長編 | ナノ


 あっと思うより早く、ぷつりと小さな音と一緒に地面に投げ出されました。痛む膝を抑えながら後方を見れば擦り切れた草履が転がっています。どうやら鼻緒が切れたようです。どうしましょう、片足で歩くわけにもいきますまい。かといってこのままでは憲兵に見つかってしまう―――そこまで思考し、はたと疑問が頭を擡(もた)げました。なぜ、私は逃げているのでしょう。一体何から?なぜ憲兵に見つかってはいけないのでしょう…。
 今日は何時も通り店先を掃除し、店番をし、お使いに出て、それから…。それから―――?
思い出せません。否、思い出そうとはするのですが、心がそれを拒んでいるかのようでありました。思い出そうとすればする程厭な寒気が心臓を締め付けるのです。
 ともかく逃げなくては、それだけがはっきりと頭にありました。
 立ち上がって周囲を見渡しますと、夢中で走るうちに大通りから逸れてしまったらしく、閑散とした路地には人一人見当たりません。
 嗚呼、本当に困ったことになりました。行く当てもなければ、故郷(くに)まではおろか隣町までの汽車賃すら持ち合わせていません。残る道はこのまま餓死するか売女となるか。生きる為には後者しかありませんが、どうしても己の身体を売り物にする勇気は出ませんでした。どうしたものかと途方に暮れていると肩のあたりに衝撃を感じ、尻餅をつきました。痛みを堪えながら前を見ればすらりとズボンを穿いた足が伸びています。
「すみません。」
 彼は申し訳なさそうに謝って手を差し出してくださいました。私も謝り返してその手を借りて立ち上がりました。
 ぶつかった相手は私といくつも歳は変わらないだろう青年でした。鳥打帽を目深に被り、浅黒い肌をしてどことなく異国を思わせる出で立ちをしております。
「お怪我はありませんか。」
「ええ、此方こそ済みません。ぼうっとしていて。」
 いえ、僕も急いでいたものですから。それじゃア僕はこれで、彼は愛想のいい会釈を残して行ってしまいました。
 さあて、此れからどうしたものでしょうか。
 溜め息を吐いて彼が来た方向を見遣れば、何もない道の端にぽつんと薄暗い外灯を点した怪しげな体裁の店が佇んでいました。古びた看板には「閻魔堂」と書いてあります。偶然降ってきた幸運に感謝しつつも、余りに怪しい店の雰囲気に躊躇しました。それでも残された道は身売りか死ぬかしかありません。どちらになるよりましだろうと腹を据え、古びた扉をくぐりました。






20100818 修正
20110326 修正
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