04 | ナノ




ぱしゃん、水音が響く。

次の瞬間にはもう、俺は頭のてっぺんから長い髪を伝った水が、そのまま垂れて床上に染みを作るのを確認した。冷たい、服を濡らした水分が少しずつ、それでも確実にじわじわと肌の熱を奪って行く。たかだかワイングラス一杯分の水とはいえ、それでもやはり水は水だ。雨じゃない。本来被るべきではないものが突然頭の上から振ってくれば、例え俺じゃなくても皆似たようなことを考えるだろう。


「どの面下げてこんなところまで来てんのよ、貧乏人の癖に!」


一昔前の少女漫画の悪役みたいな台詞が、大豪邸のパーティホールの入り口付近で響き渡る。いっそここまで来るとベタ過ぎて笑えるな。そう思うがままに口元をふっと緩めたら、それがいけなかったらしい。逆上した目の前の女は、今度は近くにあった花瓶を引っ掴み、それを勢いよく俺に向かって振り回した。

ぱしゃりと服がまた水に濡れ、綺麗な花はいっそ見事なまでに俺にぶつかって床上に散乱する。勿体ない、水は花にやるべきものであって人にぶちまけるものではないというのに。金持ちはそんなことすら親にしつけられていないのだろうか。

顔にぺとりとはりついた髪を手で分けて、ちらりと視線を上げて俺に水を掛けたその相手を見遣る。確か同じクラスの、普段から高飛車で自分の親が金持ちであることを、これでもかとひけらかしてはいる有名な一人だった。もちろん名前なんか憶えちゃいないけれど。

くるくるに巻かれた髪はアップスタイルに、メイクは歳の割に濃すぎやしないかと思ったが、身に纏った桜色のドレスはとてもうつくしい出来だった。似合っているいないの問題ではない、単体として惹かれただけの話だ。


「なによその目。言いたいことがあるなら言えば?」


伺うつもりだけだった視線が挑発的なものに受け取られてしまったらしく、彼女の眉間の皺はより一層深くなってしまった。しかし残念ながら俺には言いたいことなんてひとつも存在しない。言わば何もかもが彼女の言う通りだった。敢えて言うなら冷たいという、そんな感想のひとつくらいだろうか。

俺が今例えどんな言葉を口にしようと、彼女の耳に注がれるという時点でそれは何もかもが言い訳に相当する。何せ普段から俺が平和島静雄の周りをちょこまかと纏わりついているように見えているらしいので、その時点でもう何もかもが無駄だ。例えこのパーティホールもとい大広間がある家の息子、岸谷新羅から招かれたのだと言い張ろうとも。

女はねちっこい生き物だ。口先だけで十分に喧嘩ができるから、この場合負けだろうと何だろうと、火に油を注ぐよりは黙ってきんきん高い声を聞き流している方がよっぽどいい。

場違いはごもっともだった。何も綺麗に着飾っているのは俺の目の前の彼女だけではない。その周りを取り囲んで同じようにこちらに睨みをきかせている数人の取り巻き、それを更に遠巻きに眺めている学園の生徒もみな、こぞってどこぞの舞踏会にでも参加するようなきらびやかな装いだったからだ。

何がラフな格好で構わない、だ。それでも俺の手持ちの服の中では一番よそ行きと呼ぶにふさわしい服を着こんできたつもりだった。が、やはり金持ちとは話が合わないなぁと再確認する羽目になっただけの話である。

さっさと帰りなさいよ、吐き捨てた女が踵を返す。ふうと短い溜息を吐いて、一先ず俺も彼女たちが歩いて行った方向とは逆を向いて歩き出す。帰れと言われるなら帰るまでだ。別に来たくて来たわけじゃない。だから最初っから来なければいいだけの話だったと、その事にもっと早く気付くべきだったと一人後悔した。






だだっ広いエントランスを抜け、まるで城のような建物から何とか抜け出すと、今度は延々長い道が門の方向へと伸びている。ひたすらに歩き続ける最中も、二段階式でぶちまけられた水は時折ぽたぽたと俺の歩いた後の石畳の上に落ちていた。

黒いシフォンのワンピースは、独特のふわついた風合いなど今はほぼ皆無でしかない。べったりと身体の線にはりついてしまって、歩くたびにぺたぺた引っ付いたりして気持ちが悪い。不愉快だ、何もかもが理不尽すぎる。それでも不思議とそれ以上の怒りの感情が湧いてくることはなかった。

俺がこの学園に入ってから、こうすることが常日頃の日課と化してしまっていたから、今更どう思うよりも「またか」というこの一言に尽きる。そう、それをちゃんとわかっていたからこそ、何よりも自分に対して不愉快さを覚えた。幾ら口車に乗せられたからってこんな所にのこのこ顔を出すべきではなかったのだ。

薔薇のアーチを幾つか抜けた洋風の庭を抜け、現実世界との境目である門の姿がようやく見えてきた。しかし、足早に辿り着いたそこには黒塗りの長い車が一台。思わず足を止めて呆然とそこに立ちつくしていると、がちゃりと重そうなドアが開く。そこから姿を見せたのは、色んな意味で俺がこんなずぶ濡れになる羽目になった原因とも言えよう、あの平和島静雄だった。


「…何やってんだお前」


相も変わらずド派手な金髪に、その服装はいつもよりややカジュアルさの抜けた装いだった。身体にぴったりと沿ったスーツはどうせオートクチュールの類だろう。縦のラインを強調する細めのデザインのネクタイが、気に食わないほどすらりと長い背丈に似合っていた。


「帰るの、そこ退いてよ」

「はぁ?」

「見りゃわかるでしょ。服濡れたから帰る」

「何で雨も降ってねーのに濡れてんだよ」

「さぁ?仕掛けてあったスコールにでも降られたかな」

「…新羅の家にそんなもんあったか?」


天然な返しに思わずそんなわけあるか、と叫びたくなったが、色んな意味でもうどうだっていい。ここで鉢合わせたのは運が悪いが、後々来なかっただの何だのって勘違いされたってそれはまた面倒だ。確実に一度はこの家を訪れ、事故により帰宅せざるを得なくなった。それらをきちんと認識しては貰えるだろうから。


「とにかく俺帰るから。眼鏡には宜しく言っといて」

「おい」


呼び止められると同時にぱしりと腕を掴まれて、思わず通り過ぎかけた後ろを振りかえる。


「来い。帰るな」

「はぁ?だから見てわかんないわけ?俺ずぶ濡れなんだってば」

「いいから来い」

「…ってちょ、うわ!」


一際強く腕を引き上げられたかと思うと、ぐわんと一瞬で世界が反転し、身体は妙な浮遊感に包まれた。思わずぱちくりと目配せを繰り返す先には、余り見慣れないアングルでの平和島静雄の顔が映る。ちょうど首の辺りを下から覗き込んでいる、恐らくお姫様抱っこの体制だった。


「お、降ろして!」

「断る」

「服!服濡れるから降ろして!」

「うっせぇな!そんなことどうでも良いから黙って大人しくしてろ!じゃねぇとこのまま放り投げんぞ!」


俺の喚き声の上をゆく声量で怒鳴り付けられて、思わず腕の中でばたつかせていた足や手の動きがぴたりと止まる。どちらかと言えばそれが構わないから降ろしてくれと言いたいところだったけれど、妙な迫力に押されて俺は黙り込む他なくなってしまった。

ぐっと詰まらせたままだった息をようやく飲み下して、ゆらゆら浮いたような感覚に包まれたまま、視界には手入れの施された庭の景色が流れて行く。いまさっきそれらを見送って、ようやくここから出られると辿り着いたところだったのに。やっぱりこいつ、嫌いだ。




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結局また屋敷の中へと連れられて、人気のない廊下をずんずん我が者顔で進んで行くものだから、ひとまずそれに逆らうことなくただじっと大人しくしていた。
もしまたパーティのホールにこの状況のまま連れて行かれるのならば、流石の俺もそれこそ叩き付けられようと放り投げられようとしてでも、意地で平和島静雄のことを振り払っただろう。けれどそれは違ったようで、しばらく進んだのちに、一際大きな扉の前でぴたりとその足は立ち止まる。そしてふかふかの絨毯の上にそっと身体を降ろされた。靴が柔らかいそこにぎゅ、と沈む。

すると平和島静雄はそのドアを数回ノックし、向こうから返事もないのに「入るぞ」と一言告げてその扉を開いてしまった。

おいおい良いのか、幾ら世界に冠たる平和島グループの御曹司と言えど、仮にも他人の家だぞ。一般庶民の俺にはどう考えても不法侵入そのもので、妙にどきどきしながらそれでも部屋に入って行く後ろにそっと続く。そうして踏み込んだ空間は、見た事も無いような造りの内装だった。

元々白を基調とした屋敷ではあるが、それに加えてレトロさと洋風さが融合した、俺からしたらこの家そのものがまるで美術品のようだった。一等地にあるブランドショップのような間接照明に、ギリシャ神話の彫刻のような柱、それにきらびやかな家具の数々。学園にもこういった類のものはそう少なくないが、何と言うか、桁が違うということが素人目にもわかる。きっとこの屋敷の中でも特別な部屋なのだろう。


「なんだ、お前も居たのか」


平和島静雄がそう口にしたところで、俺は思わずはっと我に返った。よくよく見れば部屋の中には影がふたつ、直ぐにその片方が岸谷新羅だということが見て取れる。ええと、もう片方は、こちらに背を向けているためよくわからない。それでも華奢な背中にひらひらとした華やかなデザインのドレスを身に纏っているのが見受けられ、性別は女性だろうと判断することができる。


「何だとはなんだい。ここは僕の家だからね、どの部屋に居たって別におかしくはないだろ?」

「んなことわかってんだよ。つーかセルティ、いきなり悪いけどこいつにシャワーと服、貸してやってくれ」


笑いながら肩を竦めた岸谷新羅とは違う、もう一人の方に向かって平和島静雄が声を掛ける。すると細いシルエットはこちらを振り返り、不思議な色をした瞳と俺の瞳は、瞬間的にぶつかり合った。


「おや折原くん!いらっしゃ………ってあれ、びしょ濡れだね?どうしたんだい?」

「だから服貸せって言ってんじゃねーか」

「あれ、静雄。何だか君まで濡れ…………ふぅん、ははぁ、なーるほど」


白いスーツを身に纏った岸谷新羅が、俺と平和島静雄を交互に眺めて、不敵に笑いその首を縦に振り頷く。全てはお見通しだよと言わんばかりの表情が実に気に食わない。別にして欲しくて抱き上げられたわけでもなく、来たくてこの部屋に来たわけでもないのだから。あくまでも俺にとっては何もかもが不測の事故に過ぎない。


「にやにやしてんじゃねぇよこのメガネ」

「べつに?あとメガネはいつもだから。折原くん、こちらセルティ・ストゥルルソン。昨日言ってた僕の婚約者なんだ」

「……へ?あ、えっと、は、はじめまして…?」


唐突に隣の異国の人物をあっさりそんな風に紹介されて、与えられる情報の多さに思わず挨拶がしどろもどろになってしまう。だって聞いてない、外国人だなんて初耳だ。いやそれは俺の単なる思い込みなんだけれども、それにしたってこの場面は驚くのが普通だろう。


「僕たちはみんな幼馴染なんだ。セルティ、こちらは折原臨也くん。噂の彼女だよ」


ふわふわの柔らかそうな色素の薄い髪に、水色と緑が混じったような瞳が俺と平和島静雄、そして岸谷新羅を順に追ってぱちくりと瞬きを繰り返す。凄いな、肌も真っ白でまるで人形みたいだ。ぼけっと呆けたままそんな様子を眺めていたら、一際その瞳を大きく見開いた岸谷の婚約者は、突然勢いよく俺に詰め寄ってきた。

がしりと手を掴まれて、ぶんぶんと上下に振られる。瞳はこれでもかというほどきらきらと、まるで珍しいものでも眺める子どものように輝いていて、全く行動の意味がわからない俺は、思わず視線で岸谷新羅に助けを求めた。


「ははっ、良かったねーセルティ」

「え、いや、違う違う。良かったじゃない、なにこれ。なにこれちょっとどうにかして」


すると上下に振られていた手がようやく解放され、代わりに傍らにあった携帯端末を手に取り、白く細長い指先が興奮した様子でその画面を叩き出す。わけがわからないことだらけだったが、更にもっとわけがわからない。何なんだ、何なんだ一体。

ものの数秒でずい、とその端末を眼前に差し出されたので、俺は恐る恐るその画面をそっと覗き込む。


『噂の静雄のお気に入りだな!?初めまして!会えて嬉しいぞ!』


きっと何かこの意味不明な状況を打開する術が表示されていると思ったのに、ますますを以て俺の脳内は混乱した。思わず眉間に皺が寄ったけれど、目の前の外人は依然としてにこにこと上機嫌そうな様子で俺のことを見つめている。つられて笑いそうになることもなく、俺は首を捻りながらぼそりと小声で呟いた。




「………誰が誰のお気に入りだって?」







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