恋枯らし | ナノ
また雨が降った。といっても前みたいな本降りの雨ではなく、軽く降っているというそれだけの雨だ。傘をささずに歩いても平気そうなぐらいだ。ただ雨に濡れて帰ると、風邪をひく恐れがあった。試合が近いのでそれは避けたいな、と思う。未来に迎えに来てもらうという手もあるが、今未来も色々と忙しいらしいし、あまり迷惑をかけたくはなかった。だからと言ってこのまま雨が止むまでここで突っ立っているのもあれだし、やっぱり走るしないか。幸い俺の家はそんなに遠くない。多分風邪はひかないだろう。さーっと降る雨を見つめながら、俺が一歩踏み出した時、


「源田くん!」


振り向くとそこには小柄な少女が傘を片手に走ってくる姿が見えた。俺は少女の方に体を向けると、「どうしたんだ?」と声をかけた。走ってきたのか息切れをしている。彼女は息切れをして辛そうにしながらも、必死に返事をした。


「いまっ…上で源田くんがいるの見かけて…っ、走ってきたのっ…」
「何も走って来なくても…大丈夫か?」
「うん…」


俺は息を一生懸命整える彼女を見ながら、内心でどきどきしていた。何故だかわからないが、この子を見てるとなんだか不思議な気持ちになるのだ。彼女が必死に照れ隠しをしたり、笑っているところを見ると、複雑で、不思議な気持ちになる。…嘘だ。本当はこの気持ちを俺は、知ってるのだ。だけどそれは認めてはいけない気持ちだったし、ただ彼女が可愛いからそう思うだけだと思う。俺が世界で一番可愛いと、愛しいと思うのは未来だけ。さらに言えば、愛しく思えるのは世界で未来だけなのだ。きっと、いや絶対にそうだ。


「源田くん?」


話しかけられて、俺ははっと我に返った。深く考え事をしすぎて目の前の彼女の存在を忘れていたのだ。俺は慌てて返事をした。


「あ、ああ。なんだ?」
「あの……今日は…その…」


すると彼女はいきなりもじもじと、照れたような態度をとり始めた。何かを言おうとしているのだろうが、照れて言えないみたいな顔だ。言いにくいことなんだろうか。俺はそこで、デジャブを感じた。前にもこんなことがなかっただろうか。見てて胸がきゅんとなるようで、可愛らしい。確か、俺と彼女が初めて言葉を交わした時に、同じようなことがあった気がする。そこまで考えて俺はピンときた。もしかして、彼女はまた―――
俺が聞く前に、彼女の方から口を開いた。


「今日…源田くんの彼女は…?」


どうやら俺の推測は当たったようだ。彼女はあの日のように未来が俺を迎えに来るんじゃないかと思っているらしい。俺はくすっと笑うと、「今日は来ないよ」と彼女に伝えた。


「そっか。…あの、じゃあ、これ」
「え?」


一緒に入らないか聞いてくると思っていたのに、見当違いの事を言われて俺は思わず聞き返した。彼女はそんなことを聞くわけもないと言わんばかりに、持っていた傘を俺に差し出したのだ。ピンク色の乙女趣味の傘。俺が持つにはちょっとあれな傘だ。こんなものを使っているところを佐久間に見られたら死にたくなりそうな傘。それよりも俺は、何故この傘を彼女が俺に差し出したのがわからなかった。


「これは…?」
「これ、使って。わたし走って帰るから」
「い、いや、そんなの出来ない。無理だ」
「大丈夫。わたしの家近いから」
「いや、そういう問題じゃなくて…」


その後しばらく俺と彼女の傘の押し付け合いが続いた。「つ、使っていいって。わたし大丈夫だから」「いやその、男のプライドって奴もあるし」「そんなものより試合の方が大事だよ。試合、近いでしょ」そんな言い争いの合戦がちょっと長く続いたが、最終的には俺が折れた。いや、折れたというか俺が話をまとめたというか。


「じゃあわかった、一緒に入ろう」
「えっ?」


彼女の大きな目がさらに大きく開かれた。まさか言われると思わなかった、みたいな顔だ。「だめか?」俺が一声かけると彼女はハッとして、「だっ、だめだよっ」と必死に否定した。


「だって源田くん、彼女いるし…」
「大丈夫だ。話せばきっと未来だってわかってくれる。それに風邪をひくのは嫌だろ?」
「で、でも…」


彼女は最後まで抵抗していたが、最終的には俺の説得に折れて、俺と二人で帰ることになった。雨で濡れたアスファルトをふみしめながら、ひしひしと歩く。歩きながら、俺はさっき自分が言った言葉を思い出していた。「大丈夫だ。話せばきっと未来だってわかってくれる。それに風邪をひくのは嫌だろ?」半分本当で半分嘘だ。一緒に帰ろうと誘ったのは、確かに彼女が風邪を引くのを心配して言ったのもあるが、もう半分は実は下心だった。正直言って一緒に帰りたいという願望が一切なかったとは言い切れない。俺ってこんなに女好きだったのだろうか?それとも――
考え始めてすぐ、考えるのを止めた。こればかりは考えちゃいけない、結論を出してはいけないものだ。そんなことを思いながら黙々と帰り道を二人で歩いていると、ふと彼女が口を開いた。


「そういえば源田くん、家通り過ぎてない?」
「ああ、送ってくよ」
「ええっ。いいよ、大丈夫だよ。暗くないし」
「ここまで来たらもう遅いだろ」


俺の説得力ある説得に、彼女はあっさり折れた。「あ、ありがとう」「いや」俺たちはそれだけの小さなやりとりをすると、また黙りになってしまった。黙々と二人で濡れたアスファルトの上を歩く。俺は歩きながら、何か会話をしようと話題を考えていた。何がいいだろうか。趣味とか?いや微妙だな。なんて考えていると、前から白い光が俺たちを照らした。車だぷっぷー、という耳障りな音が響いた。瞬間、反射的に俺は隣にいた彼女の手を掴んで引き寄せた。「わっ」掴んで引き寄せて車を避けたのはいいが、反射的にしたことだったから力加減が出来ていなかったようだ。どうやら強く引き寄せすぎたようで、彼女が胸に飛び込んできたのだ。瞬間、どきっと心臓が跳ねた。


「ごっ…ごめんなさいっ」
「あ、いや、こっちこそごめん。強く引っ張りすぎた」


彼女が慌てて俺から離れる。「あっ、あの、源田くん…」「え?」俺は言われてからようやく、まだ彼女の手を掴んだままなことを思い出した。俺は慌ててパッと手を離す。


「ご、ごめん」
「ううん。いいの」


それからまた、さっきと同じように二人で歩き出した。ただちょっと違うのは、たどたどしくて、些細で、途切れ途切れな会話をしていることだ。雨音に書き消されそうな小さな会話。それでも俺には、その会話がとても意味のある大事な会話に思えたのだ。
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