!ヤパロ




天井を背に、馬乗りになるようにわたしを押し倒した五条さんはにこりと笑っているけれど、その笑顔はどうしてか朗らかと呼べない。

二人きりで話したいことがあるんだよね、と言われるまま連れられてきたのは大きなお屋敷だった。
都内でこんな広さの屋敷。ものすごいお金持ちか、ものすごく悪いことをしている人にしか持ち得ないものだと思ってももう遅い。
あっという間に手首を掴まれ、文字通り屋敷の中へと引き摺り込まれる。
五条さん、おつかれさまです。そう言って腰を折る男性たちに五条さんは「おつかれ」と軽い音を出して応え、わたしの腕を引いたまま奥へ、奥へ。
やってきた一室に押し込まれたわたしは、なぜか五条さんに押し倒されている。

不思議な人だな、とは思っていた。
街中で声を掛けられ――それは所謂ナンパと呼べるものなのだけれど――関わりを持ってしまったのが今思えば運の尽きなんだろう。

柔らかい笑顔。優しい声色。背が高くて恐ろしいほどに綺麗な顔立ちをしていた。そんな人がどうして、と思う気持ちはあれど、突然現れた五条さんという男性に単純にも心惹かれそうになっていたのは確かだった。

初対面なのにごめんね。でもなんか運命感じたんだ――そう照れくさそうに笑う五条さんにわたしの心が絆されるのは容易い。連絡先教えてもらえない? と言って差し出されたスマートフォンを見て悩みはしたけれど、でもわたしはそれに応えた。
五条さんからは頻繁に連絡が来て、わたしもそれに返す。食事に誘われたこともあったし、連れられた先のレストランにはその絢爛さに尻込みしたけれど、そんなわたしを五条さんは柔らかく笑って「僕の奢り」なんて言ってみせた。

五条さんには、どこか精神的に不安定な面があるのだと思う。それは何度目かの食事の際に明らかになる。
どこか不安げな顔を見せた五条さんは「ちょっとごめんね」と言ってピルケースを取り出し錠剤をひとつ、グラスに張られた水で流し込んだ。その時、ワイシャツの袖から見えた手首には濃く残った傷跡が見えて、それには心を痛めるしかない。
格好悪いよね、と眉を下げて五条さんは笑ったけれど「そんなことないです」とわたしは言った。心の弱さなんて思わない。抗えないものに立ち向かうために必要な傷なのだと、そんなふうにわたしは思ったからだ。

「なまえが僕の救いだよ」

五条さんはそう言って「ありがとね」と笑う。
支えてあげたいと思った。この人のために自分にもできることがあるのなら、それに力を尽くしたい、と。
今日だってそうだ。なまえにしか話せない、とメッセージを受け取って待ち合わせをして、そしてやってきたこの屋敷。
でも、窓のない薄暗い室内でわたしを押し倒す五条さんからはそんな「弱さ」の色なんて微塵も感じ取れない。頭の中では警告音がしている。今すぐにでも逃げ出すべきだ――わかっているのにできない。わたしの手首を掴む五条さんの手のひらには、抗えないほどの強い力が込められているから。

窓のない部屋。そんなことがあるんだろうかと、ふと思う。こんなに大きなお屋敷で、その室内にひとつも窓がないなんてこと、本当にあるんだろうか。
五条さんが薄く笑う。遜るように頭を下げていたスーツ姿の男性たち。それを軽くいなす姿。これではまるで――。

「気付いた? でももう遅いよ」

五条さんがそう言ってわたしの手首から手のひらを剥がす。上半身は自由になったのに身を起こせないのは、わたしの腹の上に五条さんが跨っているからだ。感じる重みは彼が身体を鍛えていることがよくわかる、一見しては感じられないけれど、でも確かな筋肉量のそれだった。

「ずっとお前のこと、欲しかったんだよね」
「………ずっと、って、なんですか」

絞り出した声は震えている。五条さんはくつくつと喉で笑って、その細い指先で室内の一点を示してみせた。釣られるようにゆっくりと顔を向けた先。壁に貼られていた数枚の写真に息が詰まる。

制服姿のわたしと――それは卒業してもう何年も経つものだったけれど――私服姿で街を歩くわたし、それから、会社から出てくるスーツ姿のわたし。
他にも壁には写真が数枚貼られていて、でもどれも見覚えのある服を着たわたしの姿に他ならなかった。
ずっとお前のこと欲しかったんだよね。五条さんの声が頭を巡る。ずっと――それは文字通りの意味だった。

ふ、と笑った音で視線を戻す。
五条さんはスーツのジャケットをばさりと脱ぎ、するりとネクタイが首元から抜かれる。指はワイシャツのボタンへとかかっていた。ぷつりぷつりとそれが外され、五条さんの肌が露わになる。目を引いたのは、その鮮烈な色だった。肩から腕に伸びる刺青。手首の上までしっかり掘り込まれたそれに、ひゅ、と呼吸が喉元で止まる。
腕時計が外され、わたしの顔の横へと落とされた。手首には、色濃く残る自傷の痕。

「だめじゃん。そんな簡単に男に着いていったら」

心配だなぁ、と肩を竦めた五条さんはへらりと笑う。
やばい、やばい人だ。そんなふうに思ってみても、現状は変わらない。
ふと、ばたばたと廊下を駆ける足音がする。鬱陶しげに背後を振り向いた五条さんに、扉の向こうから声が投げられた。

「五条さん、申し訳ないですが緊急で」
「なんだよ」
「隣の組の奴らがうちの島で――」

慌てたようなその声に五条さんは隠すこともせず舌打ちを発して「すぐ行く」と声を投げる。
そのやり取りで容易にわかる。わかってしまう。この期に及んで、とも言えるけれど、でも明らかだった。五条悟はカタギの人間ではない。

「あーあ。イイトコだったのに」

ため息混じりにそう言った五条さんはわたしを見てへらりと笑った。手首を顔の横まで持ち上げて、もう片方の指でそこを示してみせる。とん、と指先が傷跡の残るそこへと触れた。

「僕を傷モノにした責任は取ってもらうから」

痛かったんだからね〜、とどこか間延びした声を出す五条さんはやけにご機嫌で、それが余計にわたしの中の恐怖心を育て上げる。でもそんなことに彼が構ってくれるはずがなかった。
五条さんがわたしの頬に両手を添え、背中を丸める。ふるふると首を横に振りたかったけれどそれも敵わない。ちゅ、と触れ合った唇はこの場にそぐわない優しい音をしていて、それが余計に気味悪かった。

「やっと僕のものにできる」

もうここから出さないからね、と五条さんは揚々と言って、ヘッドボードから何かを取り出した。かちゃ、と鈍い金属音。

「見張りいるけど一応ね。困ったことあったら言いなよ。外に二人置いとくから」

そう言って五条さんがわたしの両手首を容易く背面で揃え、そこに手錠を嵌め込んだ。手首にかかる馴染みのない感触に胸はざわざわと不安の音を呼び寄せる。

「五条、さん」

嘘ですよね、と縋る思いで口にした声に、彼が笑う。なにも心配しなくていいよ。なまえのぜーんぶ、可愛がってあげるから、と、何か愛おしいものを見るような、それでいて、明らかに狂気と呼んで似つかわしい色を浮かべて。

脱ぎ捨てたばかりの服を纏って五条さんが部屋を出ていく。閉じられた扉によって、部屋の中は完全なる暗闇に包まれた。
ベッドの上で座り込めば、背後で捕らわれた手首から重い金属音がする。

五条さんには、不安定な部分がある。ある意味それは的を射ていて、ただわたしは間違っていた。逃げるべきだったのだ。その手首の傷に慄いて、ではなく、五条悟という人間そのものから。
そんな後悔すら、なんの役にも立ちはしない。ここが地獄の始まりである――それにわたしが気付くのは、それから数十時間後。

帰ってきた五条さんに身体を暴かれ、そしてそれは夜が明けるまで続き、鈍い頭の中で捉えた五条さんの「これでもうなまえは僕だけのものだね」と言った酔いしれるような声と、粘膜同士が隔たれる物もないまま擦り合っているという事実に、思わず嗚咽を漏らした時のことだ。



2024/04/27