37
 マニャーナ国港、東のはずれにある、宿屋「レクエルド」。
 港の中でも老舗にあたるこの宿屋は、お世辞にも大通りに門を構える宿屋程栄えている訳ではない。しかし、こじんまりとした外観と、発展を続けるマニャーナ国では珍しい、穏やかな空気が来るものの心を安らがせるとして、一部でコアなファンを生み出す宿屋である。
 そんな宿屋の一室で、セツは枕に顔を埋めるようにしてベッドに突っ伏していた。
 まるで死人のようにピクリとも動かないが、時折漏れる絞り出すような呻き声で生きていると言うことが確認できる。
 生きている証でもある呻き声だが、この原因は言わずもがな、先程の美女を誘拐しようとしていた男との一件にある。
 盛大に男の上に嘔吐した後、男はその前に受けた顎のダメージと、精神的ショックにより失神。泡を吹いて気を失った男を目の当たりにしたセツは、自分の失態に気付いて頭が真っ白になり、男は勿論、被害者である美人もそのままに、脇目もふらずここまで走ってきたのだった。

「……ありえんだろ。人の上に吐き散らかすなんてありえんだ……うわああああ……」
 言っている途中に当時の情景を思い出し、言葉を中断して奇声を上げながら足をばたばたとばた着かせる。
「しかも、勝手にしゃしゃり出てあの女の人放置って……あああ、もう色々最悪だ。さっいあくだ! もう駄目だ! 罪悪感抜けるまで籠城する!」
「すみませーん。そろそろ晩ご飯の時間なんですけど」
「すぐ行きます」
 部屋をノックされ、夕飯の知らせを受けたセツは即座に顔を上げて返答する。その頭からは嘔吐に関する罪悪感がすっかり薄くなっていた。
 今を生きないと。過去に捕らわれちゃいかん。と都合のいい言葉を口にしながら、部屋を出て食堂に繋がる階段を下りる。室内は天井に吊された蝋燭の炎により、オレンジ色に染め上げられており、どこか懐かしいような雰囲気を醸し出していた。
 食堂に着いたセツは空いている席に腰を下ろして食事が運ばれてくるのを今か今かと待つ。
 待つついでに周囲の様子を窺うと、食堂には六人の先客がいた。席の着き方からして、二人組が二つと一人が二組だろう。そのどれもが皆落ち着き払っていたため、セツは自分が場違いに感じて少し身を正すことにした。
 あまりじろじろ見るのも失礼な気がして、咳払いと共に視線を逸らす。が、その瞬間強い視線を感じて慌ててその視線を探る。だが、セツが気付いたときには既に視線は消えていた。
 ーー何だ?
 腕に生じた鳥肌をさすりながら、今の視線に考えを巡らせる。
 あれは、ただの視線では無かった。セツは過去に一度、そして記憶の中では数えられないほどその視線に晒されていた。ーー強い強い、尋常ならざる憎しみの視線を。
 しかし、見た感じではここにいる人達は全く面識が無い。一度会って何かしら失礼なことをしたのであれば、あの視線に晒されることに納得はいく。だが、二度言うが、この場所にいる人々には見覚えがない。つまり、理由がない。
 尤も、セツが覚えていないだけと言えばそれまでなのだが。
 ーーま、良いか。気のせい、気のせい。
 船旅の疲れが未だ取れないセツは考えるのが面倒になり、気のせいで片付けると、運ばれてきた料理にかぶりついた。

 夕食後、疲れてはいるものの、すぐに眠る気分にはなれなかったセツは宿屋を出て夜の港をぶらぶらと歩いていた。
 夜風に乗って、河独特の青臭いような臭いが運ばれてくる。ここは港と名が付いているものの、目の前のだだっ広い水面は海水ではなく淡水である。その為磯の臭いがすることはない。
 巨大な河が見渡せる高台まで来ると、セツは柵に両腕を乗せながらぼんやりと物思いに更ける。
「義理の両親が狼とか、実は21歳とか、アルティフとか、竜巻とか……摩訶不思議珍道中だな、こりゃあ。あまりに現実離れしているから理解仕切れないや」
 ここ最近で色んなことがありすぎて、頭の整理が追いつかない。
 しかしどれだけ処理落ちしようと、いままで体験したこと、思い出した事は紛れもない事実だ。否が応にも納得せざるをえない。
「おーい、妙ちきりんな声。いるんでしょ?」
 訳が分からんと、ガシガシと乱暴に頭を掻いた後、セツは自分の中にいる正体不明の存在に声を掛ける。
 船上で魔物に襲われた際、その声は船酔いで動けないセツにその声は「力を返します」と囁いた。その後、セツは通常のように動けるようになり、魔物を追い払うことが出来た。
 その正体は未だ分からない。だが、セツの窮地に現れては道を切り開くその存在は、少なくともセツに害為すものではないだろう。今のところは、だが。
 何にせよ、この度の目的や仲間たちの目的を知るよりも前にセツは知っておかなければならないことがあると思っていた。それは昔の記憶。そして、セツ自身のこと。
 自分の事すら知らないのに、周りを知ろうなんて図々しいにも程がある。そう考えたからだ。
 しかし、いくら思い出そうとしても自分で思い出すには限界がある。むろん、それは決して不可能な事柄ではないだろうが、全てを自力で思い出すにはかなりの年月が必要とされるだろう。それを悠長に待っていられるほどセツは気が長くないのだ。
 一人で思い出せないのなら他人の力を借りればいい。そこで槍玉に当たったのが例の正体不明の声であった。あれならば自分の中にいるのでいつでも話を聞ける。何より同じ肉体を共有しているのだ。ココー達よりはセツについて詳しいだろう。
「面会拒否か。仕方ないね」
 何か観念したように肩を竦ませると、セツは周囲を注意深く観察する。
 前後左右、人の姿、気配がないことを確認したセツは「練習開始」と呟いて目を閉じて精神を集中させる。
 そして体の中心、心臓から徐々に光が体の隅々まで流れていく図を何度も何度も想像する。それを幾度となく繰り返す内に、体の節々に入っていた力がすっと抜け、胸がじんわりと暖かくなる。
 その暖かさは胸から肩へ、腕へ、そして指先へと徐々に広がっていく。そしてそれと同時に彼女の体は薄い真珠色の光に包まれていた。
 体全体が暖かくなった時、セツはそれまで閉ざしていた目を開き、胸の前で何かを包み込むかのように手を広げる。その目はいつもの黒色ではなく、彼女を包む光と同じ薄い真珠色の光を放っていた。
「……難しいな」
 ぼつりと文句を口にしたセツの手の平には、人のような獣のような、何とも形容し難い形の霧状の物質が浮かんでいた。
「まあ、上達はしているよ……な? 自分じゃ全く分からないや。うーん、出てきてくれないものかねぇ」

 セツには他の人が持っていない能力があるらしい。否、正しく言えばセツ達は。だ。
 セツの仲間達はそれぞれ特別な能力を持っている。例を挙げるならば、クサカの竜巻のようなものだ。
 それは一人一人違うらしく、能力が被る事はまず無いらしい。
 ちなみにセツの能力は「結界」
 真珠色の壁を作り出して防御をしたり、対象を封じることが出来るらしい。つまりは、ノシドの結界樹と同じ特性である。これだけ聞けば防御にだけ優れているように思える。
 しかし、結界樹の結界は防御だけでなく、結界に触れたものを結晶化させて粉々に砕いてしまうという効果がある。つまり、セツの能力は攻守を両立させることが出来る、非常に希なケースなのである。
 ……と、以上の点を纏めて教えてくれたのは、他の何者でもない例の妙な声である。セツとして例の声から直接アドバイスを受けたいもの。しかし、セツがどれだけ手解きを請おうとも、その声が現れることはなかった。
「アドバイスが欲しけりゃ、もっと上達しろって事なのかな。ちぇ、けちんぼめ」
 ぶつくさとぼやきながらも、引き続き意識を集中させて霧状の結界を操る。例の声が言うに、能力を使いこなす為には力を具現化させる基礎練習、そして集中力を磨くことが一番重要らしい。
 基礎練習が何においても重要だという事はセツとて重々承知だ。だが、このような代わり映えしない細やかな動作の繰り返しは飽きてしまう。
 案の定、十分も経たない内に飽きたセツは柵に背を預けてぼんやりと夜空を見上げた。夜空に瞬く星々はやはり美しく、セツは心身共に癒されるような気がした。
 ーー見つけた。
 それでもやっぱりノシドの夜空の方が綺麗だ。と思っている最中、不意に耳鳴りと目眩がした。この異変にはここ最近慣れっこなセツは慌てることなく次の展開を待つ。否、むしろ彼女はこの展開を心待ちにしていた。
 ーー一人。周りに人影は無し。……いける。
 高音の耳鳴りがこれ以上ないほどに高まり、カチリと頭の中で何かが繋がったような不思議な感覚がする。繋がると同時に感じる安堵感と、郷愁の思い。普段のセツならばただその感覚に身を任せるのだが、今回は違った。
『右後方……』
 ーー分かっている。
 例の声が囁くより早く、彼女の体は右腕を持ち上げ、頭部を庇うような体勢を取る。
「……っく!」
「ちっ……!」
 直後出したばかりの右腕に、引きちぎられるかのような衝撃が走る。
 防いだはずなのに、それでも伝わる体が千切れるような衝撃。セツに攻撃を仕掛けた人物は事故や偶然等ではなく、明らかにセツの命を狙っていた。それは何もダメージの深刻さだけでなく、衝撃が伝わった部位からも分かることだ。
 一発食らっただけなのに既に感覚が無くなってしまった右腕を庇うようにして、セツは直ぐ様手すりから離れて刺客へと向き直る。
「……誰?」
 見たような気がする黒いローブに身を包み、何事もなかったかのように静かに佇む刺客を見据えながら尋ねる。しかし、当然ながら返答は返って来ず、張りつめた空気と寄せては返る波しぶきの音だけが周囲に響く。

 何度目かの波しぶきが砕けた頃、刺客は何も言わぬまま音もなくセツへと突っ込んできた。
 未だ感覚のない右腕に内心舌打ちをしつつ、紙一重で刺客の拳を避けたセツはバランスを立て直して反撃しようとする。
「グッ……!」
 しかし刺客の素早い猛攻は反撃する隙を一切与えず、目にも止まらぬ早業でセツの腹部に拳を叩き込む。
 腹部に強烈な打撃を食らったセツは逆流する胃液と霞む意識を何とか抑え、ほうぼうの思いでその場から後ろに飛び退く。
 直後、セツがいた場所には刺客の踵落としが下ろされ、標的を見失った踵は盛大な音を立てて地面の煉瓦を砕いていた。
 ーー何だよ、これ。何だよこの化け物。
 朦々と立ち上がる砂埃の中で佇む刺客を目に映しながら、圧倒的な力を前に本音が漏れる。
 今までムヘールやクサカのような強敵と対峙したセツだが、今回の相手はその二人とは比べものにならないような、圧倒的な力を持っていた。
 目に止まらぬスピードに、岩すら意図も容易く砕く怪力。言わば、クサカの武器の速度にムヘールの怪力を併せ持っているようなものだ。
「……」
「あぐっ!」
 次の一手を考えている内にまたもや刺客はセツへと拳を向ける。
 顔面に向けて来た拳を紙一重でかわすも、凄まじい速度により生じた風圧がセツの頬を裂く。そしてそれに気付く間も無く次に繰り出された右足の蹴りをモロに食らい、セツは柵とは反対の、岩で形成された壁に叩きつけられる。
 腹に、背中に伝わる尋常ならざる衝撃。砕けたであろう背後の岩に、自信の骨。それらを耳に、体に感じたセツはせき込むと共に吐瀉物と血吐いた。
 明らかに、骨、内蔵が傷ついてしまっていた。
『肋骨、脊柱損傷。腹直筋、後背筋、胃、小腸にも異常あり。修復します』
 例の声が頭に響く。
 頭も切ってしまったのであろう。流れる血により悪くなった視界越しに刺客が右足をゆっくりと下ろすのが見えた。
 膝丈程のローブから覗く、カーキのズボンの下から覗く、きつく巻かれたガードル。そして滑らかな光沢を放つブーツ。体つきからして女性であろうその人物は、足を下ろしてからゆっくりとセツへと歩み寄ってきた。
 このままうずくまっていれば、刺客が手を下さずとも確実に死ぬだろう。何せ例の声が言う通りの重傷だ。
 しかし、それは普通の人間ならば、だ。
「……痛いんだよ!」
 怒りの声と共にセツは即座に体を起こし、相手につかみかかる。
 瀕死の状態だとばかり思っていた刺客はセツの行動にやや面食らったのか、回避するのがワンテンポ遅れてしまう。結果、セツは刺客の肩を両手で掴むことに成功する。
 好機とばかりに刺客の顔に頭突きを食らわせようとするセツだが、そこは手練れであろう相手。肩を掴まれた直後、セツの腹部に膝蹴りを叩き込んだ。
 似たような場所に二度に渡って強烈な攻撃を受けたセツは今度こそ前のめりに崩れ落ちると思われた。
 が、
「へへ、捕まえた」
「……っ!?」
 だらりと下げられた筈の手は刺客の足をしっかりと握っていた。それにより刺客の足はセツの手と、彼女の腹部を覆うようにして出来ている結晶により完全に捕縛される。
「本当はあまり人前でこれ使いたくないんだけどね。こんな問答無用にボコボコにされちゃ、使わざるを得ないよ。さて、これで王手だ」
 なんとか離れようともがく足を尚もしっかりと掴みながら、もう逃げられないぞという旨を口にする。
 負傷した体の節々は叫びたくなる程の痛みを持っているが、例の声の働きにより徐々にマシになっている。おまけに刺客の足を捕らえたおかげで下手に体力を失うことも無い。
 ちょっとは力をコントロール出来るようになって良かった。と、内心安堵しながら、セツは片手を離す。腹部から生じた結晶は刺客の足をしっかりと捕らえ、多少のことでは外れないようになっていた。
 結晶の強度を確かめたセツは、状況の逆転を確信してニヤリと笑う。が、笑った際に修復中の腹部が痛み、彼女はほんの僅かな間刺客から目を反らしてしまう。
 それは本当に僅かな間。コンマ一秒にも満たぬ、刹那。
 しかしその時間は手練れであろう刺客にとっては、蛹が羽化するにも等しいほどの猶予があった。

 まず、刺客は結晶から離れられないと言うことを、足を僅かに動かして確認した。そして、離れないと言うことが分かると、刺客は躊躇うことなく膝から下のズボンを切り裂いた。
 ビ……ッ!
 布が裂かれる乾いた音と共に刺客の生足が結晶に張り付いたままのブーツと膝下のズボンの切れ端から抜かれる。
 月光に照らされた生足はすらりと細く伸びているものの、鍛え上げられており、細いと言うよりは無駄な肉が付いていない。と言う方が的確であった。
 青白い月の光に照らされた足はどこか官能的な魅力を放ちながら闇夜に降り立つ。片足のブーツが無いため、その立ち姿は些か崩れて見えたが、それを補うような堂々とした風格に、セツは状況も忘れて「美しい」と思った。
「明日、港外れの洞窟で待っている」
 うっかり見入ってしまっていたセツは初めて聞く刺客の言葉に我に返る。しかし我に返った時点では、既に刺客は手すりから夜の湖へと飛び降りていた。
「待って!」
 慌てて手すりに駆け寄り手を伸ばすも、その手が届くわけもなく。辛うじて見えたのは深い深い闇の中へ落ちていく刺客の、否、垂れ目が特徴的な女性の顔。それだけであった。

「……何だって言うんだよ。ああ、疲れた」
 腹部の結晶ごと刺客、もとい女性のブーツを引っ剥がして地面にへたり込む。パキ、パキと石が砕けるような軽い音と共に、負傷箇所を覆っていた結晶が徐々に剥がれる。
 もう一度盛大に溜息を吐いて、セツはゆっくりと話しかける。そのお相手は勿論……、
「体治してくれてありがとう。えーっと、何て呼んだら良いのかな?」
『私は私のすべき事を行ったまでです。呼び方は特にありません。むしろ不要です』
「相変わらずドライだねぇ。要らないってそれは困るよ」
『何故ですか』
「何故って……。とにかく困るんだよ!」
 何が困るのか。改めて言われると上手く説明できない為、セツは半ば無理矢理に意見を押し通した。もっとも、セツと例の声のやり取りは全て脳内で行うことが可能なため、思ったが最後、うやむやにしたところで全て筒抜けな訳だが。
 ちなみに、上記に述べた通り二人のやり取りは全て脳内で行われる。その為別に言葉を発さずとも意志の疎通は可能である。にもかかわらずセツはわざわざ言葉に出している。それは言葉が無いと気持ち悪い。例の声を一人のヒトとして付き合いたいと思っているからであった。
『……分かりました。希望の名があれば仰ってください。以前、主は私のことを「タシャ」と呼んでいました。参考までにどうぞ』
「タシャ、か。他者とはまた……。ちなみに、新しい名前付けたらどうなるの?」
『生命維持以外の情報は不要ですから、新たな名をインプットし、以前のものは削除します』
「……本当に、私のサポート以外は要らないんだね。寂しく無いの?」
『はい。それが、私の存在する理由、役目ですから』
「そ……っか」
 淡々と、さも当たり前のように述べるタシャに、心が痛んだ。
 与えられた役割、使命、それが全てで他の楽しみ、関心が全くないタシャは、かつて読んだ古文書に載っていた、機会仕掛けの絡繰り人形に似ていた。
 大昔、科学という技術が発展していた時代。人々は与えられた仕事をこなす、心を持たぬ人形を造っていたらしい。
 人形達は民間人の要望に添うように造られ、文句も言わずにただ毎日を働いて過ごし、壊れたり、新しい人形が出ると破棄されていた。
 その記述を見た直後、まだ幼い彼女は言いようの無い恐怖に襲われた。
 自分で物を考えることもなく、行動に移すこともなく。否、むしろそんな選択肢があることさえも知らず、ただ与えられた仕事をこなし、やがては廃棄される。
 それは自由という選択肢から隔離された、世間と断絶された部屋に閉じこめられたようなものに思えた。それは、一種の拷問と同じようなものだった。
「タシャは、ずっとそうして生きていくの?」
『いえ。私はあくまで主の補助。主が不安定な時は表立ってサポートしますが、主の回復するにつれ表に出ることは少なくなります』
 それは、つまり。
 ある仮説にたどり着いたセツはハッと表情を強ばらせる。
「それって……!」
『はい。私は主が以前のように戻ると共に、完全に主の意識化に置かれ、同化します』
 やはり、仮説は当たっていた。
 最近、タシャが以前よりセツの体を乗っ取らなくなったこと。呼んでも中々現れないこと。それは全て、セツの記憶と能力が戻って来てから起こった現象であった。
 つまり、セツの能力、記憶が回復するにつれ、彼女の制御機能であるタシャは役割が無くなっているう。そしてゆくゆくはセツに取り込まれ、消える運命にあるのだ。
「そんな事って……! 折角タシャのこと分かって来たのに!」
 付き合いはまだ短く、知らないことは山とある。
 けれど今まで誰よりも側に居たのだ。セツが今まで挫けなかったのは一人では無かったという一因が濃い。
『何を嘆くことがあるのです。私は元より主から生まれた存在。役目を終えれば元に戻るのが道理です。何より、分かったところで主はもう歩みを止めない筈。ならば、考えるだけ無駄と言うものです』
 タシャは全て分かっていた。
 もう、セツが止まらないということを。そして、自分の運命を。
 冷静に諭されたセツは顔を覆っていた手で前髪をくしゃりと掻き、手すりを持って立ち上がる。
「……分かった。でも、私がセツを生み出したのなら、きっとタシャを消さない方法もある筈。それを探すことくらい、良いよね?」
『……お好きにどうぞ』
 ーーあ、笑った?
 タシャの声に、今まで感じることの無かった暖かみがあるように思えて、セツは思わずそんなことを思った。
 その思いは届いているはずだが、タシャからの反応は一切無い。それが何だか愉快に思えて、セツは微笑を浮かべながら宿への道を戻り始める。
「あのさ、新しい名前浮かぶまではタシャって呼ぶね。あ、もう呼んでたか」
『どうぞお好きに。それと、先程の刺客ですが、主と同じ反応がありました』
「同じ? リアクションが?」
『あれは、かつて主と行動を共にしたものです』
「いや、知らないよ」
『思考回路と脳細胞、シナプス結合の回復が随分遅れていますね』
「遠回しに馬鹿って言った?」
『つまり、あれは主の言葉を借りると「仲間」になります』
「え……じゃあ私、また仲間に本気で殺されかけたってこと?」
『そうなりますね』
「まじか……」


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