校内の医務室。丸椅子に腰掛けながら見上げた家入さんはこれでもかというほどの深いため息を吐き出した。その横には歌姫先生。同じようにため息を吐いてみせた先生の傍には、正座をさせられた葵くんがいる。
ことの発端は、葵くんと向かった任務地でのことだった。
祓除は滞りなく終了。といっても、そのほとんどは葵くんが行ったものなのだけれど、今それは良い。問題はその後のことである。
赴いた任務地は廃ビルで、足元には瓦礫が散乱していた。任務を無事終えて気が緩んでいたわたしが悪かったのだと思う。
戻ろう、と言った葵くんの背中を追いかけようとした時、足元の瓦礫に足を取られわたしの身体は前へと傾く。それを素早く察知したのは他でもない葵くんだった。みょうじ、と手を伸ばしてくれたそれは無事わたしの腕を掴む。掴んだのだけれど――。

「力が入りすぎて折った、と」

ことのあらましを話し終えたわたしに、家入さんはまたも大きなため息を吐き出してみせる。歌姫先生は未だ葵くんに正座をさせ「任務中ならまだしも、終わってから同級生の腕を折るってどういうことよ」と、それはそうと頷いてしまいたくなる正論を振り翳していた。

葵くんの手のひらは大きい。それはわたしの腕を容易に覆ってしまうほど。そして力も強い。葵くんの右に出る者は京都校にはいないんじゃないか、というくらいには彼の力自慢はある種有名だった。
ぽき、と心地よい音がしたと思う。痛い、と自覚するよりも先に、あ、折れた、と思った。
ぷらんと垂れるわたしの腕を見て葵くんは顔面蒼白。慌てたようにわたしを抱えて補助監督の待つ車に戻り「早く戻れ」なんて声を荒げていたのを少しだけ意外に思う。――腕が折れるくらいなんだ、と言うような人かと思っていたんだけど、どうやら違っていたらしい。

堪え切れない痛みは数十分してやってきて、アドレナリンが切れたことがよくわかる。京都校に戻り、またも葵くんに抱えられてやってきた医務室。
騒ぎを聞きつけた歌姫先生は慌てたどこかに連絡を取り、とりあえず、と痛み止めを渡してくれた。
医務室で待つこと一時間と少し。やってきたのが東京校に勤務する反転術式のアウトプットが可能な術師――家入さんである。

「治すから腕出して」
「はい。ありがとうございます」

肘から下がぶらんと垂れたままの腕を差し出せば、家入さんは手首のあたりを優しく掴み、もう片方の手のひらを折れているであろう箇所にあてがってくれる。じわりと熱を帯びたそこは瞬く間に痛みが引いていって、そして家入さんに言われるがままに軽く手のひらを開いては閉じる、を繰り返した。

「良さそうだな。痛みは?」
「ありません。うわぁ、すごい。ありがとうございます」

へらりと笑ったわたしに、家入さんはどこか困ったようにして「気を付けろよ」と優しい声を紡いでくれる。はい、と頷いてみせ視線を横へ向ければ、そこにはすっかり項垂れた葵くんがいた。

「葵くん、治してもらったからもう大丈夫だよ」
「なまえ、治ったから良いってもんじゃないのよ」

ぐりんと首を回してそう言い切る歌姫先生には何も言えない。それはそう、とやはり正論には勝てないのである。

「すまなかった。みょうじに怪我がないようにと思ったんだが…」

項垂れたままそう言った葵くんの声に、女三人顔を見合わせる。ちら、と視線だけがやり取りされ、そして家入さんと歌姫先生は一つの解に辿り着いたようだった。

「東堂、自分の力を自覚しなさい。守りたいならその対象には加減をして触れること。身体の大きさからして違うのはわかるでしょ?」

歌姫先生の声に、葵くんは「はい」と蚊の鳴くような音を出して頷いてみせる。その様子に、家入さんと歌姫先生はまた目配せ。そして揃ってわたしを見た。促されるように口を開く。

「葵くん、いつもありがとね。でも大丈夫だよ、わたしも鍛えるし! 腕相撲でも負けないくらいになるかもよ!」
「なまえ、それは――」

ハッとした様子の歌姫先生の言葉を遮るように、葵くんが顔を上げすっくりと立ち上がった。でかいな、と家入さんが呟くのが聞こえる。

「みょうじ、俺が守ろう。そして強くなろう。お前とならそれができる」

葵くんはそう言ってゆっくりとわたしへと足を進め、そしてその大きな手のひらを差し出した。――握手。そう理解して、わたしも右の手のひらを差し出す。きゅ、と握られたそこは、痛くもなく、ただただ優しい温度をわたしに伝えてくれていた。

「東堂、なまえが好きなのはわかるけど――」

歌姫先生がそう発した時だった。ぐ、と葵くんの手に力がこもり、そしてまた、ぼき、と今度は鈍い音がする。

「あ」
「あ」
「あ」

わたし、家入さん、そして歌姫先生の声が重なり、そして葵くんは「あ゛」という鈍い音を出した。離すこともできない手のひらは、確実に折れている。

「みょうじ」
「折れたね」
「折れたな」
「折れたな、じゃねぇーんだわ!」

歌姫先生の怒号が飛び、家入さんがくつくつと笑う。大丈夫、まだアドレナリン出てる。痛くない。自分に言い聞かせるようにそう頭の中で繰り返し、恐る恐る家入さんを見れば彼女は笑って「治すよ」と言ってくれた。それにほっとするのも束の間、東堂! 説教! と歌姫先生が葵くんの首根っこを掴む。

「愉快だな、京都校は」
「葵くん限定だと思います」
「いいじゃないか、大事だぞ。そういうやつは」

動かせない手のひらを家入さんが優しく包み、葵くんのそれから外してくれる。するりと抜けていった葵くんの手のひらは、あっという間に正座をした膝の上に置かれてしまっていた。

「付き合ってるんだろ」

家入さんの声に「はい」とへらりと笑ってみせる。じわりと伝わる彼女の反転術式の熱を感じながら、カルシウムたくさん摂ったら折れにくいですかね、なんて言ったわたしに「そういう問題じゃないな」と家入さんはやはりおかしそうに笑っていた。
守りたい。怪我がないように。そんなふうに常々接してくれる葵くんなのに、力余って怪我をさせる。不器用な人で、そして可愛い人なんだけれど、そんな力余る愛情も受け入れたくなるわたしと彼は、実のところ、よくよくお似合いのある種おバカなカップルなのかもしれなかった。

「まぁ今のは歌姫先輩が悪いですよ」
「う、それはごめん」

家入さんの声に、歌妓先生は少しばかり眉を下げ、どうやら葵くんへの説教を終えてくれるようだった。
家入さんに礼を告げて、葵くんのそばへと近寄る。膝を抱え込むようにしゃがんで、先ほど折られ、そして治してもらったばかりの右手でピースサインを作ってやれば、葵くんはどこかほっとしたような顔を浮かべていた。

東堂がみょうじの腕折ったんだって? そんな話題はその日から京都校でのホットニュースとなり、桃ちゃんには「DV彼氏じゃん」なんて揶揄される始末。それでも葵くんは並んで廊下を歩く時、まるで赤ちゃんに触れるようにわたしの右手を包んでくれる。つまるところ、葵くんはまごうことなき優しい彼氏に変わりないというのが、実際に腕を折られたわたしの――それは浅はかであるかもしれないが――紛れもない自論なのである。



2024/04/05