「チャオ、お嬢さんの部屋から素敵な匂いがするね」 聞こえて来た軽やかなノック音に、大学の親友を思い浮かべながらドアを開けてしまった私が悪い。だけども、ドアの前に、変な服に、変なアイマスク、初対面の女性に対して馴れ馴れしい態度を取る見知らぬ男が立っているなんて、だれが想像するだろうか。どう考えても不審人物な男は、なんとも言えない、人を不愉快にするような表情を浮かべている。 「すみません、お引き取りください。」 私は笑顔を作り、開けたドアを閉めようとした、が、その不審人物が素早く足をドアに挟んで抵抗した。その素早い動きに一瞬気を取られ、私の力が緩んだところで、思い切りドアを引かれてしまった。 「きゃっ…」 「おっと。大丈夫かい?」 ドアノブを握っていた私は、その勢いに引っ張られ、バランスを崩した。そんな私を難なく受け止めた不審人物は、胡散臭い笑顔を浮かべて、私を案じているかのような言葉を口にする。 「気安く触らないでいただける?」 私が、思い切り不審人物の腕を払い退けると、彼は心底面白そうな表情を浮かべた。しかし、それは良い意味ではなく、人を小馬鹿にするような、そんな表情。 「君のこと、ディ・モールト気に入ったよ。」 いい母親になりそうだ、と続けて聞こえてきた気がして、私が聞き返そうとすると、彼はトカゲやヘビなどの爬虫類のようにスルリと私の部屋に入っていってしまうではないか。 「ちょっと!警察呼ぶわよ!」 「んー、それはやめてもらえるかい。ま、呼ばれても捕まらない自信があるけどね。」 それどころか、警察を呼んだはずの君の存在すらなかったことにもできるんだぜ。冗談にしては全然笑えないテンションでそんなことを言うものだから、私の背筋がゾクリと震えた。根拠はないけど、女の勘ってやつ?この不審人物は、本当にイっちゃってるやつなんじゃないか、と頭に浮かぶ。 「…冗談は貴方の態度だけにしてくれます?初対面の女性の部屋に無断で入るなんて、あなた本当にこのイタリアで育った男なの?」 それでも、この男に私が恐怖を抱いているなんて微塵も感じさせたくなくて、私は、変わらず皮肉をぶつける。その言葉を受け流しながら、不審人物は私のお気に入りのソファーにどかりと腰掛けた。その膝にはいつの間にか、パソコンのようなものが現れている。 この男は、人の部屋で仕事でも始めるつもりだろうかと、私が一歩近付くと、私の背後でオーブンが仕事を終えた音を響かせた。 この男に気を取られている間に、すっかりオーブンの中の私の好物、アップルパイのことを忘れていた。不審人物が開口一番に言った『素敵な匂い』というのも多分これのことだろう。アップルパイは、うちの母から教えてもらった私の自信の一品の一つだ。私の母も、祖母から教わったらしく、親子三代、受け継がれている味でもある。 「焦げてたら貴方のせいなんだから」 「おいおい、自分の腕が未熟なことを突然現れたオレのせいにするってのか?」 「そうよ」 「君は思った以上に素敵な女性だな!」 再び意味の分からないことを言う不審人物を無視して、アップルパイをオーブンから慎重に取り出してみると、生地がこんがりと綺麗に色づいて、ばっちりな焼き上がりだ。ふんわりと甘酸っぱい匂いが部屋に広がっていく。 その匂いに釣られたのか、いつの間にか不審人物が私の背後まで近寄って来ていた。 「アップルパイか……」 「ええそうよ。焼き上がりも見届けていただけたわけだし、そろそろ出てって。」 「知ってるかい?リンゴを囓った罪深い女性のことを。」 私の帰れ、という言葉を無視して、男は勝手に話を始めようとする。知らないわよ、と続けようとすると、ミトンを付けたままの私の両手を不審人物が勝手に取った。その力は強すぎず弱すぎず、だけど、さっきドアの前でしたようには振り払えない威圧感があった。 「女ってのは、いつもいつの時代も罪深い生き物だ。」 「……」 「まあ、この話はもういい。……ところで、君は何故、怪しい男が部屋に入っているのにヒステリックに叫ばない?何故そんなに冷静なんだ?」 少しばかり興味が湧いてきたなあ、と不気味に舌なめずりをした不審人物が顔を近づけてくる。さっきも思ったけれど、本当に爬虫類のような男だ。 「あ、その答えは、このアップルパイと紅茶を愉しみながら聞かせてもらうとするか」 図々しくテーブルに腰掛けた男が、今までの虫酸が走るような笑顔ではなく、まるで子供のような無邪気な笑顔で催促するものだから、私は毒気を抜かれてしまった。 「そういえば、貴方さっきのパソコンは?」 「ああ、今日はアレを使うのはやめることにしたよ。」 ___________________________ タイトル バイ さよならの惑星 |