小説 | ナノ
寒さで目が覚めた。身震いしながら上体を起こした。周囲を見ると誰もいない教室だった。どうやら(わたしの記憶が正しければ)放課後に教室で日誌を書いていたら寝てしまったようだ。さすがに暖房のない真冬の教室で安眠はできなかったか。日誌に目をやると途中までしかできてなかった。仕方ないので気は進まないがシャーペンを手に取って続きを書きはじめる。寝起きのすぐ後に書き物をするとなんだか変な気分だ。途中までは出来ていたので日誌はすぐに終わった。わたしは日誌を職員室に届けるべく、スクールバッグに筆箱やらプリントやらを入れて帰りの支度を始めた。するとちょうどスクールバッグのチャックを閉めた時、教室のドアががらりと開く音がした。見るとそこにはクラスメイトが驚いた表情で立っていた。こんな時間までなんで残ってるんだとか思っているのだろう。クラスメイトの方はおそらく部活だ。彼らテニス部員が関東大会に出場するほど強いというのを聞いたことがある。


「あれっ?名字、まだいたのかよ」
「いや日誌書いてたら寝ちゃってさ」
「うわダッセー」
「うるさいっ」


神尾は教室に入ると自分の席の中をあさり始めた。どうやら明日提出のプリントを忘れてしまっていたようだ。


「神尾部活だったの?」
「ああ。つかお前、俺達が汗水たらして一生懸命部活やってる時爆睡してたのかよ」
「いーの。こっちは寒い教室で寝たから風邪引きそうだったんだから」
「うわっうつすなよ!大会近ぇんだから」


神尾はわたしから大袈裟に飛んで後ずさった。別に風邪引いたわけじゃないのに大袈裟なやつだ。それを言おうとしたがわたしにはそれよりも気になることがあった。


「えっ?大会って?」
「もうすぐ全国大会あんだよ」
「えっほんと?関東大会負けたとか言ってなかったっけ?」
「あのなあ… 別に関東大会で優勝しなくったって全国大会出れるんだよ」
「そうなの!?」
「そうだよ。お前アホか」
「うっうるさいっ。わたし帰宅部だから知らなくて当たり前でしょっ」
「は〜…どうかねぇ」


なんか腹が立ったので神尾に近づいて軽く殴ってやった。大して痛くもないくせに「いてっ」とか言っていた。


「あ、そうだ」
「ん?なに?」
「お前さ、このあと暇か?」
「え?暇だけど」
「じゃあちょっと付き合ってくれよ」
「いいけど、どこに?」
「あー…ま、行ってからのお楽しみってことで」
「なにそれ」


神尾の言い方にちょっと笑ってしまった。神尾も楽しそうににっと笑っていた。しかし一体どこに連れて行かれるのだろうか。今は寒いから出来るだけ屋内にしてもらいたいところだ。まあ神尾のことだからゲーセンかどこかだろうから、それは杞憂なんだろうけど。




























結果的に言うとわたしの予想は大きく外れた。神尾がわたしを自転車の荷台に乗せて連れてきたのは、神尾の好きそうなゲーセンや人が多くて賑やかな場所ではなく、意外にもかなり静かな場所だった。しかも屋外。いつものわたしだったら屋外は寒いと駄々をこねるのだが、今回は違った。


「海だ、海ーっ!」


一面に広がるのは白い砂浜と碧の海。青色と言った方が海らしいんだろうけど、東京で、しかも人工的に作られた浜辺だから青色と緑色の中間くらいの色で、青緑色というより碧と言ったほうがわたしにはしっくりきた。それにテレビかなにかで碧は青緑色だと聞いたことがある。海のずっと向こう側に船がいくつか停めてあるのが見えた。砂浜の後方は屋根付きのベンチがあって、その後ろにはわたしと神尾が自転車で通ってきたアスファルトの道、その後ろは坂にになっていてこれもまた人工的な草原でなっていた。ここに来るまでにアスレチックがいくつかあったし、どうやらここは一般の人も楽しめるように作られた海の公園らしい。ただ冬だから寒すぎで今は誰もいないが。
びゅうと風が吹いてわたしは身震いした。真冬の海ということでかなり寒かったが、わたしを興奮させるには十分すぎるものだった。


「テンション高けぇな」
「だって海だよ!?もう何年も来てなかったからめっちゃテンション上がるわ」
「お前そんな海来たことないのか?」
「中学上がってからはね。なんか面倒くさくなっちゃってさあ。いやーでもやっぱり海はいいもんだねぇ」
「ははっ。そんなに喜んでもらえるとは思わなかったぜ」


神尾が笑って言った。わたしは久しぶりの海に大興奮していて、寒いのも気にせずソックスを脱いだ。


「なにしてんだ?」
「ちょっと叫んでくる」


わたしはソックスが汚れないようにローファーの中に入れて裸足になると、砂浜に飛び出した。一気に海辺まで駆け巡ると、大きく息を吸ってわーっと叫んだ。やっぱり海で叫ぶのは気持ちいい。夏じゃ人を気にしてできないけど、冬だとできるとわかって、冬の海も悪くないなあと思った。
ふと気配を感じで振り向くと、制服のズボンのすそを折り曲げた神尾が裸足で立っていた。どうやらわたしを追い掛けてきたようだ。


「いきなり叫ぶなよ。びっくりしただろ」
「海に来たら叫ぶもんでしょ」
「それはお前だけだろ」
「でも結構気持ちいいよ。すっきりするし」
「ふーん、そういうもんかねぇ」


わたしはうーんと背伸びをした。すぅと胸いっぱいに息を吸い込んだ。潮の匂いがする。そして叫んだ。今度は無意味な叫び声ではなく、ちゃんとした言葉で。わたしは言いたい放題言った。数学の先生のテスト難しすぎ、学校の暖房もっと早くつけよ、担任厳しすぎ、ていうかここ寒すぎ、とか。きわめつけに彼氏欲しいー!と叫んだら、隣の神尾がぷっと吹き出した。


「ははっ、なんだよそれ」
「だって思わない?数学難しすぎだし暖房つくの遅いし、担任厳しすぎだし、彼氏欲しいし、ていうか寒いっ」
「ああ、それそうかもな」
「やっぱり叫ぶとすっきりするわ。あ、神尾もやったら?」
「叫ぶつってもなあ…何叫べばいいんだ?」
「なんでもいーよ。好きなこと叫べば?テニス強くなりたいー、とかは?」
「じゃあさ、深司ぼやき過ぎー、とかはどうだ?」
「あ、それいいかも」


わたしたちはくすくす笑った。確かに伊武のぼやきは勘弁してもらいたい。神尾曰く伊武は最近ぼやきの電話をかけてくるようになってきたらしいし、二人と仲の良いわたしも被害者になるのは時間の問題だろう。するとひゅうと冷たい風が吹いて、わたしの体を直撃した。スカートの下は普通に生足を曝しているので、肌に直接冷気が触れてわたしは思わずくしゃみをした。


「寒いのか?」
「当たり前でしょ」
「あんだけテンション上がってたくせに?」
「寒いものは寒いの」


神尾が黙ったので見てみると、神尾が上着を脱いでいた。寒いっていうのに頭おかしくなったのかと思っていると、神尾が脱いだ学ランをわたしに渡してきた。


「着とけよ。寒いんだろ」
「でも神尾が寒いじゃん」
「俺はいーの。中にヒートテック着てるし。それにセーラーって寒いんだろ?」
「わ、よく知ってんね」
「いーから着とけ」


わたしが受け取る前に神尾が学ランをわたしの肩にかけてきた。こうなると受け取らないわけにはいかないのでありがたく着させてもらうことにして袖を通した。着てみると案外ぶかぶかなのが神尾が男だと実感してドキッとした。あわてて学ランから目を逸らして今度は神尾に視線をやると、見慣れないカーディガン姿にまたドキッとした。


「あ、ありがと」
「どーもいたしまして」


ふとそこで会話が途切れた。聞こえるのは波の音だけ。視界に広がるのは碧の海。白い砂浜にいるのは、わたしと神尾の二人だけ。これってもしかして、青春なんじゃないだろうか。十代、冬だけど、ふたりきりで砂浜にいて、海を見ている。第三者から見たら、わたしたちは恋人同士に見えるんだろう。けどそれは他の人がわたしたちを見た印象であって、わたしたちはそうじゃない。ただのクラスメイトで友達。それ以上もそれ以下もない。
わたしはもう一度海を見た。碧色の海は、変わらず、同じリズムで海水を浜辺に打ち上げていた。日の光が海に反射してキラキラと光っていて、まるで碧のレンズのようだった。視界を上に向けると、海の上の空は橙色で、太陽が沈みかけていた。久しぶりに見る、綺麗な夕日だった。
わたしたちが恋人同士なら、とてもいい雰囲気なのかもしれない。だけどわたしたちは、さっきも言った通りただのクラスメイトであり友達。それ以上もそれ以下もないんだ。…たとえ、わたしがそれを望もうとも。
わたしはぎゅっと拳を握りしめた。


「なんかさ、意外だった」
「なにがだ?」
「ゲーセンかどっか連れてかれると思ったのに、まさかの海だったから」
「ああ、なるほどな」
「海、よく来るの?」
「たまにな。確かにゲーセンみたいな騒がしいのも好きだけどよ。ほら、冬の海ってさ、人少ないから波の音がよく聞こえるだろ?だからさ、ゆっくりリズムが感じられて結構心地好いんだよな。だから落ち着きたい時とかたまに来るんだ」


神尾はたまに普通の男子なら恥ずかしくて言えないようなことを平気で言う。多分それは単純に神尾が素直な性格だからだ。いつか神尾が同じようなことを言って、それを聞いた伊武がよくそんな恥ずかしいこと言えるよなあとぼやいていたのを覚えている。わたしからすれば、それは神尾の長所だと思うのだが、どうも伊武にはただの無恥なやつだとしか思えないらしい。


「えっ、わたしさっきすんごい騒いじゃった。ごめん」
「ははっ、別にいいって。静かに波の音聞きたかったら最初っからお前連れてこないっての」
「あ、そっか」
「なあ、俺も叫んでいいかな?」
「いいんじゃない?」


わたしが言うと、神尾は大きく息を吸い込んでわぁーっと叫んだ。続けて今度は深司のバカヤロー!と少し違ったが予告通り叫んだ。神尾は次から次に叫んだ。寒すぎ、深司もっと爽やかになれ、勉強したくないテストなくなれ、そしてやはりきわめつけには俺も彼女欲しいー!と叫んだ。わたしはやっぱり神尾も彼女欲しいとか思ってるんだ、と少しドキリとした。神尾の顔を覗こうと見てみると、髪に隠れて表情はうかがえなかった。叫んで満足げに息をついた神尾に、わたしは口を開いた。


「すっきりした?」
「まあな。これで深司が爽やかになったらいいんだけど」
「いやでも伊武が爽やかになったら逆に気持ち悪いよ」
「うわ、それ言えてる」


わたしが笑って言うと神尾も笑った。
するとまた会話が途切れた。会話がなくなると、つい視線を動かして辺りを見回してしまう。夕焼けで橙色に染まった空は、相変わらず夕焼けと同じ色の日光を碧色のレンズのような海へキラキラと光らせ反射させている。視線を横にずらすと、白い砂浜が目に入った。小さな流木や海藻がいくつか打ち上げられている。砂浜は冷気で冷たくなっていて、裸足の足もすっかり冷えきってしまっていた。すると神尾が夕日が綺麗だなとつぶやくように言った。わたしもそれに同意して、そうだねと言った。
ふと、右手に温かい感触を感じた。わたしは何かと思って手を見ようとして――それが何かわかって、やめた。ここで見てしまってはいけない気がした。わたしは何も言わなかった。神尾が何も言わなかったから。わたしの右手を包むようにして握っていた神尾の手が、わたしの手とさらに深く絡まった。わたしは抵抗もせずに、むしろ自分から神尾の手と絡ませた。
わたしも神尾も、なにも言わなかった。聞こえるのは波の音だけ。胸がひどく高鳴って、体がどんどん熱くなっている気がした。ドクンドクンと心臓が体中に血液を送りこむ音が大きくて、神尾に聞こえてしまうのではないかと思った。
神尾の方も繋いだ手も見れなくて、わたしはまっすぐ海を見ていた。碧色の海は日光を反射してまるでレンズのようだ。わたしはレンズ越しに手を繋いでいるみたいだなあ、なんて柄にもなくロマンチックなことを思った。


「…なあ」


静寂に、神尾の声が響いた。わたしが返事をすると、右手に繋がれた神尾の手に力が入るのがわかった。


「お前さ、さっき彼氏欲しいって言ってたろ?」


心臓が跳ね上がった気がした。今度はわたしが手に力を入れる番だった。一間ついてから、わたしはうん、とつぶやくようにして返事をした。次の、神尾からの返事はすぐにはなかった。代わりに、神尾は繋いだ手をさらに深く絡ませた。手が温かくて、わたしは手汗をかいていないか心配になってきた時、神尾がようやく口を開いた。


「俺、立候補してもいいかな」


ぎゅうと、神尾がこれまで以上に強い力を繋いだ手に入れた。少し痛いくらいだったが、今のわたしにはちょうど良かったのかもしれない。この痛みがなければ、わたしは神尾が話した意味を理解した時、冷静ではいられなかったかもしれないから。まあ、今のわたしも、決して冷静だとは言えないのだけれど。
わたしの火照った頬を冷やすように、冷たい風が吹いた。勇気を出して神尾の顔を見てみたが、相変わらず髪で隠れて表情は見えなかった。ただ、髪の間から見えた頬と耳は確かに赤かった。
わたしは緩む頬を抑えながら、今度はわたしが立候補しなくては、と口を開いた。






碧に反射したレンズ越しに/神尾
20120226
企画サイト様韜晦提出