11 | ナノ
寝れるか畜生が。
今の俺の脳内を支配しているのは、そのたったひとつの単語だけだった。おやすみという呑気な言葉を残して今現在、臨也はすうすうと呑気に寝息を立て人にがっちりとしがみついたまま、深い眠りに落ちている。
床上は硬い、寝心地はぶっちゃけ最悪だ。それでも無駄な体力を浪費し言い合いを繰り返して、文句を言われながらベッドで眠るのはもっと御免だった。それなら多少寝心地がどうであれ、1週間なら何とか耐えられるだろうと思いそうしていたというのに。
そんな人の気を知ってか知らずか、いや実際知らねぇしこいつは何にも考えちゃいねーんだろうけど。
もう正直毛布や布団やらぐるぐるに色々なものが絡み合った状態で、寝る体制としては酷く不格好だ。それでもこいつは熱を得た瞬間まるで糸が切れたかのように眠り出してしまい、起きる気配は微塵もない。
始めこそ離れろだのなんだのって叫ぶ元気こそあったが、今はもう殆ど無気力に近い。返事がないので結果として虚しくなり、止めた。叫び損じゃねーか畜生。
(…よくこんな格好で寝れんな)
そこそこ面識はできたとはいえ、俺からしてもこいつからしても未だその間柄は他人と呼ぶにふさわしいものだ。友人ではない、絶対にない。
しかしそれだと俺はいま、見知らぬ他人と仲良く眠ってしまっていることになってしまうから、取り敢えずその位置付けは大目に見て知り合いだ。それなのにこの無防備さは如何なものかと、正直そんなことを思わないでもない。
足は自らのそれにがっちりと絡まされ、胸元に擦り付けられた頭はやたらと丸っこいように見える。こうしてまじまじとその姿を観察することは初めてだったから、いやに新鮮というか、何だか妙にそわそわと落ち着かない気持ちになった。
「………ん、」
鼻に抜けたような臨也の声に、どきりと小さく心臓が跳ねるのがわかった。もぞりと線の細い髪を更に人の胸元に押し付け、何度かその腕がまるで落ち着く場所を探す様に布団の中を彷徨う。やがてまた微動だにしなくなると、繰り返されるのは変わらず安らかな寝息だけだった。
脅かすんじゃねーよと思ったが、些か何かがおかしい。臨也は眠っている。はずなのにどうしてか落ち着かない鼓動がとくとくと先程から変化が見られないままだ。
じっとつむじを見つめても、埋められた頭からはその表情を伺うことすらできやしない。まともに見られる時なんてそうそうないのに、そう思った瞬間、しまったと後悔が頭を過った。
普段の腹立だしい笑いが混じったような表情なら、真正面から幾らでも見ることができる。そう、要は状況や場面に応じて見れない時があるということだ。やたらべたべた俺に触ってくるようなとき、やはり仕事柄なのかこいつはそういう雰囲気を孕んだ顔で俺のことを見上げて来る。それがはっきり言ってしまえば苦手だった。
鏡を見ずともきっと、今の自分はさぞ滑稽な表情をしているに違いないだろう。眉根の辺りにぎゅっと力を込めて、よからぬことを想像するなと拙い思考回路に必死に言い聞かせる。
ふわふわと漂うほんの少し甘い香りは、俺の家のシャンプーとは違うものだ。風呂に入った時に見慣れない小さめのボトルがあったから、きっとあれが原因なのだろう。
(あー………………寝れねぇ)
ふざけんな、くそ。言葉にならない言葉を一人心の中で呟き、それでも口に出す事はせず強引に瞳を閉じる。それでも眠気なんてものは一向にやって来ることはなくて、とてもじゃないが眠れる気はこれっぽっちもしなかった。
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「今日はまた随分と冴えない顔してるねぇ。どしたの?」
「………何でもねーよ」
手前の所為で眠れなかったんだよと吐き捨ててやりたいのは山々だったが、今の俺にはそんなことは後ろめたくて到底できた真似じゃない。力無く寝不足の掠れた声でそう返すのがやっとだった。重たい頭をふらふらさせながら何とか仕事を終え、帰り際に先輩のトムさんにも大丈夫か?なんて心配されてしまう始末だった。今日はきっと厄日だ。
「まぁいいんだけど、ふらふらしてて車とかに轢かれないよーにね。格好悪いよ」
「……誰が轢かれるか。馬鹿にすんな」
ああほら、帰宅早々こんな嫌味混じりの言葉を掛けて来るやつ相手に、どうして俺が余計な気を疲れさせなければならない。今の状況は理不尽だらけだ。それなのに相も変わらず慣れとは恐ろしいもので、いちいちその言葉に目くじらを立てる回数も減っている気がした。
シャツの首元を緩めて一息吐くと、ベッドに寄り掛かっていた臨也がゆっくりと立ち上がってじっとこちらを見つめる。なんだよ、顔を背けポケットの携帯や財布を机の上に放り投げながら答えた。
「おかえり」
不意打ちに掛けられた声に、ぴたりと一瞬そのままの体制で固まってしまった。臨也はほんの少し笑ってこちらを見つめて来る。別に考えずともその意図は、待っているのだと容易に判断することができた。
「…………ただいま」
そう、面倒臭かった。うるせーよとか声を荒げることも、無言で更に詰め寄られますます体力を浪費することも何もかも。だからできるだけそのまま普通に、何の問題もないようにと返したつもりだった。またからかわれようと何だろうと、それが多分一番ややこしくないと判断したつもりだ。
「ふふ、おかえり」
いまご飯の用意してあげるよ。しかし臨也は思いもしないほど穏やかに微笑んで、えらいえらいとか何とか言いつつあろうことか俺の頭を撫でて来た。そんなまるで子どもに与えるような真似をされてしまって、俺はぽかんとそのまま再び固まってしまう。ガキ扱いすんなとかそういう、お決まりの俊敏な反応を返すことすらできなかった。
風呂に入って食事を終えて、2日目の夜が訪れた。もう俺は今日こそベッドで眠ろうだなんてそんな淡い期待を抱く事すらしない。電気を消して自ら進んで床上に寝転がる。安っぽいうすっぺらな毛布を被って、適当にクッションを枕代わりにすれば眠ること自体は可能だった。今日はもうとにかく眠い、と言うか疲れている。少しでも身体を休めたかった。寒いなんて言わせるものか。
臨也も臨也で今日は大人しくベッドに潜りこんだので、良かったと隠れてほっと息を吐く。無理矢理狭いクローゼットをひっくり返して、見付けた毛布を追加してやった苦労はどうやら報われたようだ。
ベッドに背を向け、昨日よりややベッドに寄る格好で俺は真横に寝転がる。しんとした暗闇のなか、弟が定期的に差し入れてくれる目覚ましの秒針が刻む音だけがやたら耳に響く。
もう眠ったのだろうか。背を向けているからそんなことはわからない。知りたいのかと言われれば微妙なところだったけれど、落ち着かないのは結局のところ変わりなかった。
「…ねぇ」
ぴく、思わず目の前に放り出していた腕が揺れてしまった。ただ純粋に驚いたし、ましてや眠ったのだろうかなんて空気越しに気配を伺っていた最中に声を掛けられたのだ。無理もない。
「何だよ、こっち来るんじゃねぇぞ。毛布やったんだから寒くねーだろ」
「じゃあこっち来てよ」
「………はぁ?」
裏返ったような声が出てしまったが、今更そんな事を後悔しようと既に遅い。俺の動揺はあからさまに臨也に伝わってしまったろう。それでもそんな俺の反応を気に留めることもなく、臨也は続けて口を開く。
「一緒なら床でもベッドでもいいから、はやく」
「アホか、せめぇだろ。シングルに野郎二人で眠れるかっての」
「……じゃあ俺がそっち行く」
「は…?いや、ちょ」
布団を剥いで起き上がる臨也に、俺も焦ってその身を床上から起こす。ベッドの上に座り込んだ状態の臨也と、まだ目が慣れない暗闇の中で視線が合った。
「…寒くねぇんだろ」
「寒くないけど、じゃあ寒いから一緒に寝ようよ」
「じゃあって何だじゃあって」
「いいじゃん、寝てよ」
お願い。またどうせ笑いながらふざけつつそんなことを言っているのだろうと思いきや、臨也の顔は割と真面目そのもので、またほんの少し呆気に取られてしまった。しかしながら今の俺の不眠の原因は間違いなくこいつだ。そう思えばとてもじゃないが、はいそうですかとすんなり承諾してやるわけには行かない。
「一人で寝ろ」
「いいじゃん」
「寝ろ」
「やだ。一緒に寝て」
「………ガキか手前は」
ああくそ、このままじゃ拉致があかない。俺は勢いをつけて床上から立ち上がりベッドの上の臨也を見下ろす。ぽかんとした間の抜けた顔が俺を見上げる。
「どけ」
言っても碌にスペースを空けようとはしなかったので、そのまま強引にベッドの上に乗った。そんな俺の様子に臨也も状況を把握したのか、暫く考えるように視線を辺りに泳がせたあとでまたベッドに寝そべった。仰向けに天井を見上げて布団を被ると、昨日と同じように臨也がその身をまるで猫のようにすり寄せて来る。
「…引っ付くな」
「狭いんだから仕方ないじゃん」
「今すぐベットから叩き落としてやろうか」
じろりと睨み付けるような視線を送ろうと顔を横に向けたら、思っていたよりもずっと短い距離のあいだで目が合う。近ぇんだよ馬鹿が、そう言ってやろうと思ったのに、間近に迫っていた顔は更にその隙間を詰めて、唇の端に掠めるような口付けを落とされてしまった。
「おやすみのキス」
そう言ってふっと口元を緩めたような表情も、いつものからかうそれからは少し縁遠いもののように感じる。俺にフィルターが掛かってしまっているのか、こいつ自体が変化してしまったのかはよくわからないままだ。それでも咎めるより先にまたぎゅうとしがみ付かれてしまって、結局いつも通り俺は何も言う事ができない。
「昼はいいんだけど、夜に一人で眠るのってあんまり慣れてないんだよね」
「…ああ?」
「仕事柄眠るのは明け方になっちゃうからさ。だから暗い中眠るのってなんか苦手…」
だんだんと言葉の端の音が薄くなり、また昨日と同じようにすやすやと寝息が聞こえ出す。ちらりと伺い見た寝顔は、普段からは想像できないほど穏やかなものだった。
くしゃりと乱れた髪に指先を伸ばして、顔にかかっていたそれを少しだけ正してやる。やっぱりその黒は柔らかく、そして甘ったるい香りを漂わせていた。
今日も今日で落ち着かないが、それにしたって疲れている。自らのものではない体温を傍らに感じながら、瞳を閉じて臨也の穏やかな呼吸に自らの呼吸が重なって行くうち、意識はすっかりまどろみの中へと溶けて行ってしまった。