なにやら言い争う声で目が覚めました。寝惚け眼で上体を起こしましたら、はじめてソファというもので寝たせいか、身体中の節々が痛みました。明り窓がないせいで今が何刻か分かりません。寝過ごしてしまったかもしれないと内心焦りながら軽く着物の裾を掻き合わせソファから降りて物置部屋を後にしました。 昨晩の客間らしい部屋に近づくにつれて声もはっきりと聞こえてきました。 「な…で雇ったり………か。」 「仕方な…だろう。彼女はど…やら憶えていないようなんだから。」 彼女とは私のことでしょうか。だとしたらなんの話をしているのでしょう。あの方は私が忘れていることを何か知っているのでしょうか…。 昨日の男の眼を思い出します。冷たく、舐めるような恐ろしい光を思い出してぞっとしました。 客間に入るか入らないかの内に「お早う。」と声を掛けられ再び驚きました。「よく眠れたかい。」と愛想のいい笑顔を見て、この方は気配でも読めるのだろうかと思案しながら「ええ、はい。お陰さまで。」と答えました。 「それはよかった。嗚呼、紹介しよう。彼は鬼男君といってね、此処の従業員さ」 鬼男と呼ばれた青年は帽子を被ったまま頭を下げました。見覚えのある顔立ちに、「昨日の。」と洩らすと「昨日はすみません。」とまた謝ってくださいました。 「いえ此方こそ。それより鬼男さんて変わったお名前ですね」 「ええまア。貴女は?」 「申し遅れました。#みょうじ##なまえ#といいます。…お帽子素敵ですね。」 「嗚呼―――すみません、客人の前で。申し訳ないのですが容赦していただけると有り難いです。」 「いえ、そんな。構いません。…ええと、でも脱がれても大丈夫ですよ。」 「え?」 「私、笑ったりなんてしませんから」 その言葉に、隣で聞いていた店主が笑い出しました。此方としては真面目に言ったのにひどく笑い転げている様子に憤慨しました。当の鬼男さんは複雑な表情を浮かべています。 「聞いたかい鬼男君。このお嬢さんは君のことを若禿だと思っているらしい。」 これは愉快なお嬢さんだ、なあ鬼男君。 鬼男さんは何も答えず、まだ笑いが止まらない店主を一瞥して私に向き直りました。 「此処で働きたいということですが…何ができるんですか?」 「ええと…奉公先では算盤を扱っていましたから、読み書きと計算くらいなら。」 「計算なんて必要ないよ。」ようやく笑い止んだ店主が横から口を挟みました。「掃除と料理さえ出来ればね。」 「はい、お掃除とお料理くらいなら出来ますけれど…。」 「それなら早速だが君の部屋を掃除してきてくれ。散らかっていて悪かったがどうも私は片付けが苦手でね。すぐ戻るから鬼男君、店番は宜しく。」 ひらりと後ろ手を振り店主は廊下を歩き去ってしまわれました。 鬼男さんは慣れているのか、彼に何処に行くのか、何をしに行くのかなどとは問いませんでした。 直ぐに廊下の角に消えた背中を見送って、ふと店主が名乗らなかったことに気づきました。 「鬼男さん。」 「何ですか。」 「あの方のお名前はなんというんですか。」 「嗚呼…知らない方がいいと思いますよ。」鬼男さんは意味深な言い方をします。「僕は大王と呼んでいますが。」 「大王…。高貴な方なんですか?」 「まあ高貴といえば高貴ですね…。あの通り変人ですがね。」 鬼男さんは呆れたように付け加えましたが、高貴な人間というのは案外変り者が多いのだろうと勝手に想像して納得致しました。 「そうですか…。それでは私はお掃除をしてきます。」 「あ、#なまえ#さん。」 呼び止められて振り向きました。 「足りないものがあったら言ってくださいね。」 人のいい笑顔にはあの人のような気味悪い鋭さはありませんでした。 「ありがとうございます。」 少なくとも彼はあの蜥蜴のような冷たい目をした人よりずっと安心できる人だと思いました。 20100818 20110326 修正 |