天国っていうのはいつも晴れている。毎日が小春日和みたいな、とても過ごしやすい気候である。もっとも、日が沈むこともないので毎日という表現が適切かは甚だ疑問だ。永遠に一日が続いていると言ったほうがしっくりくる。 ともかく、天国というのはほぼ常に晴れている場所であって、雨が降ることなんて滅多にない。そもそもどういう原理でここに雨が降るかは知らない。常に太陽光を浴びていながら元気に見える草花にじつは雨が必要なのかもしれないし、はたまたちょっとファンタジーな思考でいくと、閻魔様が泣いているのかもしれない。閻魔様の涙。なあんて、雨にはしゃぐ閻魔様を見たことがあるから後者は絶対にないのだけど。 ともかく、今日は(今は)雨だった。とくにすることもないので菩提樹の陰で雨宿りをしながらぼんやりと天国の雨は酸性雨の臭いがしないなあ、なんて考えていたら、視界の隅でちらちらと何かが揺れた。目を凝らしたらそれはビニール傘で、差している人物は見覚のある人だった。 「鬼男さん」 「…ああ、どうも」 相変わらずそっけない。それでも一応足を止めてくれるのは、死者のケアも仕事だからなのか、この人が本当はいい人だからなのか。 「今日は閻魔様は一緒じゃないんですね」 「大王は他の仕事に追われてますので」 「そうなんですか。じゃあ私も一緒に行っていいですか」 あ、迷惑そう(予想できた反応だったけど)。 「いえ、あの、することがないんでよかったらなあ、なんて」 「…いっそ地獄だったらそんな言葉出る暇なかったんですがね」 ブラックジョークってやつだろうか。鬼の冗談って笑えない。 だけど、心底迷惑そうな顔をしながらも傘を傾けてくれるこの人はやっぱりいい人に違いないと思う。 「それにしても誰もいませんねえ」 「そりゃ雨ですからね」 「雨なんて滅多に降らないのに」 「雨で喜ぶのはあなたと大王くらいですよ」 私は彼を鬼男さんと呼ぶのに、鬼男さんは私を名前で呼ぶことはない。ああ、とか、あの、とか、どうも、とか、あなた、とか。死者の数を考えたら、私の名前を知らないのなんて当たり前のことなのだけれど、どうもそもそも名前を知る気すらないように思える。 「ねえ鬼男さん」 「なんですか」 「私の名前知ってます?」 「なんですか藪から棒に。知りません」 「普通はそこで名前聞きませんか」 「興味ないので」 一蹴されてしまった。けれど名前も知らないどこの馬の骨とも分からない人間が隣にいて心配じゃないのだろうか。まあ万が一私が鬼男さんに危害を加えようとしても無理だろうけど。物理的に。 「それに」 「あ、はい」 「輪廻がある以上、名前なんて覚えるだけ無駄ですよ。どうせすぐに別の名前になるんですから」 「はあ。そういうものですか」 小さな蛙が木のうろから円らな瞳で興味深そうにこちらを見ていた。彼も以前は人間だったりしたのだろうか。だとしたら鬼男さんの言うように名前にたいした意味なんてないのかもしれない。次に生まれ変わったとき、私がいまこの瞬間思ったことや、感じていることを覚えているのだろうか。きっとたぶん、それは無理なことに違いないけれど。 「あ、見てください。あそこに蕾が」 「ああ本当ですね」 「いつ咲くんですかねえ」 「さあ。そのうち咲くでしょう」 「わあ。鳥の巣がありますよ。雨だけど大丈夫なんですかね」 「自然同士だから心配ないでしょう」 「あ、ほらあの岩。顔みたいに見えません?」 「そうですか?」 「仏頂面。ちょっと鬼男さんみたいです」 「どこがですか」 ひとつでも多くの出来事を目に焼き付けておきたかった。こうやって歩きながら話したことも、感じたことも、気持ちも全部忘れてしまうものだとしても、生まれ変わったそのときにいつかなんとなくでいいから想い出せたらいいと思う。あれ、以前どこかで似たようなことがあったっけ、みたいなデジャヴくらいでいいから。 「そろそろこのへんで止めときますか。もとの場所から結構離れちゃいましたし」 「いえ。もう少しだけ回らせてください。せっかくの雨なんで」 少しでも長く想い出をつくっておきたかった。想い出せる出来事がひとつでも増えるように。いつ生まれ変わっても大丈夫なように。人間じゃなくたって、蛙でも猫でも犬でも、想い出すことさえできればなんだってかまわない。植物に記憶があるなら植物でも。 「鬼男さんもいつか転生するんですか」 「さあ。僕には分かりません」 「でも、もしも生まれ変わったら、今日のこと少しでも覚えてるんですかね」 「どうでしょう」 鬼男さんは肯定も否定もせずに首をひねった。傘を叩く雨音が少し弱まる。陽が出てきたので遠くの山に目を移したらきらきらと光る七色の橋が架かっていた。 「あ!虹ですよ!」 興奮して思わず指を差した。七色の光はそれぞれがはっきりと力強く輝いていて、天国で見る虹は今まで見てきた中でいちばん綺麗だと思った。言葉を忘れて見惚れている横で、ふいに鬼男さんが口を開いた。 「輪廻のことも転生のことも、僕には分かりません。だけど、」 「覚えていたらいいとは思います」 2012028 (そう言って穏やかに微笑んだ彼の笑顔もいつか想い出せますように、と) |