寝子と新米遊女2

 またしばらくして、お客さんはやって来た。俺はいつ来るかいつ来るかといつもソワソワしていたから、本当に嬉しかった。手負いの猫が自分の手に戻ってくるような、どこか誇らしい気持ちがあった。それと、人に言えないような気持ちも。

 「…にゃんこ」
 「…ん?」
 「………」
 「今日は歌ってくれないのか?」

 恒例の膝枕をしながら、俺はお客さんを寝かしつける。ただぼぉっと、お客さんの顔を見ていたら、突然目を開いたお客さんと視線がかち合う。遠くの宴会の騒がしさが、ぱたりと止まった。神様が通ったんだ。その神様はここにも。眼鏡を外した剥き出しの瞳に吸い込まれる。

 ‐

 「…」

 気付いたら、お客さんの唇に唇を合わせてた。お客さんの口が微かに驚きに開いて、その振動に俺は慌てて顔を上げた。ざわざわと血液が頭に上るようで、頭が沸きそうだった。

 「…あっ!…あの、お、おやすみの、キス……」

 しどろもどろに、もっともらしいことをお客さんに弁明する。でもこんなしどろもどろじゃ、嘘だって、きっと分かってしまう。

 「あっ」

 ‐

 上体を起こしたお客さんが、俺の顎をつかんで口をくっつけてきた。お客さんの舌先が閉じた俺の前歯を叩く。うそ、舌まで。どうしよう、どうしよう、俺は、振り袖を握りながら、口を開いた。

 「ん、っあ…」

 口の中に他人の舌が入ってくる。暖かくて水っぽくて、それが俺の舌と重なる。……どうしよう、俺、俺は何したらいいんだぁっ!!?自分から誘ったみたいなもんなのに、俺は何も経験がなかった。つんだ。

 「…ふぅ、う…」

 誰かと唇を合わせるのも初めてだったんだ。唇に柔らかい唇が当たるのが気持ちいい。大人しく口を開けていると、下唇に吸い付かれて、ぞくぞくと体が震える。

 「ぷは、あ、あ……」
 「ん、おやすみ。」
 「えっ!え、あ…」

 口を離されると糸が引いて、何だかいやらしい。名残惜しくてお客さんを見ると、また膝枕に戻っていった。
 ま、まじでおやすみのキスだと思ったのか…!しかもこんな大人のキスがそのお返しなんて…大人ってずりぃ…。俺は膝枕で眠るお客さんを見ながら、唇を指でなぞった。



 「村崎さん。」

 次の日、俺は花魁の紫さんに会いに店に向かった。村崎さんは俺の教育係りで、背が高いけど女装の似合う綺麗な人だ。店の待機室には村崎さんと当主さんがいた。

 「なんだよ、智春(ともはる)か。今日出勤だったか?」
 「いや、違うんですけど、あの、相談があって…」

 俺がそう切り出すと、当主さんは売り上げの計算をするとかで席を立った。気を遣わせちゃった…でも聞かれたくなかったから、良かった。村崎さんの向かいに座る。

 「で、相談っていうのは?仕事のことか?」
 「う、そうなのかな…。あの、村崎さんは、その、お客さんにどきどきしたり、そういうの、あったり、します…?」

 俺がそう切り出すと、優しく笑っていた村崎さんの表情が少し曇る。俺は気恥ずかしくて、無駄に髪触ったり、視線がうろつく。

 「…客で誰か気になるのがいんのか?」
 「え、あ、そんな、それほどじゃ、ない…と思うんすけど。でも……次はいつ来てくれるかいつ来てくれるかって、いっつも不安で、来てくれないと寂しくて、あと、お客さん、一人で寝れてるか心配で……。」
 「………」

 村崎さんはどこか遠くを眺めて、持っていた煙草を一本取り出した。俺はそれに自分のライターで火をつける。夜の仕事の癖で、すぐに体が動く。

 「やめとけ。」

 村崎さんがそう短く告げる。俺はその短い単語に、心臓をどくんと跳ねさせる。やめる、って、何をどうやめたら。どきどきと、いやな予感にじんわり汗が滲む。

 「やめとけ。そういう色営業は後が怖いぞ。切れなくなる。」
 「営業とかじゃなくて、あの…」
 「おい、本気ってことか?なら尚更やめとけ。向こうは遊びで来てるんだ。追っかけても、どうにもならないぞ。それに」
 「違う、遊びに来たんじゃないって言って」
 「真に受けんなよ、馬鹿。遊びじゃないって、きっと会った嬢全員に言ってるぞ、そいつ。
 …あのな、お前若いから分かんないかもしれねぇけど、お前、遊ばれてるんだよ。嬢惚れさせてタダマンしようって魂胆だよ。」

 そう呆れたように諭されて、俺は鼻の奥と喉の奥が痛くてたまらなかった。くっそ涙腺、泣くな泣くな、仕事の先輩の前で。

だって、俺にはわかんねぇよ。俺には嘘とか全部わかんねぇもん…一緒にいたあの時間しか俺にはわかんねぇもん…。

 「………」
 「……泣くなよ、言い過ぎたかも。悪かった。」

 俺が必死に堪えてるのを見て、村崎さんは俺の頭をぽんと叩く。お客さんは、お客さんは、ただ一緒にいるだけの枕が欲しいのか?…それとも俺をからかってる、のか?俺はいやだよ、どっちもいやだよ…。俺に興味もって欲しい。俺を見て欲しい。「俺」を欲しがって欲しい…。



 「元気ないな、どうした?」
 「えっ!?いや元気!元気だけが取り柄だから!」

 またお客さんはやって来た。でも、前ほど気持ちは浮かれなくて、むしろどんよりした気持ちが胸を覆う。いつもみたいに膝枕しながら、俺は。

 「……」
 「本当、どうかしたのか?いじめられたのか?」
 「……」

 俯いて、お客さんの質問に首を振る。また俺は、なんも出来ない。察することも、駆け引きも。当たって砕けるくらいしか選択肢はないのだ。

 「…もしかして、お客さんは、俺をからかってるのか…?」
 「からかう?どうして。」
 「…それとも、ただ一緒にいてくれるだけの枕が欲しいのか…?」

 お客さんは訝しげに俺の表情を窺う。俺はついに涙腺が決壊した。

 「お客さんは、俺が欲しくないのか…?
  お、おれは、おれは、…俺は欲しい…っ。あんたが欲しいよ…っ」

 もうやだ。やだやだ、こんなんいやだ、こんな気持ちはたくさんだ。どんどん不安で、寂しくて、心配でってなって、…こんなんいやだ、だから早く木っ端微塵に砕けて、またもと通りになりたい。でも、でも、俺は、俺は、
お客さんが、お客さんのこと、

 「おい、それは何の話だよ。どういう意味で言ってるんだ?」
 「だからっ、俺は、お客さんが、あんたが、…す、すす、すすす好きなんだって!!」

 勢い余って、つい。
ああもう、言っちゃった。言っちゃだめなのに。俺、お客さんにコクっちゃった…っ!

 「……普通に考えれば、こんな場所でそんなこと言われても、到底信じられないけどな。」
 「っ、」
 「…だからそんな顔するなって。お前は顔に出過ぎだ。信じない訳ないだろ。」

 そう笑われる。わかんね、わかんねぇよお。どういう種類の微笑みなんか。上げて落とさないで。

 「…じゃあ、お客さんは俺のこと、好き……?枕とかペットとかからかったりとかじゃなく、好き…?」

 どきどき、どきどき、胸が喉元まで上がってきそう。心臓の鼓動が激しすぎて、息をつくのも一苦労だ。

 「…」

 俺の耳に口が寄せられる。一言も漏らさないよう、左耳に集中した。

 「っ!!」
 「お前は馬鹿か。」

 またも軽く耳を噛まれた。やだもうこの猫!ツンばっかなんだもん!!ううう、泣くぞ、地団駄踏んで暴れるぞこの野郎。臆面もなくおいおい泣くぞぉ…!

 「毎回毎回…この部屋、この時間とるだけで、いくらだと思ってんだ…枕だけには高過ぎる。」

 きょとん、突然そう言われてお客さんを見る。じゃあ何、いつも俺に会いに来てたの…?そういうことなの?そういうことにしていいの?俺調子のりだから、そう受け止めるけど。

 「…じゃあ、なんで、いつも寝ちゃうの……?」
 「お前の膝枕が良すぎるからな。つい。」

 わかんねぇよお。もーなんだか頭ぐるぐるする。嬉しすぎて息苦しいし、俺に全く興味ない訳じゃなくてほっとしたし、よかった……よかったぁ………。
 また時間置いたら、訳分かんなくなんのかな、いやだな、いやだな、なにか何か証拠が欲しい…。もっと、もっと、いろいろしたいっっ!


つづく

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