲れも忘れて見入っていると、セツがつかつかと勢いよく歩み寄ってきた。その勢いに圧倒され、身じろぎ一つ出来ずにいると、目の前にまで迫った彼女はおもむろに手を上げ、そしてその手をレイールの頭に置く。
「よく、頑張りましたね」
 両者とも見合ったまま固まっていると、セツはねぎらいの言葉と共に、彼の頭に乗せた手を乱暴に動かす。そこで彼は、セツは自分の頭を撫でているのだという事に気付いた。
 ーーああ、やっぱりセツさんだ。
 まるで子どもをあやすようなその仕草は、やや不器用さが目立つものの、紛れもなくセツのものであった。やはりセツはセツなのだ。そう確信したレイールは、嬉しさからまた一つ涙を流した。
「どうしました?」
「いえ……。やっぱりセツさんはセツさんだと思って」
 途端、セツは彼を食い入るように見つめた。
 その視線がどこか気恥ずかしくて、どうかしましたか? と、先ほど掛けられた言葉を返すと、彼女は「いえ」と言葉を濁し、レイールの手を引いて歩いた。
 そして人が五人以上手を繋いでも回りきらないであろう巨大な枝に腰を下ろすと、まるで独り言のように語り始めた。
「私は、セツです。今も、前も変わりません。むしろ、記憶を取り戻し、ユキの影響が薄い今の方がセツに近い。以前の記憶が戻っていない私を、彼らは当初仲間と見なしていなかった。けれど、時間が経つにつれ認められていった。しかし今、彼らが望んだ記憶を戻した「私」は彼らのセツ像と大きくかけ離れており、結果、彼らは私を仲間と認められずにいる」
「ええと、セツさん。何のことか……」
「独り言なので、お気にせず。けれど、あなたやドーヨーさんは私は「セツ」だと言い切った。見ている「セツ」は同じ筈なのに、どうして認識が違うのでしょうか? 私が「セツ」と認識されるには、一体何が必要なのでしょうか」
 そこまで一気にまくし立てたセツは、その後夜空を眺めるだけで何一つ言葉を発さなかった。どうやら、彼女はアドバイスが欲しい訳でなく、本当にただ独り言を言いたかっただけのようだ。
 なんと声をかければいいのか。そもそも声をかけて良いのか迷っていると、当の本人はああそう言えば。と、思い出したように呟くと、虚空に向けていた視線をレイールに戻す。
「話とは何ですか?」
 そこでレイールもそう言えば。と気付く。長い階段とセツの発言で失念していたが、セツは自分が話をしたいと言ったことに応えて、こんな場所まで連れてきてくれたのだ。と。
 しかし、こんな地上から数百メートルは離れている場所まで連れてきてもらって何だが、自分はそんな大事な話をしようと思った訳ではない。ただの世間話をしたかっただけなのだ。無駄に事を大きくしているよな気がして、非常に気まずいが、今更誤魔化せる訳もなく。世間話です。と、消え入るような声で呟くと、彼女はそうでしたか。とまた淡々と返してくる。それがまた、罪悪感をかき立てた。
 かといって黙っていては、それこそ失礼だ。何とか気を取り直したレイールは、なるべく冷静になるよう念じながら他愛のない話をする。
「あれから、どうでしたか?」
「何度か死にかけました」
「ええ!? どうしてですか!?」
「敵に頭を掴まれて、床に何度も何度も打ち付けられ……」
 早々に心が折れるような話をされ、見る見る内に顔が青ざめていく。
「無事で良かったです。本当に……」
 しばらくセツの死ぬかと思ったエピソードを聞いたレイールは、すでに真っ青になってしまった顔に冷や汗を浮かべながら、心からの言葉を口にする。よく生きていられたものだ。
「レイールは変わったことはありませんでしたか?」
「沢山ありますが、しいて言うならばこの世界の素晴らしさに気付いたこと。ですね」
 少し恥ずかしそうにはにかみ、けれど彼は嬉しそうに言葉を続ける。
「塔以外の世界を知らなかった私は、今までこの世界に興味がありませんでした。いいえ。この世界を憎んでいました。この世界に母の命が、そして自分の命が奪われているような気がして」
 塔で過ごした十九年の歳月。とらわれの王子と言えば聞こえは良いが、その実はただの生け贄。幾ら世界のためだと言い聞かせても、自分の家畜のような自分の人生を思えば、憎み、疎ましく思ってしまう。
「でも、セツさんと出会って、エウロペと会って、自由になって、初めて外の世界を見て、そんな思いは消えました。自然も、人も、みんな優しく、気高い。みんな個性があって、何一つ同じものは無い。当たり前ですが、私にとってはとても感動的で、胸を打つものでした」
 そこでレイールはセツの手を取り、
「セツさんには幾らお礼を言っても言い足りません。私に出来ることなんて、無いに等しいと分かっています。けれど、セツさんのお役に立ちたい。何でも良い。セツさんの役に、支えになりたいのです」
 胸に秘めていた思いをようやく口に出来、達成感と少しの後悔を感じたレイールだが、暫くたってもセツは表情一つ崩さず無言を貫いている。
 少しの達成感と大きな後悔に苛まされ始めた頃、それまで微動だにしなかったセツはようやく瞬きを数回繰り返し、
「ありがとうございます。その思い、ありがたく受け取ります。そして、レイールが嫌でなければ、一つお願いをしても良いですか?」
「はい!」
 初めてのセツのお願いに、レイールは目を輝かせて言葉を待つ。
 僅かだが、セツの立ち位置に近づけたような気がしたからだ。
「事を成すまで、私を、セツを忘れないでください」
 悪い予感しかしないお願いに、レイールは返事も忘れてただただ狼狽する。
「個が完全に消滅するとき。それは、誰の記憶にも残らず、忘れ去られたときです。逆に言えば、例え死んでも、誰かが覚えていたらそれは生き続ける。私はまだ、死ぬわけにはいかない」
 だからレイール。そう言ってセツはレイールの頭に手を乗せて、さらさらと指通りの良い髪を先ほどとは打って変わって優しく撫でる。
「私を、あなたの中で生かしてください」
 死を予感させるような願い事等、出来ることならば断りたい。しかし、一度了承した手前そんなことは出来ないし、セツを悲しませたくない。
 結局レイールは涙を目に浮かべたまま頷くことしかできなかった。
 恐らく、セツはこの先も死と隣り合わせの旅路を進むのだろう。今や理解者も無く、孤独で険しい旅路を、一人で。覚悟を決めた彼女を前にして、自分が出来ることは「彼女を忘れない」という、誰でも出来るようなことだけ。
 改めて己の無力さを嫌と言うほど思い知った彼は、セツにしがみついて子どものように泣きじゃくった。散々泣いて、泣いていつの間にか眠った彼は、翌朝木の上ではなく宿で目覚めた。
 状況が分からず、お気づきですか? と声を掛けたエウロペにセツの行方を尋ねると、彼は困ったように表情を曇らせ、一枚の紙切れを差し出す。
 紙にはたった一行しか言葉が綴られていなかったが、それでも彼女の行方を知らすには十分であった。
『ありがとう。いってきます』
 お世辞にもきれいとは言えない字で書かれたその紙切れを抱え、レイールはまた泣いた。


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