17
 立ち上がって後ろで尻餅を着いている人を見れば自然と笑みが浮かぶ。しかし相手は気が付いていないようで、ガタガタと震えている。
「来ないでっ!!」
「ちょちょ、ノチェ、私! セツだよ」
 セツが声をかけるとノチェは顔の前にかざしていた腕をどけた。暗闇の中でセツの目に映るノチェの顔が少し綻んだ気がした。
「ノチェ、立って。とりあえず人が来ない所に行こう」
 怯えるノチェの状態から逃げ回るのは無理だと感じたセツは、ノチェの手を引いて場所を移動することにした。

「水ありがとう」
 セツから貰った水を飲んだノチェはいくらか落ち着きを取り戻していた。
 散々逃げ回ったのであろう、ノチェは昼間と比べて髪は乱れて、腕と脚擦り傷だらけになっている。
「あたしね、ずっと一人で貧しい思いばっかりしてたんだ」
 手に水が入った竹筒を持ちながら、ノチェは急に自分の事を語り始めた。
「十でこの町に来て、それから七年間必死に働いた」
 ――て、事は今……十七!?
 こっそり十七だった自分とノチェを比べたセツは無性に悲しくなった。
「十二の時にシッシ様の働く店に雇われて、近付けるように必死に頑張って……幸せになりたい一心で働いたのに今じゃ人さらいに追われいてる。笑っちゃうよね」
 はは、とノチェは力無く笑うと顔を上げてセツを見た。セツを見たノチェはギョッとした。セツは何故か眉を思いっきり顰めて口を横一文字にして涙を堪えている。どうしたの? と尋ねられたセツは片手でノチェを制すると、数回目をしばたかせて一息ついた後に口を開いた。
「な……んでも無い゙!」
 話を聞いている途中でちっぽけな事で悩んでいる自分が情けなくなったセツは、十歳から働き続けていたノチェへの尊敬の念と情けない気持ちが合わさって、どうしようも無い気持ちになっていた。
「うっ……、でシッシさんはノチェが追われいてる事知っているの?」
「それは……」
 鼻をすすったセツが疑問をぶつけると、ノチェの表情は明らかに暗くなった。
「シッシ様は知ら……ない」
「なぬ!? じゃあ私が知らせて来るよ」
「ダメっ!! それは絶対ダメ」
 まだ少し鼻声のセツはノチェの返事を聞くと、立ち上がって居場所すら知らないシッシの元へ行こうとした。しかしノチェはセツの腕を掴んで行かせようとしない。
「何で? あの人なら何とかしてくれるんじゃないの?」
 知らせに行きたいセツは止めるノチェに、理解できないと言った様子で聞き返した。自分も追われているという事はこれっぽっちも頭に無いようだ。
「違う、違うの。人さらいは必ず女しか狙わない。そしてさらわれる女はシッシ様の店で働いている人か、エセカラにちょっかいを出した人」
「な、エセカラ!?」
 セツの頭に迷惑そうな顔をしたエセカラの顔が浮かぶ。いくら俺様な奴だといってもエセカラが犯人だとは思いたくなかった。真っ青になるセツにノチェは泣きそうな顔で言い放った。
「そして最後はシッシ様の立場を脅かすような人。……私が売上を上げたからシッシ様は私をこの町から消そうとしている」
 そう言うとノチェは地面に崩れ落ちた。
「人前で泣くな」父が最後に言った約束を、ノチェはこの日初めて破ったのだった。

 七年前、適当に仕事を探し、ある店で些細な粗相をして店長に怒られ落ち込んでいるノチェを励ましてくれたのは、偶然店の前を通りがかったシッシだった。何時も綺麗な服に身を包み、優雅に大通りを歩いていた雲の上の存在であるシッシが、薄汚い身なりの自分に声を掛けてくれた。
 幼い少女がシッシに憧れを抱くにはそれだけで十分だった。
 後にシッシが働く店の従業員になったノチェは毎日が幸せでたまらなかった。やがて同じ立場で仕事が出来るようになり、少しでも近くにいたい一心で仕事を覚え、他の従業員に「姉妹みたい」とまで言われるようになり、毎日が輝いていた真っ只中だった。
「ノチェを売ってほしい」
 そうシッシが話しているのを聞いたのは。
 ノチェの売り上げがここ数日でシッシを追い抜いたらしく、立場が危うくなったシッシはノチェを売ってくれるよう人さらいに頼んでいたのだ。
 ノチェは、シッシが最近多発している人さらいに関与している。という噂を知っていた。しかし自分にとって憧れであり、姉であるシッシがそんな事するはずが無い。その思いで噂などこれっぽっちも信じていなかった。ましてやそんなノチェに「自分が売られる」という意識など皆無だった。
「こっちには願っても無い話だが、良いのか? 妹みたいな存在なんだろ?」
 人さらいの言葉にノチェは意識を取り戻した。健気なノチェはシッシが「妹だけど自分の地位を守るためなら仕方が無い」とでも言ってくれさえすれば喜んで売られるつもりだった。しかしシッシは鼻で笑いながら答える。
「妹? 冗談はよしてちょうだい。あの子にそんな気持ち抱いた事なんて無いわ。気持ち悪いし、正直鬱陶しいの」
 シッシのその言葉に、ノチェは足元から崩れ落ちるような感覚に襲われた。
 「姉妹みたい」と言われた時にシッシが微笑みながら頭を撫でてくれた事が遠い昔のように感じられる。
 気が付けばノチェは荷物をまとめて宛もなく歩いていた。歩けば歩く程今までの日々が思い出されて、シッシの「ノチェを売ってほしい」と言った言葉が甦る。途端に追われているような感覚に襲われ、走った末に出会ったのが昨日エセカラと共にいたセツだった。
 セツの手を引いて走った理由は自分でも分からない。ただ誰かと一緒に居たかっただけなのかもしれない。ノチェがシッシの敵だと思い込んでいたセツは、彼女が思っていたより遥かに脳天気で、世間知らずで、そして呆れる位お人好しだった。
「何であんたは……」
 シッシに売られた悲しみと、昨日に出会っただけの他人を心配するセツの気持ちに、ノチェは静かに涙を流した。


 ノチェが泣き止んで少したった頃、遠くから怒鳴り声と荒々しい足音が聞こえてきた。
 ノチェとセツを逃がした人さらい達が苛ついているのだろう。時折何かを蹴飛ばす音さえ聞こえて来る。
「ノチェ、そろそろ来るよ」
 ノチェは少し怯えた表情をしたものの、キッと顔を引き締めるとゆっくり立ち上がった。
「い、居た居た。ふ、二人居るよ」
 真っ先にセツを見つけたのは二人組の太った男だった。セツは見つかった事に気が付いた途端に壁をよじ登って走り出した。背中にはノチェが背負われているのだろう。ノチェのヘアバンドがゆらゆらと揺れている。
「どこダ!?」
「あ、あの壁の向こう」
「馬鹿! 早く追いかけろヨ! 他の奴らに奪われちまうゾ」
 痩せた男と太った男のでこぼこコンビは、すぐにセツの追跡を始める。他の人さらいのメンバーも男の声に気が付いたのか、一斉に同じ箇所目掛けて走り出した。
 その様子を欠けた茶碗を持った乞食は暫く眺めていたものの、視線を反らすとゆっくりと路地裏の闇へと消えて行った。

 ・

 路地裏に怒鳴り声と荒々しい足音が鳴り渡る。住民はこの辺りで人さらいがある事を知っていた。しかし下手に関わると自分達の身に危険が降りかかる為、現場を見ても見ていないふりをしている。
「どうしてこんな煩いのに誰も注意しないんだよ!」
 人さらいが住民によって黙認されている事を知らないセツは、わざと物音を立てて逃走していた。しかし期待に反してそれに気が付いて追ってくるのは人さらい達だけで、住民の姿は影も形も見えない。
「ああ! こんなバケツ叩きながら走っても意味ない!」
 住民に気付いてもらう為、騒音を立てて走り回ろう計画。が役にたたないと分かったセツはバケツを片手に持って、もう片方の手で背中を支えながら逃走した。
「いらっしゃーい」
 走っていると前の角から一人の男が現れた。手にはナイフを所持しており、どう見ても人さらいグループの一員だ。
「止まりなさい、大人しくすれば手荒な事はしない」
「そんな忠告、聞かないに決まっているだろ!」
 男の忠告に従う事なくセツはそのまま男の方へ突っ込んで行く。セツが自分に従わないと分かった男はわざとらしくため息を一つ吐くと、ナイフを構えようとした。
 しかし、男がため息を吐いて顔を上げた時、目に映ったのは自分の目の前でブリキのバケツを振り上げているセツの姿だった。
「強行突破ァー!!」
「いやああぁぁあー」
 二つの声が響きその直後に、ガンと鈍い音が響き渡った。
 セツが走り去った道に残されたのは、白目を剥いて仰向けに倒れている男だけだった。


 ――やってしまった……
 自己防衛とはいえ無抵抗(?)の人物に過度の暴力を震ってしまった事にセツは少々落ち込んでいた。
 今度は手を出されてからにしようと考えているセツの背後から怒鳴り声が聞こえてきた。
「いい加減大人しくしろー! ヘアバンドと仲良く捕まれ」
 無茶な事を言う相手に「また来た」と思ったセツは、どうしたものかと考えた後、手に持っていたバケツを地面に放り投げた。
 十メートル程走ると派手な音と共に悲鳴が聞こえてきた。追いかけていた人物が足元のバケツに気付かず転倒したのだろう。
「さて、どうしよう?」
 物音がしなくなった事を確認したセツは追っ手が来ていないと踏んで、両手で背中を支えながら思案した。
「鬼ごっこは終わりだ」
 とりあえず大通りに出ようと考えたセツの頭上から、低い男の声がした。
 慌てて上を見上げれば三メートル程の高さの段に男が数人乗っている。そのなかには例のでこぼこコンビの太った方も含まれていた。
「よくも手を煩わせてくれたな」
 初めに口を開いた男が憎らしげに言うと、他の男達が地面に下りてセツを取り囲んだ。
「世話してくれって頼んだ記憶ないけど」
 セツが余裕を見せてそう言うと男は苛立たし気に壁を殴った。
 ちなみに余裕そうに見えるセツだが、内心は四面楚歌のこの状況にテンパっている。頭の中は"どうしよう"で埋め尽くされている。
「まあ良い、お前ら早くその女とノチェを捕まえろ」
「ノチェ? どこに居るのさ」
 男が命じると人さらい軍団はセツに襲いかかろうとした。しかし当の本人であるセツは可笑しくてたまらないと言った様子で尋ねた。若干吹き出してさえいる。
「どこってお前が背負っているだろ」
 それを聞いたセツは引っかかったとばかりに顔をにやけさせると、背中に背負っていた「ノチェ」を前に抱えた。
「引っかかったな! これはただのボロ布にノチェのヘアバンドを巻いただけだっ!」
 目の前に広げられたノチェとばかり思っていたボロ布を目の当たりにした人さらい軍団は、理解できていない様子で口をぽかんと開けていた。
「本物のノチェはとっくに逃げた! やーいやーい、引っかかってやんのー」
「このガキ……!」
「ボス!」
 セツが理解できていない人さらい軍団に説明をした所、後ろから乱入者が現れた。
 見てみればそれはでこぼこコンビの痩せた方で、片方の手で何かを引っ張っている。
「ちょっと、離して! 離してよ!」
「ボス、何故か乞食の格好をしたノチェを捕まえタ」
 そう言うと痩せた男は思い切り手を引っ張ってボロ布にくるまれたノチェを引きずり出した。途端、セツのにやけた顔が凍りつく。
「何が引っかかったって?」
 ボスと呼ばれた男は嫌らしく笑うと真っ青なセツに向けて言った。


17/ 91

prev next

bkm

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -