小説 | ナノ
翌日。いつもよりやや寒い日だった。相変わらず息は白い。俺ははっと息をついた。白い息とか、名前が見たら嬉しがりそうだな。退院したら見せたいなと思ったら、少し口が弧を描いた。病院へ向かう道を歩きながら、俺はこれから会う名前のことを考えた。今日は名前と何を話そうか。そうだ。もうすぐ雪が降りらしいからそれを話そう。名前、楽しみだって言うんだろうな。カーテン越しに笑う名前を思い浮かべたが、すぐに別にもうカーテン越しに話す必要はないんだということを思い出した。目を見て話せるんだ。
俺は今日、名前に好きだと伝える――予定だ。カーテン越しじゃなく直接目を見て、話すんだ。名前のはにかむ顔が目に浮かんだ。そしたらなんだか機嫌が良くなってきて、顔の筋肉が緩むのを俺は必死に堪えた。














名前の病室の前に立つと、なにか違和感があった。首を傾げていると、すぐにドアの横にあったはずの名前の名前が書かれたプレートがなくなっていることに気づいた。なんでないのだろう。プレートを変えるか何かするのか?まあいいやと思ってドアを開けて中を見た瞬間、俺は絶句した。


「……………え?」


何が何だかわからなかった。そこにあったのは―――いや、そこにはなにもなかった。
名前が使っていたベッドはシーツや枕がなく、寂しい状態入院なってそこに存在していた。いつも名前の影を映していたカーテンはなくなり、名前がいつも見ていたであろう窓が見えた。名前の私物もなくなっていて、当然それを乗せていたワゴンもない。俺は病室に足を踏み入れた。だが、俺が病室に入ったところで状況は変わらなかった。ハンガーにかかっていた名前の服や、名前が面白いんだよと半ば無理矢理読まされたシリーズの本も、寂しいからといつも一緒にいるんだと言っていたぬいぐるみも、名前が私物を詰めたダンボールも、机も、ペン立ても、名前と関わりのあるすべてが―――なくなっていた。
俺のいるそこは、もはや名前の病室ではなく、ただ空いているだけのひとつの病室になっていた。嫌な予感がした。冷や汗が俺の頬をつたう。大丈夫、大丈夫。きっとただ部屋を移動しただけで、大丈夫、きっと、大丈夫――――


「エイトくんかい?」


びくりとして振り向くと、カヅサが部屋の入口に立っていた。心なしか悲しそうな顔をしていて、胸がざわついた。大丈夫、そんなはずはない。絶対に違う――――
俺は震える声で言った。


「あの……名前、は…?」


カヅサの顔が悲しみに歪んだ。ああやめてくれ、そんな顔をしないでくれ。それじゃ、それじゃまるで、名前が、名前が―――――




「亡くなったよ。昨日の夜中に」




ぐらりと視界が揺れた。まるで貧血を起こしたような気分になった。ぐらぐらと頭が揺れて、視界が開けた時には自分の手と足、床が目に入った。気がつくと俺は床にしりもちをついていた。頭が回らない。え?なんて言った?今、カヅサはなんて言った―――?カヅサがなにか言っているのがわかったが、なにを言っているかはまったくわからない。無意味に床を見つめながら、回らない頭をなんとか回して考える。

名前が、死んだ?

嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ。だって名前は昨日まで、俺といて笑ってて、色んな話をしてくれて、だってこれからって、これからってとこだろ?死ぬわけないじゃないか。「っは、はははっ」そう思ったら渇いた笑いが込み上げてきた。


「は、はは…変な冗談はやめてくれ。名前が死ぬわけないじゃないか…」
「…エイトくん、残念ながら本当のことなんだ。名前くんはもう―――」
「うそだっ!」


気がつくと俺は叫んでいた。「…嘘だ…嘘だそんなの…」ぶつぶつ言いながら、床を見つめた。なあ、なあ名前。いつもみたいに明るく出てきてくれよ。お願いだから、どこからともなく現れてごめんねドッキリでしたー!って、言ってくれよ。そうじゃないと、そうじゃないと俺は……


「…君も辛いとは思うけど」


カヅサの声が妙にクリアに聞こえた。俺は床を見つめながら静かにカヅサの言葉を聞いていた。


「名前くんはもういない。死んだんだ」


じゃあ僕は外にいるから、落ち着いたら出ておいで、カヅサはそう言うと、俺に気を遣ってか部屋を出て行った。後でわかることだがカヅサは俺が落ち着いたら名前の遺体を見せようとしていたらしい。俺はそんなことなどまったく考えもせず、名前のことを考えた。(エイトくん、学校って楽しい?)(そういえば今日、虹が出てたよ。綺麗だったなあ…)(えへへっ、なんかいいね!)名前、お前は辛くて狭い世界の中でもあんなに明るくて、あんなに綺麗だったじゃないか。死んだなんて俺は絶対に信じない。信じたくない。なあ、名前、名前、どこにいるんだ…?頼むから出てきてくれよ… けれど俺がどんなに思っても名前は出て来なかった。
俺はしばらくぼーっとしていた。少ししてから、なんとなく立ってみた。立ってみると少しふらふらした。後ろにあったベッドにぶつかって、そのまま座り込んだ。まだ少しぼーっとしながら、ベッドを見つめた。そしてなんとなく、ここは名前の使っていたベッドだということに気づいた。(……名前のベッド…)後ろを向くと、窓があり、景色が目に入った。その景色は名前の言う花や虫や鳥が飛び交い、恋人たちが手を繋いで笑い合うような景色ではなかった。寂れた小さなビルが並び、後方は大きなビルで見えなくなっていて、近くに工場のようなものがありそこの煙突から絶えず黒い煙が出ているような景色―――見る角度は違うものの、確かにそれは俺が前に確かめた時に見た場所だった。俺はそれに絶句し、そして悟った。名前がいつも言っていた花や鳥の景色は、彼女の願いだったのだ。病院に閉じ込められ、そうじゃなければ死んでしまう。けれど外の世界が恋しかった。美しい花や鳥や恋人たち、名前は、それが見たくて、欲しくて、仕方なかった。だから俺に嘘をついたんだ。嘘をついて景色をごまかして、幸せな景色を、幸せな外の世界を、見て、そして、まるで自分もそこにいるような幸福を味わいたかった。それは名前のささやかで当たり前の願い。それに気づいた時、俺は涙を流していた。「う…」止まらなかった。どうして、どうして名前はこんな不幸でなくてはならなかったんだ?何故景色をごまかすだけのたったそれだけのちっぽけな幸せで満足しなきゃならなかったんだ?名前のベッドに手を置くと、名前の温かさが伝わって来るような気がしたのに、それは確かに冷たかった。もう、このベッドの主はいないから。俺はそこでようやく、名前が死んだのだと思った。


「まっ…待ってくれ…」


ぶわりと視界が歪んだ。涙が一気に滲み出てきて、シーツに染みができた。俺はベッドのシーツをぎゅっと握り締めて名前を名前を何度も呼んだ。けれど返事は返って来ない。俺は焦ってボロボロ泣きながら、ベッドに縋り付くようにしがみついた。


「行かないでくれよっ… なあっ!」


俺、まだ名前に言ってない。好きって伝えてない。なんでだ。なんでだなんでだなんでだ死んだ!?俺は、名前が、名前が好きだ、こんなにも。こんなに好きだ。俺は伝えてたくて、伝えたくて来たのに、待ってくれ、待ってくれよ、なあ、俺は、お前がいなきゃダメなんだ。行かないでくれよ。つい昨日まであんなに笑ってて…なんでだよ、なんで死んだんだ!待ってくれよ、行かないでくれよ…


「ひとりにしないでくれ…」


俺は子供みたいにわんわん泣いて、喉が涸れるまで名前の名前を叫んで、胸が張り裂けそうなほど名前を想った。
けれど名前がまたあのカーテン越しに笑うことも、泣くことも、嬉しがることも、俺に微笑みかけることも、帰ってくることも、もう二度となかった。





初恋は実らない/エイト
20120102