小説 | ナノ
※DVなど暴力表現あり





















その涙で潤んだ目に、思わずゾッとした。


その目を、顔をもっと歪ませたいという欲望が俺の中で増幅していくのがわかった。両手に力を込めると、骨の軋むような感触を両手に感じた。俺の手の中にある白い首が助けを求めるようにびくびくと跳ね、喉を鳴らして蛙のような声を絞り出した。弱々しい首の上にくっついている頭は苦しそうな顔をしている。裸の身体はじんわりと汗をかいていて、今までやっていた行為のせいだけではないのがわかった。ふと生理的な涙が浮かんでいる黒い目と目が合った。潤んだ黒い瞳は、助けて、やめて、苦しい、と訴えていた。しかし彼女自身は何も言わない。きっと死ぬほど苦しいだろうに。だがその瞳が、その表情が俺をますます高ぶらせた。身体に響く快感に、俺の口は弧を描いた。ぎりぎりとさらに両手に力を入れた。首の肉に俺の指がめり込んだところで、そろそろまずいと思い手を離した。あまりやると本当に死んでしまうし、死なすにしても首を絞めるなんてあっさりした死に方をさせるつもりはない。名前が必死に酸素を得ようと息を吸い込み、げほげほと咳をした。俺は首に指の痕がついてないか心配になって首を抑える名前の手を無理矢理どかして首を確かめた。だがそこには痕はなかったので俺は安心した。痕がついたりするとまためんどくさいことになる。俺は名前の首を絞めていたベッドから離れてテーブルの上にあったペットボトルの水を飲んだ。冬だといっても暖房のついた部屋で行為をすれば真夏並に暑くなる。だがさすがに素っ裸だと少し肌寒く感じた。するとそんな俺の心を読んだかのようにすっと俺の肩に毛布がかかった。


「風邪引いちゃうよ」


どうやら名前が俺の肩に毛布をかけてきたらしい。さっきまで俺に叩かれて殴られて首を絞められていたのに、ああなんでこいつはこんなに優しくしてくるんだ。俺はだんだんイライラしてきて、まだ水の半分入っているペットボトルを握りしめた。リサイクルボトルの軽い素材のペットボトルは、いとも簡単に握り潰された。


「キング?」


名前は、いつもと変わらないように、まるで一緒にご飯を食べた後のように、まるでふたりで楽しく出掛けた後のように、いつもと同じ優しい声音で俺の名前を呼んだ。やめろ。俺をそんなふうに呼ぶな。
気づいたら右手が勝手に動いていた。部屋に鈍い音が響いた。右手に名前の柔らかい頬の感触がしたと思うと、名前が床に転がっていた。右手が少し痛い。俺は気づいた。名前の顔を殴ってしまっていた。しかも顔を。ああやってしまった。面倒なことになる。だがそう思っても、俺の中のイライラはおさまらなかった。俺は床に転がった名前に舌打ちをすると、服を着て部屋を出た。とりあえず腹が減ったから、何か食べたかった。
食事を済ませて部屋に戻る頃には機嫌はすっかり良くなっていた。名前に謝らないと。手に救急箱を持って部屋に入ると、服を着た名前がおとなしくベッドの上で座っていた。部屋に入って来た俺を見るなりびくりとしていた。俺はかまわずに名前の隣に座ると、まだ怯える名前の顔を見た。やはり頬が腫れ上がっていた。俺はそれにそっと触れた。


「悪かった。痛かっただろ?」


名前は腫れた頬に俺が触れたが痛かったのか、少し顔を歪めたが、すぐに表情を柔らかくした。


「大丈夫だよ」


名前は微笑んだ。腫れた頬が痛々しくて、俺は名前を儚く感じた。






















俺が名前に暴力を振るいはじめたのは、俺と名前が付き合い始めて一ヶ月ほどが経った時だった。きっかけは俺と名前が喧嘩をした時。俺はすこぶる機嫌が悪かった。だから名前に反論された時、俺は思わず名前の頬をひっぱたいてしまったのだ。俺は叩いてからはっとして、慌てて謝った。本当に悪い、痛かっただろう、俺がそう言って謝り、名前の頬に触れようとした瞬間、名前と目が合った。その時の名前の潤んだ瞳を見た時、俺はゾッとした。まるで自分の中の眠れる獅子が呼び起こされたような感覚だった。また叩かれるとでも思ったのだろう、恐怖に捕われ、怯える、涙で潤んだ名前の瞳を見ていると、もっとその顔を苦痛に歪ませたいという、異常と言える感情が溢れ出してきて、俺を奮い立たせた。その時俺はまさか俺がサディストだったとは思わなくて混乱してひたすらに否定したのだが、俺が自らの欲望に従うようになるまで時間はかからなかった。
それからだ。俺が名前に暴力を振るうようになったのは。殴る蹴るは当たり前にやったし、行為中には首を絞めたりした。名前も最初の頃は泣いた。だけれど時間が経つにつれて名前は抵抗しなくなった。それは多分、俺が暴力を振るった後に罪悪感を感じて必ず謝るからというのもあったが――――おそらく一番の理由は、俺を好きだからだ。自惚れと言われるかもしれない。しかし名前は初めて俺が名前に手をあげた時に言ったのだ。嫌わないで、と。俺は悟った。ああこいつが抵抗しないのは、俺に嫌われたくないからなんだと。俺が好きなんだと。そして俺はそんな名前の気持ちを利用し始めた。自らの快楽のために。名前は俺に嫌われたくないがために抵抗しない。だからなんでもした。名前になにをしようが、名前が俺のことを好きなうちは、名前は俺から離れないから。それに後で謝ってくれることが、優しくしてくれることがわかっているから名前は抵抗をしないというのもあった。また俺が暴力を振るうとわかっているのに、ループするとわかっているのにだ。泣いたっておかしくないのに、やめてと激しく抵抗したって当たり前なのに、名前は何も言わない。泣かないし抵抗もしない。痛みや苦しみを自分の中に閉じ込めて、必死に耐えるのだ。俺はそれに今罪悪感を感じて次はこんなことしたくないと思うだが、きっとその考えはすぐになくなる。次に名前に会って行為に走る頃には罪悪感なんて微塵もなくなり、代わりに激しい性的興奮と快感を感じているだろう。だから俺は中毒なのだ。名前の痛がる顔や苦しがる顔を見ると、身体の奥から欲望が溢れ出して俺を支配してしまう。異常なのは自覚していた。しかしわかっていても止められない。それほど俺の中の欲望は強かった。
翌日、学校に行くと顔にガーゼを貼った名前が既に教室にいた。教室に入って来た俺に気づいた名前が笑いかけてきた。


「キングおはよう」
「ああ、おはよう。名前数学の宿題やったか?」
「やったよ」
「見せてくれ。昨日やり忘れた」
「わ、珍しいねキングが宿題忘れるとか」
「なんだよ、俺だって宿題忘れるくらいする」


そうかなあと名前は笑った。俺が宿題を忘れたのは昨日お前を家まで送ったことが原因なんだがそれは言わないでおく。名前はいつもと変わらない。名前は俺が暴力を振るった後でも、まるで何もなかったかのような態度を取って笑いかけてくる。名前は満足げに笑って自分の席についた。そのうちクラスの女子たちがやってきて、顔にガーゼを貼った名前に顔どうしたの?と言いながらむらがり始めた。名前は野良猫を抱いたら引っ掻かれたと言い訳をしていた。女子たちはなんだそれと笑っていた。見ていて馬鹿らしく感じる。そんな明らかな嘘、なんで信じるんだ?馬鹿じゃないのか。俺が見たらすぐわかるような嘘だが彼女たちには名前の微妙な表情がわからないのであろう。するとチャイムが鳴り、担任のクラサメが教室に入って来たところで女子たちは自分たちの席へ戻って行った。さて朝のホームルームが始まるぞという時、チャイムが鳴り終わるぎりぎりでがらりと教室のドアが開いた。


「間に合ったぜコラァ!」


入って来たのはナインだった。いつものことなのでクラサメは呆れたようにため息をつき、クラスの何人かはクスクスと笑っていた。アイツも変わらないな。ナインが席に着き、そこでようやく朝のホームルームが始まった。退屈な一日の始まりである。
朝のホームルームが終わり、1限目の世界史の準備をしていると、ふと名前とナインが話をしているのが目に入った。ナインはどうやら名前の頬のガーゼについて聞いているようだった。名前は笑ってまたあの野良猫に引っ掻かれたとくだらない理由を述べていたが、嘘をつくなよとナインに問いただされていた。名前が真実を言う心配はなかったが、俺はそれを見てまたイライラしてきた。待て俺。今は学校だ。まずい、抑えろ。放課後にでも名前を家に連れ込めばいい。だから今は我慢しろ。我慢してくれ。俺が必死に自制していると、ナインは問いただすのを諦めたらしく機嫌悪そうに名前から離れて行った。ようやく諦めたか、と俺はほっとして廊下のロッカーに世界史の教科書を取りに出た。ロッカーから世界史を出していると誰かが俺の隣に立っているのに気づいた。見てみるとそれはナインで、何か言いたそうな顔をしていた。


「おいキング。どうしたんだアイツ」
「アイツ?」
「名前のことだ。なんでアイツあんな怪我してんだ?」
「ああ、野良猫に引っ掻かれたらしい」
「いや明らかに嘘だろ。キングなんか知らねぇのか?」
「いや…俺もなにも聞いてない。聞いても答えてくれない」
「そうか…」


ナインはうつむいて悲しそうな顔をした。ナインを騙すのはたやすい。しかし俺はまだイライラしていた。声や表情には出ないようにしているがあんまり話していると学校なのに名前をひっぱたきたくなる。俺は早々にナインとの会話を終わらせることにした。「あんまり気にするなよ」取り出した教科書でナインの頭を軽く叩いて教室に戻った。タイミング良く1限目を知らせるチャイムが鳴ったので俺はいらつきを隠しながら席についた。いらついていたせいか時間が経つのが遅く感じた。4時間目始まったあたりで眠くなって机に突っ伏したところ気づいたら昼休みになっていた。名前が声をかけてきたので昼飯を持って立ち上がって屋上に行った。昼飯はいつも名前と屋上で食べる。前まではナインが乗り込んできたりしたが、俺達に気を遣ってか最近はあまり来ようとしなかった。俺にとっては好都合だから別に良いんだが。屋上について地べたに座り込んだところで名前が口を開いた。


「キング今日お弁当?」
「いや、めんどくて買った」
「わたしも。今日遅刻しそうだったからさあ、お弁当作ってる暇なかったよ」


名前はそう言いながらコンビニで買ってきたのであろうおにぎりを見せるように掲げた。シーチキンマヨネーズ。相変わらずだ。名前はシーチキンマヨネーズのおにぎりが好きで買い食いの時は毎回これを買ってくる。俺はまたそれかと苦笑いした。


「だっておいしいし」
「わからんな」


名前はシーチキンマヨネーズの良さがわからないなんて人生の半分損してると言いそれの良さについて語りはじめた。俺は適当に頷きながらパンをかじった。そのうちにシーチキンマヨネーズの良さについて語るのに飽きたのかクラスの女子の話になった。名前は口数が多くて会話に困らない。それに比べて俺は口数が少ない方だからバランスが取れててちょうどいい。すると名前がナインの名前を口にしたので思わず手が止まった。ナインと名前は仲が良い。だから名前の口からナインのことが出てくるのは普通のことだ。ナインと名前はなにもない。だから今までだって、別に平気だったのに。今名前からナインの話を聞いた途端に心がざわめいた。イライラする。俺はぎゅっとパンの袋を握りしめた。名前が俺の様子がおかしいのに気づいたのか、首を傾げて名前を呼んだ。何も言わない俺に名前が心配したのか、俺の頬に触れようと手を伸ばしてきた。俺は思わず名前の手首を掴んだ。名前がびくりとした。見ると名前と目が合った。恐怖を帯びた目。俺が暴力をふるう時に見せる目だった。恐らく俺に暴力を振るわれると思ったのだろう。俺もそうしたかったが、ここは学校だ。こんなところで名前を殴れば容疑は俺にかかってしまう。胸の奥底から溢れ出る欲望を抑えていると、自然に名前の手首を掴む手に力が入った。痛かったらしく名前が顔をしかめた。「お前、」俺が言葉を発すると、名前がまたびくりとして震えたのがわかった。


「もうナインと話すな」


わかったな、とそう付け足して名前の手首を解放した。名前は潤んだ目を大きくさせて悲しそうに顔をしかめたが、「…わかった」と小さく返事をした。
























放課後になり名前と帰ろうとすると同じ委員会のサイスに呼び止められ、至極めんどくさい委員会があることを思い出した。本当ならさっさと帰って名前を自宅へ連れ込みたいところだが、委員会に出席しなければそれ相応のペナルティーがある。気は進まないが、さっさと終わらせて帰ることにした。名前は下駄箱の前で待っているというのでお言葉に甘えることにした。委員会が行われるのは3階の展開教室なので俺とサイスはそこへ行った。普段委員会などで使われる以外は特に使われていないこの教室は埃っぽくて好きじゃない。教室に入ると教壇には先生が立っていて、席にはそれぞれクラス分けされた席を指定された生徒が座っていた。俺達も指定された席へ座る。しばらく経つと他の生徒たちが遅れ気味で教室に入ってきて、だいたい生徒が揃ったところでようやく委員会が始まった。先生が生徒達にプリントを配り、生徒達がそれを受け取り、後ろの席の生徒へと渡していく。プリントの内容はこれから始まる合唱コンクールについてだった。見た瞬間めんどくさいと思った。高校生にもなって合唱なんて、やりたい奴だけやれば良いだろう。そもそもなんで合唱委員になんかなってしまったのか。考えてみるとナインにじゃんけんで負けたからだと思い出した。思わず舌打ちしそうになって慌ててやめた。先生の声があるとはいえ、さすがに舌打ちをすれば教室に響いてしまう。


「おい」


ふと声をかけられた。見るとサイスがこっちを見ていた。どうやらサイスが話しかけているようだ。


「なんだ?」
「お前さ、名前と付き合ってんだろ?」
「…だからなんだ」
「アイツ、どうしたんだ?」
「なにが」
「顔の怪我。それに腕にも背中にも怪我してた。アイツに聞いてもなんも言わねぇし…お前、なんか知ってんだろ?」
「おい、なんでお前がそんなこと知ってるんだ」
「バカ。体育の時一緒に着替えてりゃわかるわ」


言われてみればそうだった。そうか、着替えか。いつも名前は傷を隠していたから大丈夫だと高をくくっていたのがアダとなったようだ。もしかしたらサイスだけじゃなく他の女子にも気づかれてるのかもしれない。「知らないのかよ?」サイスが再び聞いてきたので、俺は明後日の方を向いた。


「…さあな」


サイスはそれ以上なにも聞いて来なかった。俺もなにも言わなかった。
しばらくぼーっと窓の外を見ていると委員会は終わった。わりとあっという間だったな。見るとサイスは先に帰ったようでいなかった。俺はスクールバッグを掻っ攫うように掴むと展開教室を出た。名前のところに行かないと。教室を出て階段を下りて。まっすぐ名前の待つ下駄箱へ向かった。下駄箱の前のスペースには生徒が座れるような談話コーナーがある。おそらく名前はそこにいるんだろうと予想して談話コーナーを見ると、確かに名前の後ろ姿が見えた。――ナインと一緒に。どうやら名前は俺の命令に従おうと引き気味でナインと話しているようだ。だがナインはかまわず突っ掛かっている。俺はぎりりと奥歯を噛み締め、拳を強く握りながら無言で二人へ近づいた。


「お前どうしたんだよ。なんか今日おかしいぜ?」
「な、なんでもないってば」
「なあ、なんかあったんだろ?俺にも言えないことなのか?アァン?」
「……ごめん」


無言で会話を聞いていると、ナインと目が合った。ようやく俺の存在に気づいたようだ。名前がナインが自分の後ろを見ているのに気づき、ナインの視線を追って名前が振り向いた。目が合った瞬間、くしゃりと名前が顔を歪ませた。今にも泣きそうな顔だ。俺は近づいて名前の手を取った。名前の手は震えていた。俺は唖然としているナインに声をかけた。


「悪いな、名前は俺と帰る」


名前の手を引きながらナインの横を通り過ぎた。ナインの顔は見なかったがどんな顔かは安易に予想できた。靴を履いて、また名前の手を引きながら若干足速に学校を出た。まっすぐ俺の家へ向かう。学校から俺の家までは近い。徒歩10分ほどだ。名前と俺は家に着くまで始終無言だった。家に着いて名前を先に入らせて、玄関でドアを閉めたところで俺はくるりと振り向いた。そこには今にも泣きそうな顔の名前がいて、怯えながら俯いていた。俺が名前の名前を呼ぶと、名前はびくりと反応して、消え入りそうな声で返事をした。


「なんでナインと話した」
「………ごめんなさい」


名前はよほど怖いのか俯きながらふるふると震えている。だが俺が顔を上げろと言えば、名前はおそるおそる顔を上げた。目に涙が溜まっている。こぼれ落ちそうだ。俺は奥歯を噛み締めた。ぎり、と歯が軋む音が聞こえた。
右手を上げて、名前の顔目掛けて強く振り下ろした。パン!と大きな乾いた音がした。掌に強い衝撃が響く。俺が叩いた衝撃のせいだろう、ぽろりと名前の目から涙がこぼれ落ちた。名前が泣いたのはこれが初めてだ。今まで泣きそうな顔をしていたから大して驚きはしなかった。


「お前、わざとか?」


名前が涙をごぼす目を大きく見開いた。わからない、そんな顔だ。やっぱりこいつは気づいてないようだ。無意識か。腹が立ってもう一度名前を叩いた。今度は耐え切れなかったようで名前は床に倒れ込んだ。俺は頬を押さえて必死に涙を堪えているであろう名前に声をかけた。


「お前、もう学校に来るな」


返事はなかった。代わりに、名前は頭を下げた。頷いたようだった。
名前を学校に行かせたくなかった。だって名前は、気づいていないのだ。
ナインが、名前を好きだということに。





























それから名前はずっと俺の家にいるようになった。いや、いるようにさせた。さすがに一週間も学校に来ないとなると、名前の携帯にはたくさんの連絡が入り、付き合ってる俺は名前について学校でよく聞かれるようになった。俺は適当に風邪と言っておいたが、それも長くはもたないだろう。名前と外部の接触をさせたくなかったから名前の携帯も折った。名前は悲しそうな顔をしたが、それでも嫌だとは言わなかった。もちろんあれから名前は学校に行っていない。きっと俺が折った名前の携帯には、たくさんのメールと着信が来ているであろう。そのことを思うと腹が立った。そのたびに名前を殴った。
そしてある日俺は、殴るだけじゃ物足りなくなった。俺は名前に―――刃物を振るい始めた。
鋭い刃を振るだけでいとも簡単に名前の白い肌に傷がつき、赤い血が流れた。それがたまらなかった。殴るよりも蹴るよりも、こっちの方が深くて楽しい。名前を傷をつけるたびに俺はガーゼを貼ったり治療をしたが、また何度も何度も傷をつけたからキリがなかった。刃物を振るうようになってから名前は相変わらず嫌とは言わなかったが、よく泣くようになった。最初は泣くたびに俺が殴ると黙ったが、それも名前が何度も泣くので諦めてやめた。こんな生活をこれからも毎日させる気ではあるが、計画がないわけではなかった。俺は高校を卒業して大学に行って、就職したらちゃんと名前を養う気だ。必要なら結婚してもいい。ただ、俺は名前を家の外に一歩も出す気はないが。
そんな日々が続いていたある日だ。俺はいつもどおり学校から帰ってきて、名前の好きなシーチキンマヨネーズのおにぎりを買ってきたので喜ぶだろうと意気込んで部屋に入った。が、いつもそこにいるはずの名前の姿がなかったのだ。たいてい名前は一人掛けのソファーに座ってテレビを見ているか、寝ているかのどちらかだ。携帯を折ったせいで暇なんだろう。しかし今日、名前はどこにもいなかった。部屋にいなかったからトイレかと思ったがトイレにはいなく、他にもベランダまで探したがいなかった。外に出た、そう考える他なかった。しかし名前には外に出るなときつく言ってあったし、外に出るとは考えられない。一瞬逃げたかもしれないと考えたが、名前に限ってそれはないとすぐにその考えは消えた。ではなぜ名前がいないのか。焦っていて考えがうまくまとまらなかったが、もしかしたら誰かに連れ去られたのかもしれないという考えが浮かんだ。名前が俺にされていることに気づいた誰かが、名前を助けようとやってきたんじゃないか。例えばナイン、とか。考えれば考えるほど俺は焦った。けれどそれが一番真実に近い気がしてならなかった。ナインに連絡を取ってみようかと、震える手で携帯を制服のポケットから取り出そうとした時、家のドアが開く音がした。俺ははっとして玄関まで速足で行くと、玄関には名前がコンビニの袋を提げて立っていた。俺の姿を見て今にも泣きそうな顔をしていた。どうやらコンビニに行っていたらしい。が、俺が禁止したはずの外出をしたことには変わらない。俺がガン!と壁を拳で強く叩くと、名前がびくりと体を震わせた。


「ごめんなさい。…でも、あの、誰にも会ってないから、わたし。ほんとうに…」
「そういう問題じゃない」
「…ごめんなさい」


名前はうつむいた。どうやら泣いているようだった。家に閉じ込めるようになってから、名前はよく泣く。叩いてもいないのにだ。俺が舌打ちをすると、名前はさらに謝った。名前の持つコンビニの袋に目をやると、俺が今日買ってきたのと同じシーチキンマヨネーズのおにぎりが入っているのが見えた。なんだよ。俺が買ってきたのに。俺は耐え切れなくなって名前の両肩を掴んで壁にたたき付けた。俺がさらに名前の両肩を掴む手に力を込めると痛かったようで名前が痛みに顔を歪ませた。さてこのあとはどうしてやろうか。また刃物で傷をつけるのも悪くないが、今度は約束を破った罰として脚でも折ってしまおうか。そうすれば歩けないし、勝手に外に出ることもなくなるだろう。


「…キング」


名前が口を開いた。普段の名前ならこういう時、いつも黙っているのだが、今日は珍しく口を開いた。俺が返事をすると、名前は聞きたいことがあるんだ、とうつむいたまま言った。


「わたしのこと、好き?」


俺は返事をしなかった。ただ長くて重い沈黙が、しばらくの間流れた。すると名前が、おそるおそる顔を上げた。俺の返事がないのが気になったらしい。
――お前は黙って、俺を愛していればそれでいい。
俺はなにも言わなかった。俺が代わりに振り上げた手を見て、名前がくしゃりと顔を歪ませた。その時の名前の顔は、今までで一番悲しそうな顔だったような気がしたが、俺はもう考えたくなかった。