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 そう言えば、最近川の側で首を掻き切られた男の遺体が見つかったと言うが、それはひょっとすると……。
 恐ろしい考えを振り払うように頭を振るが、そんなことをしたところで不安が薄まるわけもない。何せケミは仲間一人間嫌いで、戦闘能力が最も高い。おまけにすました顔をして血の気も多い。もはや、該当している気以外しない。
「まさかね。いやでも、まさかね……」
「何ぶつくさ言ってんだ? まあ、お前も精々気を付けろよ。薬もそうだが、最近スパイが紛れているって噂が立っている。まー、こんな移民だらけでスパイもクソも無いがな」
「分かった。あのさ、今薬持っている?」
「あ? 何だ、お前飲みてぇの? 相手もいねーのに?」
「違うっての! ただ、確かめたいことがあるだけだよ」
 少し疑うような視線を投げかけつつ、クサカは胸ポケットから薬錠の入った小袋を投げ渡す。薄い麻布の袋の中には白色で小指の爪ほどの大きさの薬が一錠だけ、入っていた。
 これが、今この国に密かに蔓延し、レイールの側近であるエウロペを苦しめているかもしれない薬なのか。
 そう思うと、この一粒の小さな薬がとてつもなく大きな化け物に思えてきた。
「……お前、その首どうした?」
 無意識に首をさすっていると、鬱血した箇所に気付いたクサカが訝しげな表情で尋ねてきた。
 それは、豹変したエウロペがセツに掴み掛かった際に出来た痕であった。正直に言うのは気が引けるため、適当に言葉を濁すセツだが、クサカはある程度の見当は付いているようで、
「気を付けろよ。薬切れの奴はリミッターが外れた化け物だ。お前は俺が殺すんだから、人間風情にやられんなよ」
「へーへー。心配してくださってありがとうよ。じゃあ、明日も早いからそろそろ帰るね。クサカも刺されないように気を付けなよ」
 思い詰めた顔からいつもの表情に戻ったセツは別れの挨拶もそこそこにその場を去る。
「何考えているのか知らねーし、知りたくもねーけど、騒ぎだけは起こすなよ。俺たちの計画が進め辛くなるからな」
 俺たち、の中に自分が含まれていない事を、言葉のニュアンスで感じ取ったセツは薄く笑った。
 クサカはそうでなくては困る。心中でそう呟いてセツは片手を上げてこう言う。彼女は、守れない約束はしたくない質であった。
「努力はする。でも確実じゃないから約束はしない」
 馬鹿正直な奴だ。セツの背を見送ってから、クサカはうんざりしたように呟く。
 あの無駄に情に厚く、鬱陶しい程に真っ直ぐなセツのことだ。身の回りに中毒者がいれば放ってはおかないだろう。そこに加えて、仲が良い王子の処刑だ。厄介事を起こさない訳がない。
 面倒だ。忌々しげに呟いたクサカの頬を生温かい不穏な風が撫でる。
「真風か……。ったく、嫌な予感しかしねぇ」
 闇に染まった空に、一匹の蝙蝠の姿が見えた。
 それは大きく旋回すると、王城の頂上の部屋、王の寝室に入る。ああ、嫌な感じだ。そう吐き捨てると、クサカは踵を返して城のへと戻った。

 その夜、またもや城の用水路で遺体が上がった。

 ・

 ーーふざけるな。ふざけるな、ふざけるな!
 人混みをかき分け、憲兵を追いかけながら、心中で叫ぶ。
 野次馬達は冷ややかな笑みを浮かべて此方を見る。そのどれもが言葉に出さずとも「ざまあ見ろ」という意味を込めていて、視線が向けられる度に虫酸が走った。
 そんな中、野次馬の一人が唐突に足を出し、それに足を取られて地面に滑り込む。と、同時に周囲からドッと笑い声が聞こえる。わざと足を出したという事は火を見るより明らかであった。
 血が滲んだ唇を拭い、畜生と呟いて立ち上がる。その時に一瞬見えた野次馬の表情は、死にかけてもがく虫を見るときのそれと同じであった。
 殴りかかりたい衝動を懸命に抑えて再び前を向いて走る。やがて人の波が途切れたとき、目に映ったのは六人の憲兵に連行される兄弟子、ドーヨーの姿であった。
「ドーヨーさん!」
 名を呼ぶと、ドーヨーは顔を上げて此方を見る。その顔には疲れているが、いつもの穏やかな笑みが浮かんでおり、それが益々セツの心を乱した。
「やあ、新入りちゃん」
「やあって、やあって……! そんな場合じゃないでしょう! 何しているんですか!」
「んー、逮捕? 新入りちゃんこそ早く戻らないと、親方に怒られるよー。何せうちは万年人手不足なんだからさー」
「おい、罪人の分際で喋るな!」
「罪人だと? お前何ぞがドーヨーさんの何を知っている? この人の何を以てそんな事が言える? 妙な薬に踊らされるお前らこそ……」
 そこで大きな衝撃が加わり、セツの言葉は中断される。
 頭を殴られたのだと分かると同時に、襟元を捕まれて引き起こされた。頭が切れたのか、血で霞む視界越しに見えたのは、怒りの表情を露わにしたダイナリの姿であった。
 ぐいと引き寄せ、余計な事をするんじゃねぇ。と押し殺した声で囁き、セツを離す。支えを失ったセツは膝から地面に崩れ落ちた。
「……ダイナリさん」
「気安く呼ぶな。おめぇはもう俺の弟子でも何でもねぇ。ただの、罪人だ」
「そんな、こんなのおかしいです。証拠も何もないのに! 親方さえもドーヨーさんを信じないんですか!?」
「煩い! 御上がそうと決めたんだ、例え無実と言えど疑われるような真似をした奴が悪いんだよ! おい、憲兵共、これ以上こいつがうだうだ言う前に、そいつを早く連れて行け。邪魔だ」
 ダイナリの気迫に圧され、憲兵達は止めていた足を再び進める。同時に野次馬達も自分たちの行くべき場所に帰っていく。きっと興醒めしたのだろう。
 そんな中で、ドーヨーは何も言わず、ただじっとダイナリの姿を見ていた。
「今まで、お世話になりました」
 今までの付き合いを、たった一言と一礼で示し、ドーヨーは憲兵に連れられて去っていく。恐らく、彼はこのまま牢獄へと連行され、その冷たく暗い室内で一生を終えるのであろう。
 ダイナリと二人残されたセツはふらふらと立ち上がり、呆然と彼が消えた方を見ていた。
 つい昨日までは共に仕事をし、何だかんだで面倒を見てくれたドーヨーが、殺人罪の罪を着せられてたった一日でいなくなってしまった。それはあまりに唐突で、衝撃的で、到底セツが受け止めきれるような代物では無かった。
「今日を以て、庭師は終わりだ」
「……え?」
「只でさえ上から睨まれている仕事だ。罪人まで出すとなれば、潰されるのが当然だろ。とっとと出て行け」
「そんな!」
「しつけぇんだよ! 俺たちゃもう終わったんだ! あの馬鹿のせいでな。もう、俺もお前もこの国からしちゃ何のメリットも無ぇ。害が無い内にとっとと出て行きな!」
 言い返そうと顔を上げる。けれど、ダイナリの表情を見た途端、喉まで出ていた言葉はつっかえてそのまま消えてしまう。
 怒りや悲しみの色が出ていたならば、まだ言い返すことも出来ただろう。けれど、ダイナリの表情には感情が無かった。無に言うことが見つからなかったセツは、悔しそうに唇を噛みしめて立ち去る。
 だがしかし、生憎セツは腹立って仕方ないことを大人しく我慢できるような性格では無かった
「ドーヨーさんはっ!」
 少し離れた所まで歩いたセツは、怒りに顔を真っ赤に染めながらダイナリに向かって叫んだ。
「ドーヨーさんはあんたを尊敬していた! 不器用で短気なあんたを、本当に慕っていた!」
 昨日、ダイナリを誉めたときにドーヨーが見せた笑顔。
 あれは、いつもの顔に張り付けたようなようなものではなく、心の底からの笑顔であった。
「そんなあの人があんたの立場が危なくなることする訳ないだろ! ちょっとしか一緒にいなかった私だって分かるんだ。あんただって分かっているだろう、この石頭! ちなみにな、私だってあんたのこと慕っていたんだよ、ばーか!」
 一気にまくし立てたセツはそのまま走り去っていった。
 単純に、この後降り注がれるであろうダイナリの怒りの鉄槌を恐れたからだ。

 ばーかの言葉と共にダイナリは振り返ったが、その時には既にセツの姿はなかった。
 呆れた逃走の早さにため息を吐きつつ、あわよくば殴ってやろうと固めていた拳を解く。殴る相手がいない拳は、酷く頼りなく思えた。
「厄介なものに好かれたな……」
 ポツリと呟いたダイナリの胸には、銀のロケットがゆらゆらと揺れていた。

 ・

 灯台を目指して走り続けていたセツは呼吸困難になりかけていた。
 ぜえぜえと肩で息をしながら、庭の柱に手を添える。ふと柱に見えたものが気になって顔を上げると、そこには柱に沿って延びるツタの姿があった。
 それが庭師になって初めて三人で手入れをしたものだと気付き、何とも言えぬ喪失感に襲われる。罵声を浴びせられながらも、他愛ない会話をしていたあの頃には、もう戻れない。
 思わず、涙がこぼれた。
「セツさん!」
 唐突に名を呼ばれ、慌てて手の甲で涙を拭いながら声がした方を見る。
 そこには自分以上に悲壮感に満ちた表情のレイールと、気まずそうに顔を逸らしているエウロペの姿があった。
「エウロペが騎士団から聞いて……ドーヨーさんは?」
「……連れて行かれたよ。庭師も、もう終わりだって」
 話しながら情けなくなったセツは顔をしかめる。憲兵に連れて行かれるドーヨー。庭師の終わりを告げたダイナリ。どちらにも抵抗できなかった自分が無力だと思った。
 けれど、一方で錯乱するレイールを見て、自分が落ち着かなければと思い直す。余程慌てていたのだろう。いつも整っている髪は乱れ、顔も真っ赤になっている。それ程までに一生懸命になって自分を捜してくれたレイールが有り難かった。
「でも、諦めないよ。きっと助けられる糸口は有るはず。この国は何かおかしい。ドーヨーさんも、レイールも」
 ここで一旦言葉を区切ってエウロペを見る。
 やや顔色は悪いが、昨日のように苦しんではいない。いつものように睨むエウロペに、良かった。と、安堵する。
「他の色んな人も、みんな被害者だ。勘だけど、きっと全部どこかで繋がっている。誰かが、裏で糸を引いている。そんな気がするんだ。それは何処かの糸を解せば、芋蔓式に出てくると思うんだ。だからレイール、呪いについて教えて欲しい」
 根拠はない。だが、確信はあった。
 一般的に言う、第六感がセツにそう告げていた。
「……分かりました。ドーヨーさんを始めとして、この国の民の為となるなら、喜んでお話しします。エウロペ、君も救えるのなら尚更」
「っ!? レイール様?」
「気付いていないと思っていましたか? 君が時たま発作のようなものに襲われている事を。今までは病気だと思っていましたが、セツさんの仮説を聞いて確信しました。君の発作は、何か我が国が関係しているのですね?」
 レイールの観察眼の鋭さに、エウロペは閉口する。
 主を馬鹿にしていたわけではない。けれど、普段の穏和で、良い意味で平和ボケしている姿を見ていれば、どうしても彼に対して穏やかな印象を持ってしまいがちだった。
 しかし、彼はエウロペが思っている以上に周囲の事を見ていた。監視をしているつもりで、見られていたのは此方だったのだ。
「……はい。遠征中に飲んだパライソという薬です。ですが、誓って一度しか使用していません。遠征帰りで浮かれていたとは言え、軽い気持ちで飲んだ自分が愚かでした……!」
「遠征って船に乗っていた時の? 道理であの時はハイテンションだった訳だ」
 これでようやく合点が付いた。
 船で魔物達を虐殺していたエウロペは、普段とは考えられないほどはしゃいでいた。それが薬の興奮作用に影響されていたのだとすると、何ら不自然はない。
「呪いの話に戻りますね。おぼろげな記憶なのですが、私は昔に何度か、衛兵に連れられて魔術師と名乗る者と会ったことがあります。何を話したかまでは覚えていないのですが、会えばいつも気持ちが憂鬱になり、死にたいと思うようになります」
「死にたいと……? ねえ、もしかして昨日私と会う前に魔術師と会ったりした?」
「いえ、昨日は父と会っただけです。正式に言えば、父とその付き人なのですが」
「それは俺も保証する。間違いない」
 昨夜のレイールの豹変っぷりからして、話しに出た魔術師とやらと会ったのだと思ったが、どうやらその勘は外れたらしい。
 明らかにその魔術師とやらがレイールの死の鍵を握っているのだが、いかんせん情報が少なすぎる。
 職を失ったセツが城内に居られる時間は残り僅か。その少ない時間でレイールの呪いを解くというのは、明らかに無理難題であった。
「退きなさい。邪魔よ」
 三人で頭を抱えてると、妙に大人びた口調の少女の声がした。
 忙しい時に水を差す方が邪魔だと言おうとして振り返る。と、そこには腰まである銀色の髪に黒いドレス、黒いリボンを付けた少女がいた。そして彼女の背後には、白のローブを纏い、同じく白い仮面を付けた人物が控えている。
 何だこの生意気そうな少女と、不審者丸出しの奴は。返答を忘れて、ちぐはぐな二人組を眺めていると、少女はまたもや偉そうな口振りで、
「退けと言ったのが聞こえないの? あなた達の耳は飾りなのかしら?」
「いや、別に退かなくても通れるじゃん……。そっちの目の方が飾りなんじゃ……」
「セツさん、私が対応します。ごめんなさい、ムニェカ。今、退けますね」
 馬が三匹ほどなら楽に通れる程のスペースがあるにも関わらず、レイールは軽く謝罪してムニェカという名の少女に道を譲る。
 何やら事情があるのであろう二人の様子に、セツは少し空気を読んで黙っていることにした。
「ふん、遅いのよクズ。それに、気安く名前を呼ばないで! お父様と同じ血を引いているからって、兄面しないでよね。生け贄風情が私の名を呼べると思って? 図々しいにも程があるわ」
 あまりの言い草に、子どもと言えども堪忍袋の緒が切れそうになる。
 そんな心境を察してか、エウロペは甲冑をした手でセツを押さえる。こうなれば、いくらセツとて少女に掴み掛かったりは出来まい。
 エウロペが必死にセツを押さえる一方で、ムニェカの攻撃は激しさを増す。
「何で私の庭を歩いているの? 前に言ったでしょう、あの塔から出るなって」
「そうですね」
「なら出ないでよ。庭が汚れるし、あなたの顔を見たら気分が悪くなる」
「ごめんなさい」
「大体男の癖に、女みたいな顔して、気持ち悪いったらないわ。まさかそっちの趣味あるんじゃないでしょうね? これ以上マニャーナ家に泥塗らないでよね」
「不快にしたならすみません」
「謝ったら何でも済むと思っているんでしょう? 不快よ。本当に、存在自体が不快ね。だから誰からも愛されないのよ」
「ええ、分かっています」
「っ! 肯定ばっかりしてないで、たまには意見言いなさいよ。王族の癖に……。そんなのだから、そんな汚い女に言い寄られたりするのよ」
「聞き流せませんね。謝りなさい」
 肯定と謝罪以外の言葉が予想外だったのか、それまでひっきりなしに動いていたムニェカの口が止まる。
「貴女は彼女の何を知ってそんなことを言えるんですか? 彼女はどんな現実にも決して目を逸らさず、解決策を模索する強い人です。そして、いつだって本気の言葉と態度をくれる、私の、大切な人です」
 途端、セツは憤怒の顔から照れたような顔へ。ムニェカは煮え湯を飲まされたような顔に。そしてエウロペは小さくため息を吐いた。
「一方で貴女はただ他人の欠点をあざ笑い、否定しかしない」
「そ、それがどうしたって言うのよ」
「別に、だからどうだと言うことはありません。貴女が本当に私の言っている意味が分からないのなら」
 口調こそ静かだが、明らかに彼は怒っていた。
 感情を高ぶらせず、淡々と言葉の片隅に漆のような強い怒りを含ませる彼には、いつもの穏和な雰囲気の欠片もない。それは端で聞いているセツでさえ身を竦ませるような迫力があった。
 さすがは王族の血を引いているだけはある。しかしそれはレイールの異母兄弟であるムニェカも同じであった。
「生け贄の分際で私に説教しようだなんて、甚だしいにも程があるわ。身の程を知りなさいよ! この捨て駒!」
 烈火の如く怒るとは、まさにこのことである。
 レイールの静かな怒りにより、完全に導火線に火が着いたムニェカは黒の目を目一杯に開いて罵声を浴びせる。
 それは14、5歳の少女が口にするにはあまりに汚い言葉であった。
「あんたなんて、二十歳で死ぬただの生け贄じゃない。私は違うの! マニャーナ国の姫として、この国の発展を見届ける義務がある。生きるべき理由がある! なのに、なのにどうしてあんたなんかがお父様と同じ夕陽色の目をしているのよ! ただの生け贄の癖に!」
 マニャーナ国の王は、先祖代々夕陽色の目をしていた。それはレイールも、父であるコルムナも同じ。
 だが、ムニェカは母と同じ黒の目であった。
 地位も、愛情も、立場も美貌もある。けれど、自分にはたった一つ、王位の証が抜けていた。
 プライドが高いムニェカにはそれが許せなかった。それは、生け贄だけの存在のレイールが夕陽色の目をしている為、益々許せないものとなっていた。
「あんたなんて、あんたなんてアバズレの股から生まれて、ただ死ぬだけの存在じゃない! なのにどうして……」
「しつこいんだよ、一人葬式カラー」
 激昂していたムニェカは、突如割って入った声に気を取られ、罵声を止める。
 声がした方にはエウロペを何とかねじ伏せ、般若の形相で此方をみているセツの姿があった。そのあまりの禍々しい形相に、その場の誰もが息をのむ。
 ムニェカが此方を見たことを確認したセツは、未だ止めようとするエウロペを蹴り飛ばし、さっさと彼女へと歩み寄る。
「さっきから黙って聞いていりゃ、何様なんだよ、お前。ピーピー同じ内容ばかり口にしてさ。軽い認知症か。言ったこと覚えて無いのか」
「無礼な! 私を誰だと思っている。私は貴女のような底辺が話しかけていい存在じゃないのよ!」
「ああ、誰か知っているよ。ただの自己陶酔が激しい、勘違いしかしていない子どもでしょ? 底辺で学のない私でも分かるよ。滲み出ているからね。いや、本当、素晴らしいほどに!」
「馬鹿にしないで! あんたなんて、私たちの慈悲がなければ生きられない、家畜にも劣る存在じゃない! あいつの母親のように惨めに、孤独に死んでいくしか無い癖に!」
 レイールを指さしてムニェカがそう叫んだ途端、とうとうセツの中で怒りの炎が弾けた。
「黙れよ……。お前は人の死を侮辱出来るほど出来た人間なのか!?」
 初めて経験する頭の鈍痛にムニェカは仰向けに倒れる。
 白黒する視界の中で映ったのは、名も知らぬ、家畜同然と思っている存在の女。けれど、同時に自分に対して初めて手を上げた女でもある。
 命じるよりも早く、護衛である仮面の者が女を捕らえた。間違いなく、この女は侮辱罪と傷害罪で刑に処せられるだろう。そして、それを見る憎きレイールは後悔と悲しみで不幸のどん底に陥るだろう。
 ーー良い気味だわ。
 生まれて初めて手を上げられたショックよりも、この先に起こる喜劇に対する優越感の方が大きくなったムニェカは、勝ち誇った笑みを浮かべて立ち上がる。
「そいつを投獄しなさい」
 その時のレイールの表情は絶望がありありと浮かんでおり、ムニェカはその後笑いを部屋まで耐えるのが非常に困難であった。
 しかし、ただ一つ誤算だったことがある。それは、投獄された本人であるセツに全く動揺が無かったからである。
「気に食わないわ……」
 ベッドの上で散々笑って転げまわったムニェカは反抗的なセツの目を思い出し、一人ごちた。


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