おおよそのせまさ | ナノ
世界は狭い、
俺が生まれてからいままで生きてきた中でのあらゆる過程において、この目で見たものこの手で触れたものなにもかもすべてを受け入れることこそが人生だ。それらをちゃんと理解しているからこそ、俺は生きて、呼吸をして、毎日時間を浪費してちゃんと生きているという自覚がある。
それならばおれの普通とは言い難い人生は、何を以てして普通じゃないのかと問われればそれは結局のところよくわからなかった。
俺には当たり前の家庭があった、振り回すばかりで持て余すこの力を理解してくれる弟が居た、とりあえず中学も高校も卒業できた。これのどこが幸せじゃないなどと嘘がつけるものだろうか。
「俺が難しく言い訳を並べているのは武装でも虚勢でも何でもない。言わば人間としての必然だ。嫌いな食べ物なんかに嫌いになるべくしてなったそれ相応の理由があるように、そういうものなんだよ」
勘に触る独特の言い回しは、その音が耳に流れ込んで来るだけで自然と視界が狭まった。眉間には皺が寄る。おや怖い顔だねぇ、それでもこの声の主はいつだってそうやって、俺の全神経を逆なでする。全身の感覚を奮い立たせ、気分を害させ、最後はいつも耳障りな声だけがただ残る。
突っ立っているのは俺の家の玄関、ドアはつい先ほどあるのかないのかわからない重力によってぱたりと閉じられたところだった。どちらかと言えば狭く息苦しい空間は、一人でいるより二人の方がずっと狭い。
その相手が臨也だという要素が加わることにより、おれの不快指数は軽く五倍くらいは跳ねあがってしまう。伸びしろなどあってないようなものだ。際限を設ける必要などはどこにもない、こいつが相手ならば何もかもがその許容範囲などを呆気なく突破してしまうのだから。
「何の話だよ、つーかうるせぇしうぜぇ。なんなんだおまえ。誰の許可を得て入りやがった」
「許可?許可がいるの?じゃあお邪魔しますっていま言ったらそれでいいわけ?」
「いいわけねぇだろ空気読めノミ蟲野郎が」
「…ひどいなぁ」
目を細めて笑みを浮かべる臨也の表情が、いつもよりもほんの少し歪んで見えた。多分気のせいだろうと思い込むようにしてそれらごと妙な違和感は全て、この暗闇に溶けてしまえと頭の中から投げ捨てる。
遠ざけているつもりだった、しあわせになりたかったから。本気で殺すつもりだった、遠ざけるために穏やかで在るために。誰でもない自分のことだからこそ、何よりも忠実にこいつへの扱いを弁えてゆく。少しずつ、それでも着実に、おれは折原臨也という存在がこの世の何よりも大嫌いだったから。
臨也はわけがわからない。頭がいいのか悪いのかいかれているのかどうなのかそんなことは知ったこっちゃないが、突然として意味のわからない言葉をつらつらと捲し立てる。まるでそういう用途を目的として生み出されたロボットのようだ。
いまさっき言い出したやたらと偉そうな物言いも、元々その切欠を与えたのは臨也の方だった。帰って間もなくして部屋を訪ねてきたかと思えば、締め出してやろうと思った瞬間ドアの内側に滑り込んできやがった。まるで野良猫のような縦横無尽の振る舞いに、仕事で疲れ切っていたおれはただ苛立った。身体が怠いので殴る気も起きなかった。何しにきやがった、それだけ呟いたらどうしてか臨也は笑っていたけれど。
べつに。と、本当に微塵も面白くない返事におれの疲れはぐんと割増した。意味わかんねーよ帰れと告げれば嫌だと否定される。それはそれで正直戸惑ったのだけれど、そんな素振りを見せるのは癪だったので黙ったままでおまえは本当にいつも意味不明だ、と疲れ切った溜息に混じって吐き出した覚えがある。
今思うと、ここで死ねと一言告げて追い出してしまえば良かったのだ。酷く自らの行いにただただ後悔している。
「俺を殺すためになにが必要だと思う?」
「ああ?」
「標識とか自販機とかそういう品の無い回答はいらないよ」
しまった、割とまともに返事をしてしまったせいでまたタイミングを失ってしまった、と思った。臨也は相変わらずその口元をにやつかせながら、どうしてかそっと俺の手を取って自らの首元に引き寄せる。細い指先が、シャツから覗いているおれの手首に直に触れている感覚が不思議でたまらなかった。触るなと振り払いたいのにそれができない。
「あったかいでしょ。脈打ってるのわかる?」
「………なにが」
「シズちゃんの力なら物を強く掴む程度だろ?それでここを軽く捻って、そうしたら俺の息の音が止まる」
いつも下らないことばかりを並べる臨也の口から出た言葉としては、実にわかりやすく単純なやり方と説明だった。白い首筋は臨也の言う通りあたたかく、そっと触れた指の先っぽでとくとくと脈が小刻みに揺れている。すらりと長い首は細く、そう手に余ることなく掴み上げることができるだろう。
「俺はね」
「何だよ」
「わかった気がするんだ、きみが俺を殺せない理由が」
そんなわけあるかと、すぐさま否定してやりたいはずの言葉は口から出て来なかった。用意はできている、ただ言えないだけだ、息をふるわせ音として排出する方法を忘れてしまったかのように、細めた瞳のおく、そのもっとさらに奥の何かに捉われてしまったかのように視線すらも、逸らせない。
ならばせめてと、ぎゅっと首を掴もうとしたら、そっと触れる指先が軽く食い込む程度の情けない中途半端さに終わる。不思議なことだ、臨也の体温と俺の体温がいま、触れ合ったそこで鈍く溶けて混じり合ってまた新たな温度をそこに生み出している。それを確かに共有しているのだ。
きみも俺と同じことをすればいい、そうすれば嫌でもわかる。まるでおれと臨也の思考回路が同じかのような言い回しをされてしまって酷く不愉快だった。全くと言っていいほど違うし、おれは死んだってあんな風にはなりたくない。何せこの世で一番大嫌いなものだ、折原、臨也が。
ころす、殺す殺す殺す。いつしか呪詛のように唱えていた単語が、嫌いでいるための全てだったように感じていた。おれはこいつが嫌いだ。嫌いになるだけのことを今まで存分に仕出かされてきた、なるべくして嫌いになった。だから食べたくない、一緒だ。一緒だから、ああそうか。もしかして、だから。
(おれはこいつのことを一生殺せないのか)
嫌いという呪文が、まるで最初から意味など持っていなかったかのように瞬間的にするりとどこかに溶けてゆく。臨也はやっぱり笑っていた。ほんの少しどこかが引き攣ったお世辞にも綺麗とは言い難い笑みで。結局むかつくことには変わりないけれど。
あたたかく揺れる鼓動は確かにそこにあった。こいつも息をして、飯を食って、眠って生きている人間だ。かと言え折原臨也は変わりなくおれの一番嫌いなものである。
嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで、それなのに、殺すことはできなかった。しあわせなおれの人生は続くようで続かない。どうにもならないことはどうにもならない、殺せないものは殺せない。ただ、こいつのことを嫌いでいるしか方法がなかったのだ。