焼けるような痛みが手首に走り、思わず声が漏れる。鋭利に造形した氷から滑った血液は玉となり、やがてシャワールームのタイルに落ちては水と融解していった。
一年に一度だけ、こうして自傷行為に駆られる。それはどうしても自分では止めることが出来なくて。
身体がやけに重く、鈍い頭痛がする。なにをするにも気が起きなくてこの日ばかりはギルドにも行かない。
ただ一日浴室の中。シャワーを流したまま電気ひとつ付けずに温い湯をかぶる。
一日が終わる頃、こうして手首を自傷することですべて終わるのだ。明日にはいつも通り、元の生活に戻る。
妖精の尻尾の皆には絶対に知られたくはない。
大丈夫。365日に1回だ。周期的とは言え気付く者はいないだろう。現に今まで誰かが家を訪ねてきた事はなかった。
毎日ギルドに行く訳ではないし、大丈夫。
傷跡だってごく薄いから、いつもしているブレスで誤魔化せる。
ノズルから零れるぬるま湯に打たれ、考えに意識を飛ばしているとふと視界が霞んできた。視線を落とすと排水溝に吸い込まれる血液の量が今までよりも酷いことに気がつく。少し深く切りすぎたな、なんて他人事のように思っていればズキズキと痛む蟀谷。あ、どうしよう。ほんとにやばいかも。
「何やってんだテメェは」
突如聞こえた声に驚き勢いよく振り返れば、痛む蟀谷がさらにキンと悲鳴をあげた。力が入らず放漫な動きで額に手をやる。痛みに咄嗟に瞑った目を開けば、そこにいたのは怖い顔をしたナツであった。
なんでこんな時間に、なんでこんな場所に居るのか。聞きたかったけれどナツの怒ったような冷めた目に気が引けてしまった。
ナツは何も言わずに近づいて来ると、いきなり俺を抱き上げた。何事かと声を荒げそうになったが、痛む頭がそれを拒み、息を呑むだけだった。
ナツは服が濡れてしまうことを気にせず、俺を抱いたままベッドに運んだ。その間、ナツも俺も、何も言わなかった。
「っ、」
「痛むのか」
「…まあ、…そりゃあな」
消毒を垂らされた瞬間、患部が酷く痛んだ。気まずさにナツから視線を反す。
訪れた沈黙をどうにかしたく、ふと先ほど思った質問を投げかけた。
「何か用事でもあったのか…?…その、こんな時間に」
「……」
黙ったままのナツに、問いかけなければよかったと後悔する。嫌な予感がしたから。このままナツの返答を聞いてはいけない。そんな気がした。
「…ナツ、」
「知ってた。」
「え?」
「お前が一年に一度おかしくなること。…こんな事するのも」
血の気が引く、とはまさにこの事だろう。蟀谷は余計に痛み、まるで脳が心臓に変わったよう。冷たくなる指先に相反して体は熱く火照る。目眩と吐き気。嫌な予感は的中した。
「な…んで、」
「俺だけじゃない。ギルドの皆も知ってる。」
「っ、んなの…じゃあなんで今まで何にも…、」
「お前の隠したいって気持ちに皆が応えていただけだ。」
「…」
「気づかない訳ないだろ、皆お前が大事なんだからよ。
ひとりで一生懸命頑張って耐えてるんだから、みんなはそっとしておけって言うけど。さすがに我慢の限界だった。」
目線を伏せたまま手当てをするナツの声は微かに震えていた。ナツの言葉がじんわりと胸を満たす。
散々流して枯れたはずなのに鼻がつんと痛み涙で視界が揺れた。
「…理由は何だ」
「え?」
「自傷する理由、何かあんだろ。こんだけギルドの奴らに心配かけて我慢させておいてだんまりは許さねぇぞ」
初めて顔を上げ、俺と視線を合わせたナツの瞳に心臓が止まったかと思った。
いつものヘラヘラしたナツからは想像すらつかない。
こんなナツ、初めてみた。
有無を言わせない強い眼光に、もう隠せない。
「…一年に一度だけ、ウルが消えたあの日に」
「………」
「どうしても、やめられない」
「……」
滲んでいた涙がついに溢れた。人の前で泣きたくなかったのに。でも話してしまえば、心が軽くなったような気がする。
「……俺はグレイが好きだ」
「…、え?」
ナツの場違いな言葉に呆然としてしまう。今なんて。何も言えずただナツを見つめていれば抱きしめられる体。傷口は、綺麗に処置されていた。
「好きだ」
「え、あ、ナツ…?」
「だから」
二度とこんな事をするなとナツは告げた。俺を抱きしめる強さが増す。搾り出されたような声音に、胸が苦しくなった。
ふと体を離され、ナツの顔が近づいてくる。その悲しそうな顔に何も言えないまま塞がれた唇。
温かなその感触にそっと瞳を綴じた。
傷口はもう、痛まなかった。
012.7.23