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ボタンに手を掛けたと同時にぬっと大きな影が映ったから振り向くと、池袋の有名人が立っていて、驚いたはずみでボタンを押してしまった。あ、と思っても遅い。かたんと勢い良く出てきたそれはココアで、コーヒーが飲みたかったのにココアでは明らかに不足だ。あきらめてココアを飲むか、これは持ち帰ってコーヒーを買うか、逡巡している隣で有名人、平和島さんは気怠そうに煙草を吹かしている。
ふと、平和島さんはココアを飲むだろうかと思った。煙草吸う人ってやっぱり甘いもの苦手なのかな。
どうしてそんな勇気があったのかわからない。だけれど気付けば私は「あの」と声を掛けていた。

「あん?」
「ココア、嫌いですか」
「はあ?」
「嫌いじゃなければもらってほしいんですけど」

平和島さんは何も言わずに訝しげに私を見つめた。視線に耐えられなくなってうつむいた顔がかーっと赤くなるのが自分でわかった。手に持ったアイスココアがホットココアになってしまいそう、そのくらい全身が熱かった。(初対面でなに、言ってるんだろう、私)

「すみません、嫌いですよね」

消え入るような声で呟いてさらに深くうつむいた。変な奴だと思われてるに違いない。この場から走って逃げ出してしまいたい衝動に駆られる。そのとき、ふっと手のなかが軽くなった。
驚いて顔をあげると茶色い缶は平和島さんの手に移っていた。呆気にとられて見ている前で平和島さんはプルタブを引いた缶を上に傾けて一気に呷(あお)った。それから吸い殻を先ほど飲み干した缶に押し当て火を消した。それぞれをゴミ箱に捨てると(空き缶のほうはからからと音を立てた)、平和島さんは「うまかった。ありがとな」という言葉を残して行ってしまった。
ありがとうと言ったとき、サングラスの奥で鋭い目の光がすこし緩んだのが見えてなぜだかずるいと思った。
私はしばらくコーヒーを買うのも忘れて遠ざかる背中を見送っていた。
はっと我にかえったときにはもうコーヒーを飲みたい気分なんかどこかへ吹き飛んでしまっていた。
心臓を打つ音が心なしか速い。
まだ、顔の熱が引かないのはなんでだろうか。






20100906
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