微睡みから目覚め、やってきたずきずきとした痛みに顔を顰めた。枕に頬を埋め、う、と情けない声が漏れるも、引き寄せた記憶によってその原因は明らかになる。

酒である。
ここ最近、互いの忙しさからなまえと顔を合わせることもなく、昨日だってそうだ。
飲み会やるけどお前は? と硝子に言われ、くさくさした気持ちも少しは晴れるかも、とその場に身を置くことにした僕は、最初こそそれなりに楽しく過ごしていたのだけれど、場も温まってきた頃にやはり寂しくなったのだと思う。

なまえがいない。任務によって、という現実はわかってはいるものの、どうしてこうもタイミングが合わないのか。そんなふうに考え出した頃、隣にいた七海のグラスがふと甘い香りがした。

「それ、美味しそう」

半ばヤケだった。自分が下戸とかもうどうでもいい。「あ、馬鹿。やめろ」と硝子の声が聞こえた時にはもう遅い。七海の前にあった店員が持ってきたばかりの白ワインを僕はそれはもう見事に煽り、喉へと流し込む。
一瞬、揃っていた皆の顔が「やばい」みたいな色に変わったことはわかったけれど、グラスをテーブルに置いたその時、ポケットの中のスマートフォンが音を立てた。取り出して画面を見れば、なまえからのメッセージ。

時間取れなくてごめんなさい。今日そっち行きましょうか?
なんてよく出来た可愛い彼女だろうかと胸は感動に包まれ、来て、と返信を送ってからすっくりとその場を立つ。

「帰る」

硝子も七海も、伊地知ですらぽかんとしていた。でもそんなの知ったことではない。
財布から適当に札を取り出してテーブルに置き、軽い足取りで店を出る。身体に羽が生えたよう、とはこういうことを言うのだろう。いや、そんなのなくても飛べるけど。

タクシーを捕まえて高専内の自宅まで。身体はぽかぽかとして熱い。
早く会いたい。そんな気持ちばかりを抱えて戻れば、すでになまえは部屋の前で待っててくれていた。
待たせてごめんね、と一言置いてその小さな身体を抱きしめる。久しぶりに触れる体温。甘い香り。指通りの良い艶やかな髪。
――覚えてるのはここまで。ワインなんか飲んだら当たり前だ。まぁでも多分、なまえを部屋に引き摺り込んで、そのまま寝たんだと思う。


さて、そのなまえがいない。
耳を澄ませてみれば、わずかにシャワーの流れる音がした。

珍しいな。いつも朝は僕に引っ付いてるのに。
そんなことを思いつつ、頭痛を堪え軽くこめかみを指で揉む。のそりとベッドから起き上がってリビングへ。
一緒にシャワーしたいけど、多分怒られる。なまえは甘えたがりだけれど、そういう甘やかしは嫌がる子だったし、そもそも僕をあまり甘やかさない。いいけどね、お願いすれば三回に一回くらいは聞いてもらえるし。

冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して一口喉へ流し込めば、頭痛も多少薄れてくれた。
ダイニングテーブルの椅子を引いて腰を下ろし、ぼんやりとなまえを待つ。まだアルコール抜けてないのかな、と考えながらしばらくそうしていれば、ドライヤーで髪を乾かす音が聞こえてきた。
数分後、かた、と扉の開く音がして、ようやく愛しの彼女のおでましである。

「なまえ、おはよ」

着るものがなかったのだろう、僕のTシャツを身に纏ったその姿にはへらりと笑ってしまう。彼氏の特権。いいよね、なんて思いながら。
おはよ、とぽそりと言ったなまえは少しだけ視線を彷徨わせ、ゆっくりとこちらに足を進めた。椅子から腰を上げ、リビングにやってきたなまえを腕の中に閉じ込める。普段と違う、僕が使っているシャンプーの香りが鼻腔に触れて、それを確かめるようになまえの肩にしなだれた髪を軽く指で掬った時だ。
うなじのあたりに、点々と赤い痕が見える。

「――なまえ、これなに」

どう見てもキスマーク。それもひとつやふたつではない。ここのところのすれ違いで、なまえが誰かに抱かれた――そんな思考にはすぐに辿り着いた。低く発した僕の声に、なまえがその腕で僕の胸板を強く押す。予想してなかった反応に容易く身体はぐらついた。なまえだって呪術師。それなりに力はある。

呆気に取られていれば、なまえは泣き出しそうな色を浮かべてそのまま寝室へと駆け込んでしまう。ばたん、と扉が閉められ、ついでずりずりと何かを引きずるような音。ごん、と一際大きな音がして、そこは静寂に包まれた。

「………は? まっ、なまえ?」

慌てて身を返し、寝室の扉を開こうとするもそれは叶わない。多分に、ドア脇にあったチェストかなんかでバリケードを張られている。
籠城された、という事実はすぐにわかり、つまるところなまえは僕に怒っている。僕が何かをやらかした、という解には辿り着いてもその理由までもははっきりとしない。身に覚えがないのである。

「……なまえ、開けて? 僕に怒ってるんでしょ」
「や」

強い「や」だった。明らかに怒っている。首の後ろを手のひらでさすりながら、どうしたもんか、と吐き出したいため息はさすがに堪えた。多分、そうしたいのはなまえだろう。

「僕、昨日なんかした? 酔ってて覚えてないんだよ」

扉に向けて放った声に返答はない。
別に無理やり押し入ってもいい。扉くらい壊したって困らないし。でもそうしたら多分なまえは今度はこの部屋から逃げ出して、多分その逃走劇は長く続く。拗れに拗れて別れ話にもつれ込まれるのは至極勘弁したかった。
誰かに相談、と一瞬考えたけれど、お生憎スマートフォンはベットサイドで充電ケーブルに繋がれている。まるで人質。いや、そんなくだらないことを考えている場合ではない。

永遠のように思えるほどの静寂。ちっとも返ってこない声にがくりと項垂れた時、ようやくなまえの小さな声が寝室から聞こえてくる。

「………いやって言った」
「うん」

聞き返しはまずい。ここは「聞いています」の態度を一面に押し出すことでなまえが口を噤まないようにするのが最善だ。
そんな僕の考えは功を制したらしい。ありがたくも引き続き、なまえの声が聞こえてくる。

「酔ってる時するのいやって、言いました」
「……はい」

有罪だった。僕が。
なまえのうなじに残った痕はどうやら僕がつけたものらしい。そりゃそれを浮気みたいに扱われたら怒るのも当然である。
ここで「ごめんね」を出したら手打ちかな――そんな淡い願いは次に発せられるなまえの声によって、非情にも叶えられることはない。

「お風呂入りたいって言ったのに、どいてくれなくて」
「……はい」
「良い匂いするって、ずっと首とか、髪とか、脇とか」
「………マジで」

消え入りそうななまえの声は、おそらく羞恥からだろう。
自分が匂いフェチである、という自覚はある。ただそんなものはなまえ限定だ。とはいえ、さすがにやりすぎ――。

「ぱんつの匂い嗅いで、こ、興奮するって言ったあ!」

ばすん、と枕か何かが扉にぶつけられ、ガタ、とそこが揺れる。ひく、と聞こえてきた泣き音に申し訳ない気持ちになりながら、でも僕も同じくらい泣きたかった。何それ。変態じゃん。最悪だよ。最悪の彼氏じゃん。
その場に蹲って頭を抱えるのも致し方ない。

――多分、理性がなくなっていた。久しぶりに会う彼女への欲情はアルコールによって容易く暴走する。
引かれた。絶対。今までなまえにそうされないように万全を期して「格好いい彼氏」してきたというのに、この体たらく。

まるで現実逃避をするかのように、頭の中では天岩戸神話を思い出していた。
弟の乱暴な所業によって岩戸に隠れた天照大御神。太陽の神である彼女に出てきてもらわねば土地は貧しくなり、いずれ死ぬ。鳥を鳴かせ舞を踊り、彼女の興味を引いて――。
いつの時代も男って馬鹿だ。そして愚かでもある。それでも先人の知恵には学ぶべきだろう。大切なのは、籠城している本人の気持ちを動かすことだ。
くしゃ、と垂れた前髪を手のひらでかき上げながら、ゆっくりと口を開く。

「――…ごめん。最近会えてなかったから抑え効かなかったんだと思う。なまえが好きだからだよ? 次からは二人ともシャワー浴びてからにするし、酔った時にもう抱かない」
「…前も、それ言った」
「………マジ?」

衝撃の事実。なんともはや、前科ありらしい。

「前も、お酒飲んでて、五条さん目据わってて、今日だけ、もうしないって、言ったぁ」
「………ごめん」

全然覚えてない。お酒って怖い。こんな簡単に記憶なくすのかよ。ついでになまえからの信頼まで失ってるじゃん。最悪すぎる。
とうとう吐き出してしまったため息は自分自身に対してだ。あまりに愚か。そんで、馬鹿。

無理やり寝室に入って、なまえに謝り倒しても良い。明らかに僕が悪いし。でも、なまえ自身の意思で出てきて欲しかった。許されるチャンスをもらうことが今は何より大切だと思う。
ぴっちり閉まった扉に向けて、静かに声を放つ。

「もうしない。忘れない。――お願いだから開けて。ごめんねしたい。顔見て謝りたい」

耳障りの良い言葉だけれど、本心だ。
しばらくの沈黙ののち、また「や」が飛び出すかと思ったけれど、どうやらその予想に反してバリケードは崩されてくれるらしい。ずりずりとまた重たいものを引きずる音が聞こえてくる。
その場に蹲ったままじっと待っていれば、かちゃ、と静かに扉が開かれた。見上げた先には困り顔のなまえがいる。
蹲った僕を見て、なまえが口を開く。だぼだぼのTシャツから伸びるすらりとした足につい視線が向きそうになるけれど必死で堪えた。パンツ見えそう、なんて口が裂けても言えない。

「しばらくえっちしない」
「なまえがいいって言うまでしないよ」
「お酒飲むなら会わない」
「もう飲まない」
「――硝子さんにぜんぶ言う」
「それは待って???」

慌てて立ち上がりなまえの両手を取るけれど、それが振り払われることはなくてほっとした。
それから数分なまえと僕とで押し問答が続くことになるのだけれど、それを止めてくれたのはなまえのお腹が鳴らした大層可愛らしい空腹の合図の音だった。
情けなさそうな顔をしたなまえがそれを拗ねた色に変え「昨日のお昼から食べてないの」とぷいと顔を背けて怒ってみせるけれど、それすら可愛い。そんな状態で僕に会いに来てくれたというのに、という罪悪感も当たり前に感じる。

「僕作ってあげる」
「いい。帰る」
「だめ。今日はここにいて」

罪滅ぼしになんかならないのはわかっている。それでも、今はとにかくなまえの機嫌を直さなければ。
そんな僕の魂胆すらきっとなまえは見抜いている。それでも甘んじてこの部屋に留まってくれる彼女のわかりやすい愛とやらに今は精一杯応えることで、崩れた信頼とやらをひとまず、少しだけでも勝ち取ることにするとしよう。



2024/04/27