熱に浮かされていた。そう言って良いと思う。でも当たり前じゃん? 高専時代からずっと思いを寄せていて、そんな彼女と初めて共に過ごす夜。甘い雰囲気を作るのなんてお手のもの。

ベッドに誘って、なまえもそれに恥ずかしそうにしながらも応えてくれた。身を隠している衣服を取り払って、僕も肌を見せる。赤らんだ頬がどうしようもなく可愛かった。今までどんな男にその肌を触れさせてきたのか。そう考えるだけで腹の奥に渦巻くドス黒い嫉妬心は止められない。でも今、彼女は僕のもの――そんなことを考えて胸が切ない痛みを届ける。

余裕を保っていられたのは前戯まで。優しく触れて「気持ちいい?」と声を掛けて、なまえの発する甘い声に溺れる。頭の奥がくらくらとして、なまえのそこに熱を埋めるころにはもう全てがどうでも良かった。なまえの全てが欲しい。触れ合う身体には当たり前に隔たりがあって、それゆえの気持ち良さなのだけど、それすら煩わしく思える。

繋がり合って、このまま溶け合ってしまいたい。そんな蕩けた思考回路は頭の中に確実にあって、半ば悲鳴のようななまえの甘い声を耳で捉えながら絶え間なく律動を繰り返した。
待って、とか、やだ、とか聞こえたけれど、でもその音を耳は拾わない。なまえが気持ち良く感じていることは中の収縮から手に取るようにわかったし、汗ばんだ肌もそれを証明していた。
なまえの発する「やだ」は僕の中で容易に「もっと」という強請りに変換される。――女の子ってそうだよね、と意地悪く思う自分もいた。

熱を薄いゴム越しに放って、でも数回繰り返してそれも煩わしい。眩暈のような感覚を覚えながら、記憶にある限り、多分最後の二回はナマでやった。これで僕のものになる。そんな思考があって、ずるりと熱を引き抜いたそこに白濁の液体がとろりと溢れ出ていたのを見た時、すごく、すごく渇きが満たされたような気がする。

浅い呼吸のままシーツの海に身体を横たえらせるなまえにキスをして、その身体を抱きしめて眠る。
彼女がしきりに甘い声と共に漏らしていた「やだ」の声が僕の中で「拒否」に成り変わっていたと気付いたのはその時。行為中に都合よく変換したその言葉によって、乱暴と呼んでいい行為をしたことを反芻させながら、目が覚めて一番に「ごめんね」をしようと思っていたんだけれど。

目が覚めた時、なまえは僕の横にはいなかった。緊急で任務でも入ったんだろうか――そんなふうに考える自分は今思えば浅はかでしかない。
スマートフォンで送ったなまえへ向けたメッセージにはそれからずっと既読すら付かずに、トークルームでぽつねんと浮かび上がるだけだった。


その日の昼。なまえからの返信もないまま、今どこにいるんだろ、と思いつつ高専内の廊下を歩いていた時のことだ。
目の前からかつかつとヒールを鳴らしてやってきたのは硝子である。
一直線に僕の元へとやってきた彼女はぴたりと足を止め、そして低い音で一言。

「私言わなかった? なまえ泣かせるなって。おい、クズ」

硝子のその声から彼女の怒りを読み取るのは容易い。なんかしたっけ、と首を捻った僕の行動はさらに硝子の怒りを焚き付けたらしい。眉を顰めるその色に、なにさ、とこちらも臨戦態勢を張る。

「なまえから全部聞いてる。お前がクズだとはわかってたけど、ここまでとは思わなかった」

硝子となまえは仲が良い。学年は違えど、貴重な同性の呪術師仲間でもある。
高専時代からなまえはよく「硝子先輩」と嬉しそうに彼女へ駆け寄っていたし、硝子だってまんざらでもなさそうだった。成人して数年経った今でもそれは変わらない。二人で飲みに行くなんて恒例のこと。そこに割って入ることもできないほどには、彼女たちは確かな交友関係を築いているのだと思う。

硝子の発する声に、ひとつの憶測が頭に浮かんだ。昨夜のことである。
なまえと肌を重ねた。堪らなく嬉しかった。そんな僕に抑えは効かない。なまえはしきりに「やだ」と言ったけれど、それを僕は聞かなかった。――そして今朝、なまえは僕に何も言わず部屋を出て行き、加えてメッセージの返信もない。
これ、もしかしてめちゃくちゃやばいやつなんじゃない? と顔から血の気がサァと引いていくのがわかる。僕が青い顔をしていることに硝子も気付いたんだろう。「身に覚えはあるんだな」と嫌悪感丸出しの音を発してみせた。

「なまえから伝言。“別れてください”だってよ」
「――は? いや、待ってよ。なまえと何も話してないのに聞けるわけないでしょ、そんなの」
「話すこともないんじゃないか。一歩間違えれば犯罪だろ。本当にわかってんの?」

硝子のその声に、ぐ、と言葉が詰まる。
そんな僕を冷たい視線で一瞥して、硝子はくるりと身を返していった。こつこつとヒールの音が遠のいていき、ぽつねんと一人廊下へ残される。

「もう、マジで。なんなの」

幸せ絶頂から地獄へ急降下。
付き合って半年。僕にしてはかなり我慢して粘り強く彼女の心を開いてきたというのに、初めて身体を重ねたその翌日にフラれてしまった。
身から出た錆。わかっている。でもなまえのことが好きすぎてそうなっちゃったんだよ、なんて言い訳は、多分誰にも聞いてはもらえない。

なまえは今日休暇を取ったらしかった。伊地知に聞いた。詰め込まれた任務をこなしながらも、なんか全部どうでもいいな、と思う。呪霊を祓うついでに廃墟でも木っ端微塵にしたらちょっとは気持ちも晴れるだろうか、と思ってやってみたけどダメだった。ただ伊地知が顔を青くしただけで。

なまえの「やだ」は本当に拒否だったんだな、と考えて、それを聞きもしなかった僕はフラれて当然だとも思う。硝子の放った「犯罪」のワードが指すのは避妊具をつけずに行為をしたことだと思う。確かにね、被害届出されたら受理されるわ、そりゃ。
任務を終えて高専に戻ればすでに日も暮れ、他の術師たちも皆帰っていったのだろう。人の気配の薄い執務室の扉を開ければ、そこには数人の補助監督と七海の姿があるばかりだった。

「ねえ、七海ぃ」

補助監督と打ち合わせをしていたらしい七海の背後へと近寄り、その肩に腕を回す。明らかに「面倒」と顔を顰めた彼には申し訳ないけど、僕今すごい弱ってるんだよね。

「飲み行こ」
「貴方飲めないじゃないですか」
「今日は飲める気がする」
「帰ったらどうですか。私は帰ります」
「ダメ。僕もう決めたから。今日は七海と飲む」

そう言って七海の肩に腕を回したまま、くるりと捕らえた身体ごと身を返した。行くよ〜と発した声にはため息ばかりが返される。
五条さん報告書は、と伊地知の泣き出しそうな声が背後にかけられ、それには「明日やる〜」と答えてから、執務室を七海と連れ立って出ることにした。



「もう無理。全部がいや。なまえがいない世界に価値とかないから」

静止をかける七海の声も聞かず、甘ったるいカルピスサワーのジョッキを半分ほど飲み下した僕は、居酒屋のテーブルにぺたりと頬を付けくだを巻いている。
――なにかあったんですか、と聞いてくれる七海はよくできた後輩だ。くらくらとする頭でことの顛末を話した僕に、七海はため息。それはもう、深く重たいやつを一発。

「避妊をしないのは感心しませんね」
「だってさあ、子供できたら僕と結婚してくれるかもしれないじゃん」
「最低です」
「それくらい好きなんだってば」

ふう、と吐き出した息はアルコールの匂いを纏っていてひどくうざったい。僕も硝子や七海みたいにアホみたいに酒が飲める方が良かった。そしたらこんなしくしくと痛む胸など容易く誤魔化すことができたのに、と思いながら静かに目を閉じる。
五条さん、と七海の諭すような声が聞こえた。

「女性の身体はその人本人のものです。他者――ましてや男がそれをどうこうする、というのは倫理的にもあり得ないことですし、それをこちらはわかっていないといけない」
「フェミニストだね、七海は」
「このご時世、当たり前のことですよ」

七海の声は苦い。でもそれによって紡がれる言葉は正論だった。

「五条さんにも変わらず言えることです。その人の身体はその人だけのもの。――無下限のある貴方には一番よくわかってることなんじゃないですか」

振ってくる声は、頭の中で正しく処理されている気がした。
無下限。他者を触れさせない力。弾く力。僕に触れられるのは僕が許した奴だけで、そこには僕の意思がある。
ふ、と思わず笑いが漏れるけれど、七海は黙ったままだった。

「お前の方が、僕よりずっと教師に向いてるかもね」

ぽつりと放った声に言葉は返されない。
弱ってるなァ、と漏れ出た言葉に七海は「そうですね」と色のない相槌をようやく口にしてくれた。



翌日。思ったよりお酒残らなかったな、と思いつつ高専内の廊下を歩いていれば、目の前には小さな背中が見えた。なまえだ、とすぐにわかって足を早める。容易く追いついた彼女の前へと回り込めば、なまえは眉を下げながらも足を止めてくれた。

「…なんですか」

うろうろと彷徨った視線は僕から外れたところに収まっている。三十センチほど空けた距離がもどかしいけれど、でもこれ以上距離を詰めるわけにはいかない。

「…別れるつもりないから」

僕のその声に、なまえがぴくりと肩を揺らす。すっかり俯いてしまってその表情は見えないけれど、多分泣き出しそうな顔をしているんだと思った。

手を握って、抱きしめてやりたい。でもそれが悪手だということもよくわかる。
付き合っている。恋人同士である。そんなカテゴライズとも呼べるものだけでなまえを繋ぎ止められるとは思わない。欲しいのは心だ。
なまえ、となるべく柔い声でその名を呼んだ。視線が噛み合うことことはない。

「なまえがいいって言うまで触らない。我慢する。僕の部屋に来なくてもいい。僕もなまえが呼んでくれるまでお前の部屋には行かないし。手を繋ぐのも嫌ならしない。――お前がいいって言うまで、何もしない」

許して欲しい、と喉まで出かかった言葉は飲み込んだ。許す、許さない、はなまえが決めることで
僕が強請って良いものではないし、許して、と言ったところで「いやです」と言われるのがオチだ。頑固な子でもある。でもそういうはっきりとしたなまえの性格含めて好きだった。

そんな子が「やだ」と発していた気持ちを汲み取れなかった僕はどうしようもなく愚かだと思う。好きだから、という気持ちが免罪符になるわけがない。でも、僕がなまえを好きであるという心は知っていて欲しかった。

「この間はごめん。なまえに触れるのが嬉しくて止められなかった。ナマでしたのも――ごめん。抑え効かなくて、でもお前を蔑ろにしたかったわけじゃない」

精一杯の弁明は、彼女にどんな形で伝わっているんだろうか。そんな不安にも似た気持ちを抱えながら、なまえ、ともう一度呼びかける。
覗き込むように背を丸めれば、そこには思い悩むような表情があった。きゅ、と唇を結んで、眉を下げて、床の一点を見つめながら何かを堪えるような色。
そんななまえの表情にすら、可愛いな、と感じるのだから、僕は心底彼女に惚れているんだと思う。畳み掛けるならここ――そう思って口を開く。

「別れたくない。なまえがいてくれるだけで僕、頑張れるから。付き合ってくれてるだけでも良いよ。僕からお前を奪わないで」

耳障りの良い言葉だけれど、それは本心でもあった。
なまえがいない世界に価値なんてない。重いだとか、執着だとか、そんなマイナスイメージの言葉に属する思考だとは思うけれど、心はすでになまえに囚われていて離れられる気なんてしなかった。

なまえに触れられない。最悪だ。でも、なまえに嫌われる方がもっと最悪だった。
繋がっていたい。気持ちが揃っていて欲しい。なまえの心が欲しかった。それを確認するために肌を合わせていたのに、本当に僕は馬鹿でしかない。

おずおずといった様子でなまえが顔を上げる。持ち上げられたそこはやはりへなりと眉が下がっていて笑ってしまった。好きだけど許せない。そんな葛藤は明け透けにわかる。

「いくらでも待つよ。それくらい、お前のこと好き。――ごめんね、怖かったよね」
「待って、欲しかった」
「うん」
「いっぱいいっぱいで、怖くて、だから優しくして欲しかった」
「うん」
「避妊されないのもイヤ。悟さんにはどうでもいいかもしれないけど、でも女性の身体をそんなふうに扱う人は嫌い」
「…どうでもよくないよ」

なまえの口から出た「嫌い」の言葉に、ぐさ、と心に刃が刺さる。
硝子もきっとあの夜のことをなまえから聞いていたんだろう。クズ、と僕を評したそれは一般的に見ても当然のことだった。七海の言葉だってそれに則している。そしてなまえも、あの二人と違わぬ価値観を持っているようだった。――まぁそれも、当たり前と言えることなんだけど。

欠けてるな、と思う。僕自身に対してだ。
感情が先走る。それによって引き起こされる事態を想定できない。己の行為によって他者が傷付くことなんか、ちっとも頭に浮かばない。
それはなまえに限って、とも言えるのだけれど、なおさらタチが悪いし頭も悪い。

嫌い、と発したなまえの声は頭の中をぐるぐると回っていて、少しばかり背中が丸まる。
これ、もう許されないやつじゃない? とため息を吐き出したい気持ちにはなったけれど、やってみなければわからないこともある。そう自分を慰めてなまえを見た。

「僕に触られても良いって思えたら教えて。それまでは、信頼の回復に努めます」

発した声は少し硬くなってしまったけれど、なまえはそんな僕の言葉に眉を下げながらふわりと笑う。子供を見るようなその色に、胸は堪らなく疼いた。あーもう。好き。大好き。

なまえと連れ立って廊下を歩く。それぞれの身体には数十センチの距離があった。それにもどかしさは覚えるも、嫌われるよりずっと良い。

その日から僕は、宣言通りなまえからの信頼回復に努めようと、ことあるごとに彼女へ「好きだよ」と言葉にして伝えるのだけれど、そんな様子を見た硝子には「五条の好きって薄っぺらいよな」と言われ、七海にまで「軽薄さに拍車掛かってませんか」と言われる始末。こともあろうに伊地知にまで「五条さん、そういうことはあまり連発しない方が良いのでは」とありがたい忠告を受けた。

それならば、と任務帰りにホビーショップへ車を寄せさせ、大きな可愛いテディベアを買ったり、なまえが好きだというケーキ屋の自家製プリンを買って高専に戻ったりするのだけれど、そんな僕の涙ぐましい努力は見事に空回りし、それでも他に手段なんてない、と己の引き出しの少なさに呆れながらなまえに贈り物を続ける日々だ。

こんなに「待て」をされたことなんかない。絶対暴発する――そんな僕の不安を知りもせず、必死に繋ぎ止めようとする理性の糸をなまえが容易く引き千切ろうとするのはそれから五ヶ月後。今日悟さんのお部屋行ってもいいですか、と言ったなまえの声でようやく「許し」を得た僕が彼女と共に過ごす、二度目の夜のことである。

危なかった、と翌朝感じたひやりとした僕の気持ちもなまえは知らないのだろう。すやすやと可愛らしい寝顔を見せるばかりで、でも横で眠るその姿を見られただけでもひとまず「良かった」と、ほっと息を吐き出した。
余裕なんてこれっぽっちもない。そんな自分に呆れながらも、そうさせる一人の女の子の魅力には最強と呼ばれる僕も、もはや屈服するしかないのである。



2024/04/21