35
 バフンっ。
 大きな音と共にセツはハイズリグサの咥内に放り込まれる。放り込まれる瞬間に咄嗟に足を曲げたため、櫛のような入り口に足を取られることはなく、足をもぎ取られずに済む。しかし、それでも気分は最悪だった。
 真っ暗な空間、生臭く、酸味を含んだ臭い。そしてべたべたと体にまとわりつく消化液であろう液体。消化液は肌に触れるとピリピリと痺れるような痛みを生じさせ、このままこの場にいると溶かされるという事実を頭に突きつけてくる。
 何とか脱出しようともがくも、肉厚な植物の口腔内はセツの体にぴったりと密着していて大きく身動きが取れない。ならば地味にひっかいて植物の内側から穴を空けようとするも、消化液で手が滑って傷一つ付けることも出来ない。
「この……うえっぷ」
 手出しが出来ず、とりあえず罵倒して植物のメンタルを削ごうとするも、むせかえる消化液の臭いが吐き気を誘い、罵倒は失敗に終わる。
 何一つ打つ手が無いセツは途方に暮れた。しかし、そんな折り、植物の口腔内が激しく胎動し始めた。
 何だろう。そう思うと同時にセツの体は外の世界へと放り出される。
「いてっ!」
 受け身も無く尻餅を付いた為に思わず声が上がる。
 臀部をさすりながらセツが目にしたのはまるで劇物を口にしたかのように胃の内容物を吐き出しているハイズリグサの姿であった。これはこれでショックだなと思いながら、セツは状況を解説してもらおうと近くにいるであろう男の姿を探す。
 意外に男はセツのすぐ側におり、ほっと安堵したセツは座り込んだまま男を見上げる。しかし、見上げた直後に彼女を待っていたのは頭上から滝のように降り注ぐ多量の水であった。何故自分の近くにいる男たちはぶっかけるのが好きなのか。水浸しになりながらセツは心中でそう呟いた。
「ハイズリグサは脂っこいものを嫌う習性がある。合点がついただろう」
「合点!? ああ、クサカが脂をぶっかけて来たことの?」
「他に何がある」
「あんた、主語が無いから訳分からないんだよ! ……と、そうじゃなくて、まあ合点は付いたかな? 本当にクサカが私をこの草から救おうとしていたんならね」
「信じられないのか」
「……ま、あれだけ散々な目に遭えば多少は、ね。だけど、もしクサカが私の身を案じてやってくれていたんなら……」
 とても嬉しいことだなぁ。
 男に渡されたタオルで髪を拭きながら、セツは嬉しそうに、だがどこか寂しげに微笑んだ。
 あり得ない幻想を胸に抱き、止めていた足を一歩、また一歩と前に出す。一歩ずつ歩く度に思い出すは、口喧嘩をしつつも何だかんだ楽しく思えたクサカと過ごした日々の記憶。
 あの時、クサカは嫌味の奥で何を考えていたのか。何も知らず話しかけ、怒り、笑いかけてきた親友の仇を見て何を思ったのか……。自分ならば耐えられぬであろう状況を想像し、またもやふがいなさで涙が出る。
 慌てて踵を返し、未だ嘔吐しているハイズリグサに八つ当たりの蹴りを入れ、セツはぐっと顔を上げた。
「さ、早く行こうよ。あんた達の目的は知らないけどさ、何事も早いに越したことは無いっしょ? ほら、行こう!」
 言うや否やセツは嘔吐しているハイズリグサをちらと横目で見て、男の手袋をはめた手を取って歩く。
 男は何か言おうとして口を開いたが、僅かに見えたセツの横顔を前に口を閉ざした。そしてしばらく考えた後、ポツリと呟いた。
「道、分かるのか?」
「分からん!」
 勢い良く答えて振り返ったセツの顔は涙の跡こそあれど、いつもの無垢な明るい表情

 ーーいつまで、見られるだろうか。
 豪快に笑うセツを見ながら、男は心中で呟く。
 彼等の読みが正しければ、セツはいずれ笑わなくなるだろう。笑えなくなるだろう。否、もしかすると存在そのものが無くなってしまうかも知れない。
 それは彼等の目的を果たすためには避けられぬ事柄で、仲間達も周知の事実。何事にも成し遂げるためにはそれ相応の対価が必要だ。彼等の目的にはセツの犠牲、という対価が必要なのだ。
 ーーまるで、生け贄だ。
「……すまん」
 何も知らないセツへと謝罪の言葉を送り、男はセツに変わって道を案内する。手袋越しに感じるお互いの体温がどこか懐かしくて、二人はしばらくの間手を離すことなく歩いた。

 ・

 夢を見た。
 真っ白な世界。何もない、真っ白な世界。そしてそこで背を向けて立っている一人の老人の姿。
 白衣に白髪の老人は今にもこの世界に溶け込んで行ってしまいそうで、何故だか急に不安になって手を伸ばす。
 あと少しで、手が届く……。そう思ったとき、不意に頭の中に声が響いた。


 目を開くと、そこは洞窟の中だった。

 寝起きでぼんやりとした頭で周囲を見渡しながら理解する。ここは、男と共に選んだ野営地だ、と。
 山を下りてから暫く平地を歩いた男は日が暮れてきたこと、そしてセツの体力の消耗を見て水場が近くにあり、風も防ぐことが出来るこの場所を野営地にしたのだった。
 これ以上足を引っ張るわけには行かないと、セツは先に進むことをすすめた。しかしどれだけ虚勢を張ろうとも体は正直なもので、笑うどころか爆笑している彼女の膝を見た男は無言でセツの反対を押し切ったのだった

 ーーあの妙な声が出てくると、なーんだか疲れちゃうんだよなぁ……。てか、私何時の間に寝たんだろう? その辺の記憶すらないぞ。
 ぐっと腕を伸ばし、骨が軽い音を立てるのを聞きながら立ち上がる。
先程見た夢のせいなのか、何となく、この場でじっとしていたくなかった。
 はっきりとは覚えていないが、先程の夢は誰か大切な人との別れのような気がする。それが誰なのか、記憶の糸を辿っていくと一人の人物に行き当たる。
 その人物は、クサカとのいざこざの火種となった白髪の老人、アルティフ・シアルその人だった。
 大切な人がアルティフという点が少々納得いかないものの、よくよく考えてみればセツはアルティフが何者なのか、何故クサカがそこまで嫌悪するのかも知らなかった。否、知らないどころではない。今まで考えもしなかったのだ。
 今まで考えようともしなかった自分に呆れながら、セツは洞窟の外へと出る。出るや否や満点の星空に迎えられたセツの口から「綺麗」という声が漏れた。
 ノシドで散々見た筈なのに、どうして未だに感動するのだろう。ましてや、ここはノシドよりもずっと空から離れているのに。ついそんな事を考えた自分に思わず苦笑が漏れる。綺麗なものは綺麗なんだから、それで良いじゃないか。と。

『ここはね、この世で最も空に近い場所なの』

 遠い空で瞬く星々を眺めていると、初めて聞く声が、しかしそれでいて懐かしい声が脳裏に響いた。
 人の言語ではない女性の声を聞いた途端、セツの動きが止まり、変わりに目が大きく見開かれる。
『どこかの部族では死んだ後、魂は空に昇って星になり、地上の者を見守ると言い伝えられているらしいの。私はきっともう永くないけれど、宙から貴女達を見守れるのだとしたら恐れはない。だから、セツ。どうか気にしないで。こうなったのは貴女のせいでは無いし、何より私は貴女を全く恨んでもいない。むしろ全く違う種族の貴女と家族になれて幸せだった。本当よ』

「お……母さん」
 脳裏に浮かぶ、森の中で優雅に腰を下ろして微笑んでいる真っ白な狼。
 彼女の名は「キス」ナツメの実の母であり、セツを娘として引き取った守徒(もりと)族の女性。そして彼女は守徒の首領で、王たるにふさわしい風格を持った深緑色の狼の「バオ」の妻でもあった。
「お母さん……、お父さん……」
 ようやく思い出せた両親の顔にセツの胸に熱いものがこみ上げる。
 セツは何かの縁があってキスと繋がりを持った。キスは彼女を家族として迎え入れる事を決めて群へと招き入れた。
 だが、キスの思いとは裏腹に群の者達の反発は凄まじいものであった。
 無理もない、守徒は太古から結界樹を守っていた神聖で誇り高き一族。そしてなにより、彼等はその不可思議な生から外部の者を受け入れない、ある意味選民思想に近い考えを持っていた。
 その不可思議な生とは、出生と死が同時に行われ、種族の頭数が一定数から増えも減りもしないというものであった。つまり、彼等は種族の誰かが死なぬ限り新しい命は誕生せず、そして新しい命が誕生しなければ死なないという不思議なサイクルを形成していた。部外者であるセツを群に招き入れれば、そのサイクルが破綻してしまうやもしれない。そう思う者が大勢いたのである。
 しかし、キスはどれだけ責められようと、反発されようともセツを家族にするという意志を曲げることは無かった。むしろ反対されればされるほど意志は更に強固になり、一を言われれば穏やかな口調ではあるが百で論破するようになった。
 そしてキスが頑として退かないことが分かった群の者達は、何かがあればキスが全ての責任を負うという条件付きでセツを認めたのだった。
「お母さん、お父さん……もう、いないのかな」
 記憶の中で微笑む母、尊厳な顔つきの父。両親のことを思えば思うほど胸の中に熱いものがこみ上げて目頭が熱くなる。
 きっと両親は生きていないのだろう。でなければ、ナツメが彼等のことについて触れないはずがない。
「なんだ、また泣いているのか」
 涙がこぼれないよう賢明に顔をしかめながら歩いていると突然声をかけられ、セツは文字通り飛び上がりながら声がした方を見る。
 そこには焚き火の前で腰を下ろしている男の姿があった。男と焚き火は別段おかしくも何ともない光景なのだが、セツはそれを取り巻く環境を見て絶句する。なぜならば、男の周囲には家一つは軽く作ることが出来るほどの大量の枝が積まれていたからである。
 何がどうなってこんな大量で、そしてそこそこの大きさの枝が集結しているのか、理解に苦しむセツを余所に、男は手招きをしてセツを隣の岩に座るように促す。
「思い出したのか」
「あ、うん。お父さんとお母さんについてね」
「両親?」
「知らないのか。私を引き取ってくれた守徒の両親だよ。見た目はね、真っ白と深緑色の立派な狼なんだ。お母さんは花が好きでね、森の中に月下花っていう真っ白な花があるんだけど、良くそこに行っては色んな話を聞かせてくれたんだ……って、どうでもいいか、そんなこと」
「気にしなくていい。俺はもう両親の事など覚えていないから、そんなに楽しそうに話せるセツが羨ましい」
 余計なことをべらべら喋ってしまったかと苦笑するも、男の反応は意外とそうでもなく、セツはほっと安堵する。そして同時に男が自ら自分のことを話してくれたことが、少し心を許してくれたように思えて嬉しかった
 至極嬉しそうに笑うセツへと、焚き火で暖まった湯を竹筒に入れて渡し、男は乾かしていたセツのローブを手渡す。今、この地域は季節で言えば春なのだが、まだまだ夜になれば肌寒い。
「で、センチメンタルになって泣いていたのか」
「ぶっ!!」
 突拍子もない男の発言にセツは飲みかけていたお湯を吹いた。
「なんだ汚い」
「なんだって、お前の発言がなんだ!?」
「事実を言ったまでだろう」
「事実って……、だからって言い方ってもんがあるだろうよ! 何のために人類は言語を発達させたと思っているんだ!」
「泣いてはいただろう。まどろっこしい言い方をしたって結局言いたいことは同じだ。なら、ストレートに言った方が時間を無駄にしなくて済む」
「そうだけど……そうですけど……」
 男の言うことは正論である。けれど納得がいかないセツはもごもごと歯切れ悪く呟く。しかし、セツの言葉に表さぬ異議の言葉など、言葉に出しても通じにくい男に届く筈もなかった。
「ああ、それとだな。昼間の件は違うから気にするな」
 何が違うのか? もはやつっこみ所しかない男に、セツの中で何かが切れた。
「何が!? あんた、ちょいちょい思っていたけど、主語抜けているんだよ! だから話が全く分からん! それに何この大量の枝。風呂屋でも始める気なの!? あと私も人のこと言えたもんじゃないけど、すんごい無神経だぞ! でも正論だから何とも言い返せない。すげー質悪いぞ!」
 一息にまくし立て、セツは肩で荒く息をしながら呼吸と頭の中を整えようとした。
 が、男から返ってきたのは「良く噛まずに言えるな」という言葉と拍手だった。馬鹿にするようなその反応にセツのこめかみの血管がミリミリと音を立てて膨らんでゆく。
「そうか、俺は言葉が足りていなかったのか。知らなかった」
「今更かよ!!」
 血管が切れそうになりながらも渾身のつっこみをしたセツは急激に頭に血を巡らせたからか、貧血のような目眩を感じながら岩に座り込む。
 いきなり大人しくなったセツを心配してか、男は「大丈夫か」と声を掛けてくるが、それは明らかに余計なお世話だった。
「今までどうも話した相手が妙な顔をしているとは思っていたが、俺の言葉が足りていなかったからだったんだな。そうか、セツ。良いことを教えてくれたな」
「はぁ、何かもう、いいや。あのさ、あんた何歳なの?」
「歳か? 体の年齢は多分25だ」
「多分って……。てか25まで誰も注意しなかったんだね……」
「21らしいぞ」
「は!? 何が!?」
「お前の歳」
「よし分かった。あんたは言葉足らずってことの自覚を持つべきだ! って私21だったのか!? ティーンエイジャー終わってるじゃん!!」
 思っていたより自分の年齢が上だったことにセツはショックを受けた。21といえばノシドでは結婚して子どもを産んでいる年齢だ。それなのに自分は17歳のユキと何ら変わらぬふざけたことばかりしている。
 ーーなんてこったい……!
 精神年齢と体年齢のあまりの差に、セツは頭を抱えてうなった。
 しかし幾ら唸れど、いきなり落ち着きが出るわけでもない。どうにもならない現状を前にセツはフッと自嘲気味に鼻で笑うと、竹筒の中身をぐっと一息で飲み干した。
「そういやさ、そんな顔だったんだね」
 半ば自棄になりながら呟くと、男は相変わらずの感情の感じられぬ顔で暫く黙った。そして、数秒後。以前セツが自分の顔を見ることを拒んでいたことを思い出し、ああ。と呟いた。
「良かったのか?」
「顔を見てってこと? もう今更だしねぇ……」
 濃いえんじ色のややつり目の眠そうな目を見つめながら、セツは疲れたように笑う。
 クサカとのいざこざで再開して以来露わになった男の容姿はやや左の前髪が短い黒の短髪に、上記の目という、まあ癖のないものであった。
 無茶苦茶を言う男の容姿が平均並であったことに多少の不満はあるものの、既に明らかになったものな上に、実際助けられているセツには文句を口にする道理はない。そのような訳でセツの中では男の容姿についての論議は既に終止符が打たれていた。
「あ、今更と言えば、名前何て言うの?」
 頭を切り替えたセツはかなり今更な質問を男にぶつける。
 ガファスに行く前に男はその内教えると言っていたが、いかんせん男を呼ぶ度に「あんた」や「お前」だと聞こえが悪いし、何より共に行動するのに名前を知らないと言うのは滑稽に思える。
 名前くらいさらっと教えてくれるだろうと思うセツだが、男は黙ってセツを見たまま動かない。あれ、もしかしてまた妙なことを聞いたかなと彼女が焦り始めた頃、男は答えるのではなくすっと手を伸ばしてきた。
「え、ちょ、何……」
「あまりしたくないが、すぐ終わる」
「いやいやいやいや、答えになっていないからそれ!」
 額に手を翳され、視覚を塞がれる圧迫感から身を退いて逃れようとするが、いつの間にか男のもう片方の手がセツの後頭部に手を置いていたため、逃れることは出来なかった。
「見えないけど近い! 多分近い! 近すぎる!」
「直に終わるから、少し黙っていろ」
「黙れってお前このや……」
「開け」
 男が呟いた瞬間、セツの額がじんわりと暖かくなる。
 そして直後、彼女は目が眩むような閃光の数々と、様々な音声の波に揉まれる奇妙な体験をした。

 洪水のような波を泳ぎ、流されるセツの頭に膨大な量の記憶がなだれ込んでくる。それはほとんどが戦いの光景で、改めて自分の過去の行いが突きつけられる。
 あまりに血なまぐさい光景にえづきながら、セツは尚も濁流の如く流れ込んでくる記憶をどこか人事のように眺めた。
 やがてあれだけ渦を巻いていた記憶も、音も止み、徐々に静寂が戻ってくる。そこでセツが目にしたものは、こちらを真っ直ぐに見据える、腹毛が雪のように白い、黒毛の狼であった。それはセツがムヘールに追われているときに会ったあの狼であった。
 その狼を目にした途端「イスカ」という音が浮かぶ。
 ーーそうだ、この狼はイスカだ。
 狼のウサギのように赤い目を見ながら、セツは彼の名前を思い出したのだった。



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