小説 | ナノ
「さっき部屋にスズメが入ってきたんだよ。すごく可愛いくて、エイトくんにも見せたかったけど逃がしちゃった。看護婦さんに見つかったら怒られちゃうから。(まったく…ちゃんと手は洗ったのか?)洗ったよぉ。でもほんとかわいかったんだよ?見せたかったなあ」
「今日外見たらね、女の人と男の人が手繋いで歩いてたんだ。恋人だったのかな?(そうだろうな。)だよね。いいなあ、わたしも早く退院して、あんなふうに手繋いで歩きたいよ」
「聞いて聞いて!今日花びらが入ってきたの。(花びら?)うん。外に花が咲いてるの。近くにキレーな公園があってね、たまに虫とか入って来るんだけど、今日は花びらが入ってきて… わたしお見舞い用の花以外あんまり見たことないから感動しちゃった。へへっ」


名前の病室に行くのがほぼ日課になっていった。最初トレイのお見舞いのついでだったのが、逆にトレイのお見舞いがついでになった。名前と話すのは楽しくて好きだった。名前と話している時の俺が俺だと強く感じられる気がした。
名前と話すことはたわいもない話だった。一番ポピュラーで多いのが名前の窓からの景色の話。ずっと見てて飽きないかと聞くと、名前は飽きないよと苦笑いを含んだ声を返してきた。それと俺の話もした。名前は俺の話ならなんでも喜んで聞いてくれるから、話していても楽しかった。今日は誰それと昼飯を食べたとか、その時話した会話がどうとか、部活に入ろうか悩んでるとか。名前は時に真剣になりながら話を聞いてくれる。俺はそれが嬉しかったが照れ臭くもあったから話を濁してしまったりした。ただ、なんでも話を話したり聞いてくれる名前も、話したくなさそうにする話題があった。ひとつは何故入院しているのか、という話題。一番最初に俺がそれを聞くと少し黙ってから「ちょっと病気で」としか言わなかった。今でもその話題を出すとあからさまに話を反らしてくる。俺は顔に怪我をしているという話も多分そうなんだろうと思ってなあえてなにも聞かなかった。まだもうひとつある。家族の話だ。俺はお見舞いに来る人がいないと言った名前に、家族は来ないのかと聞いたことがあった。名前は悲しそうな声で、ちょっと仕事が忙しいみたいで、と言いたくなさそうにした。俺は名前が言いたくないなら言わせたくなくてそれからこれらの話題は出さないようにした。あと名前には口癖と言ってもいい、俺と話す時にいつも必ず言う言葉があった。
「早く退院したいな」
これがそうだった。名前はいつもそう言う。俺は病気のことは名前が話したくないような話題だと知っているので、早く直ればいいなとしか言えなかった。
なんだかんだで名前と会ってから一ヶ月過ぎほど経った。俺はすっかり名前と仲良くなっていた。そして今日も学校の帰りに名前のところへ行き、いつものように何時間か話して帰ることにした。「じゃあまたな」いつもどおり俺はそう言って病室を出た。ドアを閉めてさあ帰るかと横を向くと、ひとりの医者が俺の隣に立っていて少し驚いた。そいつは眼鏡をかけていて、白衣を着ていたので一目で医者だとわかった。かっこいいとか可愛いとかそういうことにうとい俺だが、それでもわりとかっこいい方に入るんじゃないかというぐらいの美形だ。その医者は俺を見て、ん?と首をかしげた。


「確か君は…?あ、ああ悪い。僕はカヅサ。名前くんの担当医なんだ」
「ああ、名前の…」


一瞬名前の病気のこととか、家族のこととかを聞こうとしたがやめた。俺が知ったら名前が嫌がる気がしたからだ。


「ねぇ、君、もしかしてエイトくんかい?」
「あ、はい。そうですけど、なんで…?」
「やっぱりそうか… ああいやね、名前くんが良く君の話をするんだよ。友達が出来たってね」
「俺の?」
「ああ。けどやっぱり顔は…見せてないんだよね?」
「はい… 今でもカーテン越しです」
「そうか… でも最近仕事が忙しくて話し相手をしてあげられなかったから心配だったんだけど… 君がよく来てくれてるようで安心したよ。ありがとう」
「ああいえ、俺はなにも…」
「…それはそうと…エイトくん」
「?なんですか?」


医者もといカヅサが妙に深刻な顔をしてきた。俺は首をかしげた。なんなんだいったい?


「君は…その、聞いているのかい?名前のことを」
「名前のこと?」


俺はさらに首をかしげた。名前のことってなんだ?顔のこと… いや違うか。じゃあなんだ?俺が聞いていないだけか?カヅサは俺の様子を見て、納得したような顔をした。名前のことってなんなんだ?聞きたかったけど、聞いてはいけない気がした。俺が黙っているとカヅサが口を開いた。


「やっぱり聞いてないか… いや、気にしないでくれ。ああそうだエイトくん。名前くんとは、どんな話をするんだい?」
「どんなって… ええと、今日は名前が窓から虫とか花が入ってきた話とか、あとは俺の学校での話とか。いろいろ」
「花が…?」


カヅサは何故か一瞬怪訝な顔をしたが、俺が聞く前には普通の顔に戻っていた。カヅサはにこりと笑うと、「そろそろ検診の時間だから、今日は帰りなさい。また明日おいで」と言って名前の病室に入って行った。なんだったんだ…?俺は歩きながら考えた。名前のことってなんだ?名前になにがあるんだ?明日聞こうかと思ったが、なんとなく聞きづらい話題のような気がして考えるのをやめた。明日会った時言うか考えよう。俺は病院を出た。当たり前だが外は暖房の効いていた病院と違って寒い。吐いた息が白くて、それが名前と初めて会った日を思い出させた。懐かしい。あの頃は俺も戸惑っててあんまり名前と話さなかったな。歩いているとふと前から手を繋いだカップルが歩いて来るのが見えた。楽しそうに笑っている。ああそういえば、名前が羨ましいとか言っていたことを思い出した。スズメが入ってきたとか、虫や花が入ってきたとか―――(…?)待てよ、今は冬だ。スズメや虫や、花なんかが咲いてるのか?いやそんなはずはない。じゃあ名前は窓からいったい何を見ていたんだ…?俺は一応近くの公園まで歩いて行って辺りを見回したが、やはりスズメや虫や花は見当たらない。と、今度は名前の入院している病院が目に入った。俺ははっとした。名前のいる病室は病院の裏側あたりじゃなかったか?今度は俺は病院の裏側に移動した。名前の病室の窓が見える位置に。俺はその辺りの景色に絶句した。そこは寂れた小さなビルが並ぶ寂しげな場所だった。住宅もいくつか見えるが、人気もあまりない。少なくともカップルが好んでデートするようなところではなかった。名前は確か、窓からきれいな公園が見えるといっていなかったか?でも名前の窓から見える景色は、今俺が見ているこの寂しげな場所なはず。俺は名前の病室であろう窓を見上げた。カーテンがしまっていて中は見れないが、名前はあそこにいるのだろう。俺は目を細めるときびすを返して家に向かった。















翌日、名前といつもどおりに会っていつもどおり話をした。なにも知らないフリをした。


「…でさ、そのエースって奴がとんでもなく真面目なんだけど、結構抜けてるところがあってさ、この前なんか眼鏡かけたまま眼鏡失くしたどこだーっ騒いでたんだ。笑っちゃうよなあ、マジで」


名前は俺の話を聞いてクスクスと笑い声を発した。俺もふっと笑う。すると名前がクスクス笑いをやめて口を開いた。


「なんか、良いなあ。ていうか良くなったなあ」
「なんだ急に。なにがだ?」
「エイトくんとさ、仲良くなれて」
「俺と?」
「うん。最初はぎこちない感じだったけど、今は全然自分のこと話してくれてるから。なんか良いなあって。良くなったなあ」


なんとなく沈黙が流れた。今なら言えるかもしれない。俺は口を開いた。


「なあ、」
「ん?なに?」
「名前ってさ、なにかあるのか?」
「え?」


名前が動揺したのが、カーテン越しでもわかった。同調したようにカーテンが、名前の声がゆらりと揺れた。俺は続けた。


「カヅサ、っていう担当医に名前のことなにか知っているのかって聞かれたんだ」
「…そうなんだ」
「だから、名前ってなにかあるのかって思ったんだけど…」
「し、知らない。何にもないよ」


名前は動揺していた。声が震えていて、怖がっているようにも感じられた。俺はついでに窓から見える景色のことを聞こうとしたがやめた。名前を怖がらせたくなかった。またしばらくの沈黙。少し気まずくなってしまった。


「…ごめん」


俺はその空気に耐えられなくなって謝った。名前はなにも言わなかった。俺もそれ以上なにも言えなくて、病室を出ようと立ち上がった。「俺、帰るな」一応声をかけて病室を出ようとしたら、「待って!」名前の声に足を止めた。思わず振り返る。名前がベッドから身を乗り出しているのが影でわかった。俺が驚いていると名前が口を開いた。


「あ、あのね…」
「…ど、うした?」
「………ごめん。なんでもない」
「…そっか、」


俺はそっけない返事をしてしまった。沈黙。それ以上会話は続かない。明日から気まずくなるんだろうな。明日来るか少し考えながら「それじゃあな」と、俺はドアノブに手をかけようとした時、


「やっぱり待って!」


しゃっ、とカーテンが引かれる音が聞こえた。それと少しのきぬ擦れの音。俺がびっくりして振り向こうとすると、背中に軽い衝撃と温かさが感じられた。名前が背中に抱き着いて来たのだと気づくのに時間はかからなかった。それに気づいた瞬間、俺の心臓がぼんと跳ね上がった。体温も急上昇。慌てて振り向こうとしたけど名前ががっちりとしがみついていたので振り向こうにも振り向けなかった。心臓の音が名前に聞こえるんじゃないかってくらいにうるさい。


「っ…名前?なんだ、なんで、ど、どうした?」
「…あ、あの、待って、欲しくて」
「あ、ああ…ええと、その、待った、けど…」
「…ふふっ」
「な、なんだよ」
「だって、なんかエイトくんおかしい。いろいろ。面白い」


俺がこんなおかしいのはお前が抱き着いて来たからだ。俺もちょっと笑いながら「なんだよそれ」と言うと、背中の名前がふふふっと笑うのがわかった。


「…なあ」
「なぁに?」
「振り向いてもいいか?」


背中の名前が今度はびくりとしたのがわかった。ちょっと言い過ぎたかな… 名前はなにも言わない。俺は名前の反応を待った。しばしの沈黙の後、俺の腹回りを包んでいた名前の腕がするりと解けて、名前が静かに口を開いた。


「…いいよ」


ゆっくりと、振り向いた。多分10秒もかからなかったのだと思うが、俺にはずいぶん時間がかかった気がした。最初に視界に入ったのは名前の黒髪。見た瞬間ドキリとした。次に名前の顔を視界に入れた時、俺は目を見開いた。顔立ちとしてはごく普通の女の子のそれだったが、顎から右目にかけて、顔の3分の1が、酷い火傷の跡があった。くすんだ赤色の肌に囲まれた黒の瞳と、メラニン色素の薄い肌に囲まれた黒い瞳と目があった。それだけは真っ直ぐで凛としているように見えるが、表情自体は不安げに見えた。どこかさみしげにも感じる。
綺麗だ。俺は思った。名前の顔立ちとか、火傷のそれとかそれを綺麗と思ったのではなく、名前の表情、雰囲気、視線、感情、彼女のそういうものすべてが綺麗だと思った。凛としていても不安げで、つつけばぱらぱらとすぐに崩れてしまいそうなどこか儚げな、そんな美しさ。俺はいつの間にか見惚れていた。


「…やっぱり、気持ち悪い?」


はっとした。気がつくと名前の目は潤んでいて今にもこぼれそうだった。俺が唖然としていると、名前がばっと顔を手で覆った。火傷を隠すように。俺は胸がちりちりと痛くなったのを感じた。思わず拳を強く握りしめながら、慌てて名前に言った。


「名前違う!俺はそんなこと思ってない」
「嘘!いい、もういいよ…気持ち悪いもん…!」
「違う!名前は綺麗だ!」


思わず名前の肩を強く掴んで叫んでしまった。名前が驚いたように顔から手をどけた。大きく見開かれた、涙を溜めた黒い瞳と目が合う。俺は名前を抱きしめた。名前が息を呑んだのが聞こえたが、俺は構わず抱きしめた。俺は名前が泣いているのが、辛さを抱いていることが、たまらなかった。強く抱きしめる。すると名前がうっと唸ったのではっとした。


「エイトくん、苦しい…」
「あ、わ、悪い」


慌てて名前を放そうとしたら名前が待ってと言ってきたので一瞬どうすればいいかわからなる。すると名前が俺の背中に手を回してきた。


「ま、待って。あんま顔見られたくないから、このままでいい」


名前が抱きしめてくれたのはうれしかったけど、俺は名前が顔を見られたくないと言ったのが気になって名前を無理矢理俺から引っぺがした。「やっ、ちょ、まっ」抵抗して下を向く名前の顔を両手で掴むと、無理矢理俺の方を向けさせた。目がばっちりと合う。


「名前は気持ち悪くなんかない」
「うそだ…」
「ほんとだ。そんなこと思ってたら、その、抱きしめたりしない」
「……ほんとに?」
「ほんとだ」
「…エイトくん」
「なんだ?」
「ありがとう」


名前が俺の服を掴んだので、今度はそっと抱きしめた。名前も俺もなにも言わない。必然的に少しの沈黙が流れた。聞こえるのは俺と名前の息、それと病室の外から聞こえる少しの騒音。名前の体温が気持ち良い。名前に聞こえるんじゃないかってくらい心臓がどきどきとうるさかった。しばらくそのままでいると「ん」名前が息苦しくなったのか自然に少し離れた。ただ名前の肩に回した手はそのままだし、名前が俺の背中に回した手もそのままだ。名前が俺を見上げてきて、抱き合ったまま見つめ合った。
とても自然な行為だった。下心など皆無で、まるで磁石のように唇が触れ合った。触れるだけのキス。その瞬間だけは、この空間が俺達二人だけの世界で、永遠に感じられた。俺達二人しかいない。他に誰もいないような、そんな空間。そして柔らかな唇の感触が、まるでこの時間が永遠だと教えているように感じた。1、2、3。ふわり。たった3秒ほどで唇は離れてしまった。唇を離れると、ぱちりと名前と目が合った。名前はへへっと照れ笑いを浮かべ、俺もつられて照れ笑いを浮かべた。すると恥ずかしかったのか名前が俺の胸に顔を埋めてきた。


「…エイトくん」
「ん?」
「ホントはね、わたし…家族いないの。お母さんとお父さん、ずっと前に死んじゃったんだあ…」
「え…?」
「三人で車に乗ってて、事故にあって、車が、ガソリンが漏れて、でもわたしだけ助かったの。この火傷はそれのせい」
「…名前…」
「病院行って、怪我は治ったけど、わたしはもともと病気だったからそのまま入院したの。最初は辛かったけど、明るくするしかなかった。カヅサさん達に心配かけたくなかったし、もうわたしには、それしかなかったの。でも、寂しくて、苦しかったけど、でも、」
「もういい。もう、いい…」


俺はたまらなくなって名前を強く抱きしめた。
家族を失い、顔に火傷を受けて、人に会うのも医者しかいなくて、人恋しくて、悲しくて辛くて、でもひとりで抱え込むしかなくて、ずっとひとりで辛く感じていた名前が、俺は好きになっていた。この小さな女の子を守りたいと、心から思った。好きだ、好きだ、好きだ、大好きだ。生まれて初めての感情だった。人を愛するという気持ちを初めて実感した。もどかしいような、胸が締め付けられるような、ただ愛おしいと感じるこの感情が、人を愛するということなのだと。俺は名前を抱きしめる力を強くした。


「頑張ったな」
「…うぅ…」
「おつかれさま」


名前は糸が切れたようにわんわん泣きはじめた。俺は名前の頭を撫でながら、ただそれを見守っていた。