25
 気が付けばセツは森の中を走っていた。ずいぶん長い間こうしていたのか、衣服はすっかり雨水を吸って重みを増している。
「……あれ?」
 つい先ほどまで、魔物に囲まれて絶体絶命の状況だった筈なのに、どうして森を走っているのか? それも、お目当ての赤い結晶を抱えて。辻褄の合わぬ状況をきちんと整理したいが、何故だか足を止めてはならぬような気がして、仕方なしに走りながら考える。が、考えたところで普段使わぬ頭から答えが出るはずもなかった。
 真っ先に浮かんだのは「夢」なのだが、今が夢だとすると腕や足の魔物に付けられた傷まで忠実に再現するのはどうかと思うし、今までが夢だと最早どこからどこまでが夢か分からず、収集が付かなくなる。
 ――まぁ、目的果たせたし、生きているし。ラッキーってことでいいや。
 自分の覚えていない範囲で事態が動いていたのは少々気色悪いが、結果的に良い方に転がったようなので良しとしたセツは、少年の元へ戻ろうと考えた。しかし、どこを走ったかを覚えていないため、道が分からなくなっていた。
「……参ったなぁ……うわ、ヌルってした!」
 結晶を抱えていない方の手で顎に手を添えたセツは気色悪い感触に思わず声を上げる。不快感露わに手を確認するセツだが、感触の正体を見た途端、彼女の表情は一変した。
稲光で手のひらが見えたのはほんの一瞬だったが、それでもセツの目ははっきりと捉ええていた。自分の手が血に濡れていたということを。
衝撃的な事実に思わず足が止まる。だが、自分が怪我をしている事に気付いたセツは「何だ、驚くことじゃないじゃないか」と、気を緩めた。カッと一際大きい稲妻が走るまでは。
「う……嘘だっ」
 雷の白い光に照らされたセツは上ずった声で否定する。自身の服にべっとりと付着した、明らかに自分の物ではないであろう多量の血を。
 しかしいくら否定したとて、仮に自分の物であれば失血死している量の血が付着しているという事実は変わらない。どうして、何故、頭の中に疑問が駆け巡る。
「いたぞ!」
 混乱しながらも、激しい雨音の中に殺気がこもった乱暴な男の声を聞いたセツは無意識に足を動かした。
動かすや否や「逃げやがった」という声がした。間違いない、自分は今何者かに追われているのだ。恐らく、この多量の血の仲間に。
やっと理解できたのは以前と変わらぬ最低の状況。
――なんで、こんなことに。
頬を流れるのは雨か涙か、セツはただがむしゃらに走った。走って走って、身なりが汚れても、足の傷が痛んでも、お構いなしに走り続けた。とにかく走り続けて、今の現実を忘れたかった。しかし……、
「そこまでだ、お嬢ちゃん。よくもまぁ、うちの大事な魔物を殺してくれたな」
 現実は例えセツが目を背けても向こうからやってきて、要らぬものを非常にも突きつけてゆく。

 突如現れた野盗のような身なりの男は、大振りの剣を肩に乗せたままセツの前に立ち塞がる。そして未だ困惑したままの彼女へと、本人が知らぬ事実を告白した。
「お嬢ちゃんみたいな娘っ子に魔物が八頭もやられるなんてなぁ。なぁ、どうやったんだ? 教えてくれよ」
「……知らない」
「何だ、言いたくないってのか? そりゃぁ……」
「違う!」
 悲鳴にも似た声が木霊した。
 少々面食らった男へと、セツは続ける。
「本当に、本当に知らない! 私が覚えているのは魔物に囲まれて、もう無理だって思った所まで。それから後は本当に分からない。知らない! ……こんな、睡火法の副作用にはこんなの無い筈なのに……!」
「は? 睡火法? ……お嬢ちゃん、もしかして」
「―――っ!!!」
 何か思い当たる節があったのか、男が声をかけようとした瞬間、胸を押さえて声にならぬ悲鳴を上げてうずくまった。
立ち上がろうにも、話そうにも肺に焼けるような痛みが襲い、セツの意識はあっという間に遠退いて行く。

睡火薬
 火蜂の毒によって作った薬を一旦肺に入れて出すことにより、通常の三倍の効果が発揮される手法。効果だけ見れば素晴らしいように思えるが、この手法で行う者は滅多におらず、国によっては禁止されているところもある。何故ならば睡火法は効果と引き換えに、使用者にそれ相応の痛みを与えるからだ。現に睡火法を行った者の内四割はその激痛のあまり命を落としている。
一旦肺に入れられた火蜂の毒は肺胞の中に癒着する。この時点では無痛なのだが、この後、肺胞の中で一定の空気の入れ替えが行われると、火蜂の毒は生前のように猛威を振るうようになる。温かい体内で、新鮮な空気を何度も受けた毒は名の如く、触れている個所を火を当てたような痛みが、肺胞の数だけ襲う。
その痛みに、セツは今襲われているのだ。

「はぁ、睡火法に、赤い結晶に……魔物殺し。お嬢ちゃん、魔物だけならまだしも、アジトに入っちゃあ、もう駄目だな」
 想像を絶する痛みに、意識を留めることが精一杯のセツの視界に、男が剣を肩にかけたまま近づいて来るのが見えた。肩に乗った剣は雷光に照らされて青鈍色に怪しく光る。
「せめてもの情けだ、一発で楽にしてやる。お嬢ちゃん、俺らのボスに会わなくて、幸せだったと思いなよ」
『生命維持、困難。生命活動を行う為、交代します』
 もう、駄目だ。セツが諦めかけた時、抑揚のない無機質な声が脳内に響き、彼女の視界は霧に覆われたようにぼんやりと白く染まり、同時に体の感覚が消えていった。
 あれほどあった痛みが消え失せ、聴覚と視覚を除く感覚が無くなった事に驚くセツを余所に、セツの体は彼女の意識とは関係なく動く。否、フィルター越しに自分の動きを見ているこの状況では、「動いている」と言った方が正しいだろう。
 事態が把握できず、ただ自分だったものが動いている様子をただただ傍観していると、セツの体は男が振り下ろした剣を難なく避けた。そして隙だらけの男の脇腹にえぐるようなフックを叩きこみ、男の上体が屈んだ瞬間、顔面に膝蹴りを叩きこんだ。
 ――凄い。
 流れるような一連の動作に、セツは自分の状況を忘れて感嘆の声を上げる。しかし、その気持ちも、自分の体が短刀で男の首筋を断とうとした瞬間に消える。
 ――な、何しているんだよ! 止めろ!!
『何故ですか?』
 抗議すると僅かに時差があったものの体は止まり、そしてまたあの無機質な声がする。どうやら、この声の主が今のセツの体を操っているようだ。
 ――何故って、そこまでする必要は無いだろ!?
『必要?』
 セツの体が止まったことにより、男は今度こそ仕留めようと剣を振る。しかしセツの体は男の考えが分かっていたかのようにそれを避け、男の肘に短刀を突き刺して剣を落とす。そして手ぶらになった男の腕を背後に回って掴むと、男の背に足を掛け、
『命を狙った相手に対して、何を迷う必要があるのですか』
その腕をへし折った。
 男の絶叫が森に響く。自分が行った行為に青ざめるセツを余所に、体を動かしているナニカは「居場所が特定されます」と、男には全く興味がないように呟いただけだった。そしてまたしても男を始末しようと、血に濡れた短刀を構える。
 ――止めろって、止めろって言っているだろ!
 心の奥底から叫ぶと、セツの体はガクンと大きく揺れ、そして次の瞬間に胸に燃えるような痛みと、頬を伝う冷たい雨の感触が戻ってきた。体を動かせるようになったのだ。
 相変わらず肺は苦しいが、先ほどと比べるとはるかに楽。何より思い通りに体を動かせるようになったセツは痛みよりも安堵の方が大きかった。
段々と近づいてきた大勢の気配に気付いたセツは急いでその場から立ち去ろうとする。が、未だ地面に倒れている男を視界に入れ、少し迷うような素振りを見せた。しかし、自分が男に掛けていいような言葉はなく、何も言わずにその場から立ち去る事しかできなかった。


「……で、あんた、誰?」
『私はあなたです』
「全く分からん。つまり、私は二重人格みたいなもんなの?」
『私も、貴方と同じく記憶が破損しています。現時点で残っている情報は、私は貴方が生命維持活動を行うに当たり、困難な状況になれば自動的に現れるということです』
 雨の森の中を走りながら、セツは突如湧いて出てきた謎の声に疑問をぶつけていた。
「ふーん。じゃあ、あんたは初めっから私の中にいて、これからもずっと一緒ってこと?」
『はい』
「……愛想無い奴だな」
『次の岩を右です』
 意識を失っていた間、変わって活動を行っていたというナニカの道案内を元に、少年が待っている場所へと向かう。
頭の中で誰かが住んでいるというのは少々居心地が悪いが、話を聞いてみれば悪いものではないようだ。少なくとも、生き残る上ではセツに力を貸してくれるというのは明確だ。
しかし、ナニカはセツの脳内に存在している為、言葉に出さずともセツの考えは全て筒抜けになっているらしい。常に素っ裸を晒しているような、プラバシーの欠片もないこの共存法はいささか不満である。
『この道を真っ直ぐ進めば目的地です。役目が終わりましたので、接続を切ります』
「えっ! ちょっ!!」
 前振りもなくいきなり別れの言葉を告げるナニカを引き留めようとするも、どうやらナニカは告げるとともに消えてしまったようで、幾ら呼んでも返事すらしない。
「何と言うか、可愛げ無いなぁ……」
 素直な感想を漏らした後、セツは付近に強烈な気配を感じて思わず身構える。それは刺すような殺気を放ちつつも、物音一つ立てない。殺気のみが近付くような感覚に陥ったセツは無意識に懐から短刀を取り出していた。
 ――何処にいる?
 緊張感から自分の鼓動が嫌に煩く聞こえる。雨音と鼓動の音を全身に感じながら、セツはどこで見ているかも分からぬ敵の居場所を探す。と、不意に背後から物音もなく腕が伸びて来て、彼女の襟首を掴んだ。
「……このっ!」
「はい、お前死んだ」
 咄嗟に手を振り払おうとしたセツの耳に、聞き覚えのある声が届いた。
 それが誰だか認識したセツは今にも突き立てようとしていた短刀を下ろし、解放されると同時におずおずと向き合う。向き合った先には想像通りクサカの姿があり、セツは緊張と安堵が混じった複雑な表情で彼を見た。
「水も滴る良い男、って所か」
「自分で言っちゃ価値下がるね」
「……お前、恩人に対して何だその態度」
 恩人という事柄に思い当たる節が無いセツはあからさまに怪訝そうな表情になる。するとクサカは待っていましたとばかりに得意げな顔で、
「お前の連れのがきんちょ、村に連れて行ってやるよ」
「なんで?」
「何でって、本当にお前頭足りてねぇな。お前色々やらかして野盗に追われてんだろ? 何でも、野党の頭が直接お前の捜索始めたってよ。さっき会った野盗のおっさんが教えてくれたぞ。そんな状況であのガキを連れて逃げ切れる訳ねぇだろ」
「それは……」
「分かったらとっとと囮として働け。ほらよ」
 少年に渡していた筈のローブを乱暴に投げつけられたセツは、お返しとばかりに少年のお目当てである結晶を投げ渡す。結晶を受け取ったクサカは何やら神妙な表情でそれを見つめていたが、僅かに嘲笑をした後に太ももに付けているホルダーから武器を取り出し、セツへと向き直る。
「ギッ!」
 何かを貫くような鈍い音と、くぐもった鳴き声が微かに聞こえ、それと同時にセツの髪が数本パラリと地面に落ちた。
「ちっ、もう来やがったか」
 何が起こったか分からず口をパクパクさせるセツの横を通り、クサカは忌々しそうに吐き捨てながら声がした方へと歩いてゆく。ぎこちない動きでそちらを見ると、そこにはクサカが放った銀色の細長い針によって木に打ち付けられた魔物の躯あった。
「戦えたんだ……」
 魔物の胸を貫いている針を回収するクサカを眺めながら、呆気にとられたように呟くと「当たり前だろ」というもっともな意見が返って来る。
 魔物が出るこのご時世で旅をするのなら戦えなければ話にならない。だが、ここまで強いとは思っていなかった。それも、自分とここまで力の差があるとは。
 ――まだまだ、弱いな。
ノシドでは男顔負けの狩人と称され、人さらいとも対等に戦えた為に実力があると思っていた。しかしどうだ、少し前にはナニカに助けられなければ死んでいたし、今はクサカに簡単に背後を取られ、魔物の存在にも気付くことが出来なかった。
なまじ力がある故に、思い上がっていた自分が恥ずかしくて仕方がなかった。よくもこんな弱い状態で警護を引き受けたものだ。ここまで思い上がっていたとは、恥ずかしいを超えて笑いが漏れる。
いきなり笑い出したセツをクサカは気味悪げに見ていたが、ふとある事を思い出して、
「お前、殺したろ?」
 途端にセツの顔から笑いが消え、漆黒の目が見開かれる。それを見たクサカは歪んだ笑みを浮かべる。


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