ガファスの路地裏の最奥にある廃屋で何やら騒がしい声がする。
「離せって!ガリガリ! ちゃんとご飯食べてんのか!? 過度な減量は体に毒だぞ!」
「煩イ! ちゃんと食べてるワ!!」
「だったら離せ!」
「意味が分からなイ!」
やかましい言い争いをした後、セツは部屋の隅にある鉄でできた檻に放り込まれた。手は後ろで縛られている。
「セツ……ごめん」
「良いって、私の為にしてくれたんでしょ?」
連れて来られる途中で、ノチェが痩せた男の妨害をしようとして捕まった事を聞いたセツは笑いながらノチェに言う。
痩せた男もどこかに行き、ノチェと二人きりになったセツは見張りもおかずに放置するこの状況に苛立った。
「セツかぁ?」
なんとか縛られている腕を解こうともがくセツに、聞いた事のある声がかけられた。見てみれば廃屋の入り口の方でクサカリが立っている。
「おわ、クサカリさん! どうしてこんな所に?」
解くことに失敗したセツは檻の中で転がりながら予想外の客に尋ねた。
ノチェはクサカリの事をただ驚いた表情で見つめている。
「オラ……仕事だからぁ」
「仕事って運送業でしょ」
「オラの仕事……さらった娘を運ぶ事」
それを聞いたセツはたじろぎにたじろいだ。後ろでノチェが「確かに運送業ね」と言っているが、それすら耳に入らない。
驚きのあまり陸に上がった魚のように跳ねるセツを気にする事なく、クサカリは口を開いた。
「オラ、仕事を辞めて故郷に帰る。セツも助ける」
今までのような頼りない顔から、覚悟を決めた顔になったクサカリは、はっきりとした口調でそう言い放った。朝とは別人のようなクサカリを見たセツは驚いたが、それより喜びの方が大きかった。
「セツは初対面にも関わらず、オラの背中を押してくれたぁ。恩人を助けないとご先祖様が怒るぅ」
そう言いながらクサカリは檻の鍵を開け始めた。カチャカチャという金属音を聞きながらセツは何かが引っかかっていた。
「初対面……?」
「ああ、セツは他人のオラにまるで古くからの友人みたく接してくれたぁ」
「クサカリ……だよね?」
再度名前を確認するセツに鍵を開き終えたクサカリはキョトンとした顔で答えた。
「"クサカリ"はここに来た時ある人がくれた源氏名だ。オラの本名はアベニダだ。みんなアベって呼んでたぁ」
クサカリ――もといアベニダの告白を聞いたセツは自分の大きな勘違いに落ち込んだ。仲間だと思っていた今までの自分の行動が恥ずかしく思えてならない。そして同時に散策が振り出しに戻ったことに脱力する。
「セツ、早くぅ」
急かすアベニダに、セツはまだ落ち込みが残ったまま檻を出ようとした。が、ある事に気が付いて立ち止まる。
「ね、ノチェは? ノチェも一緒に逃げられる?」
するとアベニダは入り口の方から、気を失った男を引きずって来るとセツに言った。
「悪い……身代わりが一人しか……」
身代わりが一人、それはつまり確実に逃げるためには二人の内、どちらかがここに残らなければいけないという事を指していた。
「じゃ、ノチェ連れて行って」
アベニダの話しを聞いたセツはそう言うと、驚くノチェをアベニダに預けて、ノチェにボロ布を脱ぐよう言った。
「何で? あたしこの人と何の関わりも無いんだよ」
「だって私の服着せるより、ノチェの布と男の服交換した方が時間かからないでしょ。時間は有効に使わないと! あ、クサ……アベさん、縄もうちょっと緩めてもらって良いかな?」
何でも無いように答えたセツはアベに腕を縛っている縄を緩めてもらうよう頼んだ。しかし、そんなセツとは反対にノチェは怒りに震えていた。
「バカじゃないの!? 自分を犠牲にしてさ、良い人ぶるのもたいがいにしなよ!」
ノチェの怒声に縄を緩めていたアベニダの手が止まる。ノチェが言った事は言い方さえ違うが今朝セツがアベニダに言った言葉とどこか似ていた。
「私は良い人ぶってなんか無いよ。ただ自分がしたいからそうするだけ、それにノチェが残るより私が残った方が生存率は高いでしょ。確率論だよ」
「何が確率論よ! どうせ同情でしょ!? 私を哀れに思うとかやめてよ!」
「……同情? そっちこそいい加減にしろよ!」
初めて見せるセツの怒りにノチェは怯んだ。先ほどまでとは打って変わり、セツの目は静かに怒りの炎が揺らぎ、顔つきは厳しいものへと変わっている。
「言っただろ、私が残った方が生存率は高いって。悪いけど、ノチェみたいな非力な子と、私みたいな狩りとかで場数踏んだ奴だとどう考えても後者の方が有利なんだよ。仮にノチェが百戦錬磨の猛者だったら、私はアベさんととっとと脱出しているよ……あっ、責めている訳じゃないよ!」
ノチェの目からポロポロと涙が零れていることに気付いたセツは慌てて最後に付け加える。言い過ぎたのかと狼狽えるセツの前でノチェは涙を拭うことなくただただ涙を流す。それが益々セツの心を慌てさせた。
「あのね、だからね、やっぱり誰だって犠牲を出したくない訳じゃないですか。と言うか、我儘。うん、我儘、これは人さらいの親玉に一杯食らわせたい私の我儘なんだよ。そこんとこヨロシク!」
完璧に混乱したセツは訳の分からぬことを口走りながら親指を立てた拳をノチェへと向ける。何がヨロシクなんだと、冷や汗を流しながら心中で自分を罵倒するセツの前でノチェがおかしそうに笑った。
怒り、涙、そして笑いとコロコロと変わるノチェの表情にセツは暫く呆気にとられていたが、止まぬノチェの笑いを見ている内につられて自分も笑い出す。ケラケラと無邪気に笑うこの時の二人の姿は幸せな少女そのものであった。
ひとしきり笑ったノチェは目の端に浮かんだ涙を拭い、檻の外へと歩き出す。そして檻の鍵を閉め直し、、
「シッシ様……シッシにあたしの分もお見舞いしておいてね」
「早くぅ! 急げ」
「っセツ! また会うんだからね! だから、だから……っ!」
アベニダに手を引かれながら、ノチェは何とかセツに言葉を伝えようとする。けれど、見張りが戻ってきた為にそれが全てセツに伝わることはなかった。しかし、セツには全て言わずともノチェが何を伝えたかったのかを理解していた。
「うん、私はやられないよ。約束する」
既に姿が見えない通路を真っ直ぐ見据えて、セツは友達へと約束したのだった。
・
白い床と壁には気が付けば赤い色で染まっていた。そして私の体も赤が大量に付着している。左手にはズシリと重い物が抱えられており、それを支えるのが酷く面倒だった。
「セ……ツさん」
名前を呼ばれて振り返ってみれば、まだ白が残る入り口の方で蒼白な顔をした華奢な女性が立っていた。
振り向いた拍子に左手にあった何かが地面にずり落ちた。ズシャリ、重たい何かが水気のある床に落ちた音は、酷く耳障りであった。
……見たくない。
落ちた物を見たくないその一心で目の前に立ちすくむ女性から、目を離す事ができない。
見れば何かが崩れてしまう。
足音が聞こえる。直にあの人も来るだろう。そして二人は口を揃えて私に言うのだ……。
・
「……ん」
檻の中で夢から覚めたセツは意識が覚醒するなり即座に周囲を確認した。幸いまだ誰も来ていない。
――普通この状態で寝るか!? 寝られるか!?
あれからセツはしばらく起きていたのだが、疲れから来る眠気に負けていつの間にか寝てしまったのだった。
ふと横を見ればノチェの身代わりの"なんちゃってノチェ"が横たわっている。"なんちゃってノチェ"のすね毛が目立つ足をボロ布で隠したセツは、先ほどの夢を思い返していた。
真っ白な空間に立つ"セツ"と呼ばれた自分。そして白を飲み込もうとする赤。
落ち着いた今朝の夢とは違い、先ほどの夢は恐怖すら感じた。それを裏付けるように後ろに組まれた手には、じっとりと汗が浮かんでいる。
そうする内に外が騒がしくなった。ようやくこの件の黒幕がおいでになったのだろう。
セツはあくびをひとつすると、直に現れるであろう美しい仮面を被った悪魔を待つ事にした。
廃屋の戸が開き、人さらい達が明かりを付けるために荒っぽい足音を立てて部屋を走り回る。荒っぽい足音が止んで部屋が明るくなった頃、コツコツとヒールで床を叩く音がし、人さらいのボスに先導された金髪の美女がセツの前に姿を現した。
「ご機嫌いかが? セツさん」
シッシは檻の前にあるソファーに腰掛けると、昨日と全く違わぬ艶やかな笑みを浮かべてセツに挨拶をした。
「あんたもここに入れば分かるんじゃないかな」
「そんな所にこの私が入れる訳無いじゃない。本題に移りましょう、あなた一体何者なの?」
セツが答えるとシッシは檻の中に横たわる"なんちゃってノチェ"を眺めながらタバコに火を着け、わざとらしく檻へと煙を吐きかける。煙が直撃したセツは作り笑いを止めて顔をしかめた。
「何者って見た通り人ですけど。目、大丈夫?」
タバコの煙に機嫌を悪くしたセツは敢えて厭味ったらしく返す。目には目を歯には歯を。ハムラビ法典通りに返すと、シッシはその返事が気に入らなかったようで再度煙をセツに吹き付けた。
「あなた馬鹿? そんな事誰でも分かるわよ。私が聞きたいのはあなたの詳しい情報」
臭い煙を吹き付けられたセツは噎せながらシッシを睨む。
露出度の高い服を着たシッシは高圧的な眼差しでセツを見ている。まるで道ばたの邪魔な石ころを見るような眼差しに嫌悪感を抱いたセツはぶっきらぼうに答える。
「あのさ、人に物を尋ねるときはまず自分から言うもんじゃないの?」
「まあ良いわ、あなたエセカラの女なのよね? こんなじゃがいも娘のどこが……、私はね、欲しい物なら何でも手に入れて来たわ。もちろんこの美貌でね。私が望めばお金も権力も、男も……何だって手に入った」
そこまで言うとシッシは忌々しく檻の中の二人を見た。
自分の地位とプライドを奪おうとするセツとノチェは、シッシにとっては害虫に匹敵する程汚らわしいものだった。