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彼女は夢を見ていた。その夢は懐かしくて、楽しく、そしてどこか切なかった。
 ──お帰りなさい……。
 ――う……
 ゆっくりと彼女の漆黒の双眼が開かれる。
 ぼんやりとする頭で辺りを見渡すが、何故か良く見えない。
 体全体がずっと眠っていたかのようにだるく、動かす気にもならなかった。
 ――えっと、確かあたしは……
 ぼんやりと怠ける頭に活を入れ、彼女は今までのいきさつを整理し始めた。
 儀式、ユーシキとの出会い、謎の人物と魔物からの逃走……。思い出すにつれ、彼女の瞳に光が戻り始めた。
 謎の人物との別れ、狼からの逃走、白い花畑……そして巨大な結界樹と不可解な現象。
 ――ああ、そうだった
 一人納得した彼女はどこか寂しげに小さく笑った。すると口の端からボコっと音がして、何かが出ていく感じがした。
 ――ん? ちょっと待て
 違和感に彼女はもう一度笑ってみた。再びボコっと音がして、口から泡が出て来る。
 その状況が該当するのが一つしか浮かばなかった彼女は動かない体を無理やり動かし始めた。
 かろうじて頭部のみが動き、頭部が動いた事により揺れた髪の毛が彼女の視界に入る。
 目の前でゆらゆらと揺れる黒髪を見た彼女は、ここが水の中だということを確信した。
 ――しっ死ぬ!!
 此処から出ようともがくも、体は彼女の意に反して全く動こうとしない。
 こんな状況なのに動いてくれない自分の体に彼女は泣き出しそうになった。
 ただでさえ信じられない状況なのに、それにくわえて今の自分の立場を考えた彼女の心に、悲しみを上回る怒りが芽生えた。下唇を噛んだ彼女はキッと目の前にある白い曇りガラスのようなものを見据えた。
 ――意味が……
 ポツリと呟くと、当然それは泡となって消えてゆく。一言呟いた彼女は瞳を一旦閉じた。
 ――意味が分からん!!
 目を開くと共に彼女は素晴らしいまでの逆ギレの気持ちを吐き出した。
 ピシッ。彼女が怒鳴りつけた瞬間、何かに亀裂がはしる音がした。
 彼女はそれに気付かずにもやもやとした感情をここぞとばかりに吐き出し続けている。
 ――大体、あたしの体が……
 引き続き彼女が愚痴を吐き出そうとした時、何かが砕け散る音がして目の前の曇りガラスのような物が崩れ落ちた。
 それに比例して内部からの水圧により彼女は外へと押し出される。 ザンと色んな物が水に落ちる音が夜空に響いた。
「うばばばば」
 その中で妙な奇声を上げながら、彼女も水の中へと落ちて行く。
 水中でも思うように体が動かない彼女は一種の諦めが生じたのか、ただ流れに身を任せた。
 上手い具合に仰向けでぷかりと浮かび上がった彼女は、安堵のため息を一つついて夜空を見上げた。
 結界樹の合間から見える夜空は、見たことも無い程の濃い真珠色の結界で覆われており、遠くで輝く星がいやに美しく見える。
「綺麗……」
 声を発した彼女はいつも聞いていたのとは違う自分の声色に、はっと口をつぐんだ。
「ちょっと待って、あたしこんな声じゃ……」
 言いかけた彼女の額に上から落ちてきた何かが直撃した。
 落ちてきた何かは、彼女の額でバウンドすると、うまい具合に仰向けになっている彼女の胸の上に乗った。
「うごっ! 何だっていうんだよ……あら? 動いた」
 額を襲った激痛に、反射的に彼女の動かなかった両腕が額を覆った。
「これが噂のショック治療か〜」と、少しズレた考えに至った彼女は動くようになった両手で胸の上に乗っている物を取り上げた。
「あ……れ? これさっき光っていたのと色違い……」
 手に掴んだ真珠色の石を見た彼女は、先ほどまで自分が持っていた薄緑色の石を思い出して、服の袖を探り始める。
「あれ? ないぞ? むしろそれ以前に服の色違うし、あたしこんなに髪の毛長くないぞ」
 腕を持ち上げて再度確認した彼女は一人頷いた。確かに彼女が以前着ていた服は白いものだった。しかし今着ているものは、暗くてはっきりとした色はわからないが白ではない。黒か紺色だ。
 そして肩にかかる位だった髪が腕にまでかかっている。さらに言えば前髪も伸びている。
「まさか……本当にあたしが予想した通りとか?」
 白い光の中で想像した事を否定するように、彼女は頭を横に振るった。
 彼女の予想は、自分の正体は伝説にある"漆黒の守り神"で、十八年前の結界が消滅しかけた時に何らかの理由で今までの体――ユキの体に自分の魂が入り込んだものというものだった。
 もしその仮説が自分の勘違いなら恥ずかしいことこの上ない予想だが、彼女には「きっと当たっている」と感じさせる何か得体のしれない予感がしていた。
「むしろ勘違いの方が……」
 首を振りながら言いかけた彼女の視界に、何か白いモノが映り込んだ。
 ――いやいや、落ち着け落ち着け。
 何だか見覚えのある白い物体に、彼女は心の中で落ち着けと繰り返し唱えながら、もう一度首を横に傾けた。
 そこには力なく泉に浮かんでいる、ついさっきまでの彼女――ユキがいた。
「ちょっと待てー!!」
 ユキを視界で捉えた彼女は思わず声を張り上げた。
 その理由は"元、自分の体"が目の前でいたからでは無い。
「死ぬって!!」
 彼女が必死に怒鳴っている理由は、ユキの体が水に対してうつ伏せになっていたからだった。その後、彼女は唯一動く腕を使って必死にユキの元へと泳いだのだった。

「も……もしもし?」
 うつ伏せになっているユキの体を仰向けにさせると、隣で浮いた状態で彼女はユキの頬を軽く叩いた。
 しかし反応は無く、静寂が二人を包み込む。
「起きて〜、あた……ユキさーん」
 自分の名を呼ぶのは妙なものだと思いながらも、彼女はユキに呼び掛けた。
 幸い、仰向けにした時に水を吐き出し、今も胸が上下しているので危険な状態では無いだろう。
 しかしここは水の中。早く水から出ないと体が冷え切ってしまう。
早く岸に上げないと そう考えた彼女は右腕にユキの首を挟むと、左腕を使って岸の方へと泳ぎ始めた。
「どうしよう……」
 岸の近くまで泳いだ彼女は困っていた。
 苦戦しながらも岸の近くまで泳ぐ事はできたのだが、岸と泉の間にはちょっとした段差があった。
 ユキを抱えて泳ぐだけでも苦戦した彼女が、この段差を上がるには無理に等しい。
 先に這い上がって、後からユキを引き上げようにも、彼女が這い上がる際にできた波がユキを岸から遠ざけてしまう。
 逆に泉の中からユキを押し上げようにも、腕だけの力ではユキを持ち上げる事すらできない。
「どうしても出来ない……」
 幾度となく作戦を考えては実行していた彼女はついに弱音をはいた。
「どうして動かないの?」
 静かな闇夜に彼女の言葉が響く。顔を上げることなく彼女は自分の身体への言葉を続けた。
「覚えてないけど、ずっと昔から待ってくれていたんでしょ? 今動かないでいつ動くの? あんたが動いてくれないとユキが、あの子が死んでしまうかもしれない!」
 最後の方は声を張り上げて言った彼女は、仰向けのまま動かない足を掴んだ。
 すると息を荒げている彼女の足へと、結界樹から糸を延ばすように結界が伝ってきた。しかし目に手を押し当てている彼女はそれに気づいてはいない。
 足へと延ばされた結界が掻き消えると同時に、彼女はクワッと目を見開き、
「心と体は二つで一つ! 意思の疎通をはかれッ……ゲバッ!!」
 気合いを入れて足を蹴りあげようとした彼女は、突然動き出した足に対処できず、見事に水中で一回転したのだった。


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