魔王退治と銘打たれた勇者との旅路には、常に危険が付き纏う。
 例えばそれは、金目の物欲しさに息を潜めて此方を窺う賊の類。


 「…もう良いぞ、そろそろ出て来たらどうだ?」

 勇者と魔王が水を確保する為に森の中へ消えて行ったことを確認してから、ロスは背後を一瞥する。声を掛けられた木々の影や茂みからは、何とも形容し難い声が何種類も漏れ出した。どうする、何故気付いたんだ等と声を潜めて遣り取りを交わす姿の見えない集団に、第一殺気がだだ漏れなんですよねと小さく溜息する。
 気付かれるとは露程も思っていなかったらしい山賊は、やがて一人二人と物陰から姿を現し始める。その表情はあからさまに動揺しており、獲物を握り締める手が小さく震えた。そんな彼らを前にした戦士はひい、ふう、みいと動かしていた指先を下ろし、はて、と首を傾げる。

 おかしいなと呟いて、戦士は足元に転がる手頃な小石をいくつか拾い上げる。
 何がおかしいのだろうか。今度は賊が首を捻る番である。しかしその瞬間、彼らの顔の横を一陣の風を纏った何かが突き抜けて行った。男達の背後――何かがガツンとぶつかり合う音と共に、茂みの中から「ギャッ」と小さな悲鳴が上がる。賊の一人が慌てて駆け寄れば、其処には頭から血を流して地に伏す仲間と、凶器になったらしい血まみれになった小石が転がっている。
 途端におお、クリーンヒットですねと嬉しそうな声が上がった。状況を察した男達が正面に向かうと、身の丈程もある大剣を背負う細身の戦士はその手の中で小石を弄びながら、
 「これで全部じゃないだろう。纏めて相手してやるから全員で掛かって来い」

 後々登場されても面倒だしな。
 その一言が落とされた瞬間、男達の瞳に殺意が宿った。同時に物陰から何人もの賊が現れる。ある者は短刀を、またある者は棍棒を手に、意味を成さない怒号を上げて一斉に戦士目掛けて突進する。殺意を向けられる張本人はと言うと、心底面倒臭そうに顔を顰めるだけだった。

 「――とっとと金目の物出した方が身の為だぜぇ兄ちゃん!!」
 「生憎、他人に恵んでやれる程金はないんですよ」

 うちの勇者さんは殆どモンスター討伐出来ていませんので。
 一番先に辿り着いた威勢の良い男が突き出すナイフを紙一重で躱し、その鳩尾に勢いを付けて膝を埋め込む。頽れる男には目もくれず、戦士は次々と繰り出される攻撃を躱しては重い一撃を入れて一人ひとりを倒していく。
 始めの勢いは何処へやら。既に十数人の屈強な男達をたった一人で地に這い蹲らせるその強さを前にして、次第に恐怖が伝染し、賊の中からは悲鳴が上がる。その上戦士は、あれだけの数を相手にしながら涼しい顔のまま、背中の獲物すら抜いていない。
 
 「なんだ……、何なんだお前は…――ぇぶっぅ!!?」

 顔面蒼白で金切り声を上げる男は、次の瞬間には地面に顔がめり込んでいた。
 ロスは既に気絶した賊の問い掛けを口の中だけで繰り返し、何だと言われてもですねと紅い瞳を眇めて、
 「俺はしがないただの戦士ですよ?」







 「……ば、」

 ――化物並みの強さだ。
 遂には腰を抜かしてしまう男の足元に飛んで来た石がめり込んだ。投げた張本人である戦士の掌の中でカチカチと音を立てる小石が彼らの恐怖を更に煽る。

 「取り敢えず死なない程度に手加減してるから、命に別状はないだろうよ」

 彼の手にあるのは獲物でも何でもない。ただの小石なのにも関わらず、賊は誰一人としてその場を動くことは出来なかった。戦士はそんな彼らを見下ろし、「でもまあ」と口を開く。その口元には冷ややかな笑みが浮かんでいた。

 「もしかすると――あんた達は手加減出来ないかもしれないな?」

 投下された爆弾に対し、わあぎゃあとパニックを起こした男達は、一足先に夢の国へ旅立ってしまった仲間を回収し、足を縺れさせながら逃げ出した。
 今度こそ一人になった戦士はふう、と一つ吐息する。

 千年前、クレアシオンとして旅をしていた頃にもこういった輩に絡まれることは度々あった。しかし当時と違って現在の自分はパーティーの一人として旅を続けている身であり、彼らを相手にする時はそれなりに気を回さなければならなくなった。
 一度は勇者に相手をさせることも考えたが、スライムという最弱モンスターにさえ苦戦を強いられている様子を見て、彼に任せるには少し荷が重すぎるだろうと思い直した。加えて今は少女の姿をした魔王を連れている為、如何せん足手纏いが二倍である。

 「…勇者さん達を追い払う嘘や理由もそろそろネタ切れして来たなあ」
 
 ロスは、毎度のことながら手間が掛かるものだと隠し持っていた携帯飲料を口に含み、襟巻きをたくし上げた。頭上を見遣れば、藍色のカーテンに小さな輝きがちらほらと見え始めている。
 勇者と魔王が森の奥に消えてからどのくらいの時間が経っただろう。近くに落ちていた枯れ枝を拾い集めて火を起こし、彼らの帰りが遅くなるのであれば今日の夕飯は自分が作っておくべきかと思い至る。
 手持ちの調理道具では凝った料理は出来ないだろう。加えて材料は鮮度の落ちた人参とじゃが芋くらいしかない。ロスは仕方なく松明を手に木の根元に生えた食用の茸を採り、自分の携帯飲料でその泥を落とした。材料をナイフで適当な大きさにカットし、十分熱したフライパンに投入する。
 暫く炒めて、塩胡椒で味付けする前に材料に火が通ったことを確認しようとして徐に人参の欠片を口の中に放り込む。

 「…、…?」

 何度か咀嚼してみて、ロスは首を捻る。
 何故だろう。人参の香りは鼻を抜けるのに、野菜独特の味がこれっぽっちもしないのだ。試しにじゃが芋も舌に乗せてみるが、此方もまた無味であった。単に味が薄いだけなのかと思い、塩胡椒を振ってみるが、変わらない。
 
 ――嫌な予感がする。

 フライパンを火に掛けたまま、塩の瓶を逆さまにして掌に振った。零れ落ちて来た白い粉を舌で舐め取ってみて、ロスは眉間に皺を刻む。



 ロスの舌は、何も感じなかった。









 結局その日は調理を中断し、夕食は鉄串に茸を刺して火で炙るだけになってしまった。帰って来た勇者を散々からかった後にそれを差し出せば、ツッコミに疲れ切ったらしい少年の「それもう加工法だよね」という声が上がる。
 まあこの際何でも良いよと茸に齧り付く勇者の隣で、同じく顎を動かしていたルキが何事か思い出したらしく「そうだ」と言って袖の中をごそごそと探った。彼女は袖の中から林檎を三つ取り出すと、さっき森で見付けたのだと無邪気に笑う。

 「おお、美味そう!」

 大きな赤い果実を前にした勇者は思わず歓声を上げた。彼は嬉々としてルキから二つ林檎を受け取ると、一つをロスに手渡して来る。ロスは「どうも」と短く返事をしてから、勇者達と同様に林檎に齧り付いてみた。しかし口の中に広がるのは果汁と思しきただの水と、その実と思しき固形物であった。
 何故、何の味も感じないのか。何の味も伝えて来ない舌にどう対処して良いやら分からず、ただ持て余した林檎を見つめていたロスに「どうしたー、戦士」と声が掛かる。ふと声のする方を見れば、勇者と魔王の二人が不思議そうな表情を浮かべて此方を窺っている。もしかしてあんまり美味しくなかったかと尋ねて来るルキに小さく首を横に振ったロスは、そんなに分かり易い顔をしていただろうかと眉を寄せた。まさか此処で味覚がなくなりましただのと言って二人に変に気を遣わせるようなこともないだろう。
 味覚がないくらいならどうとでもなる。
 そう思い直した戦士はわざと嫌味な笑顔を貼り付けて、口を開いたのだった。












 しかしロスは味覚がおかしくなってからと言うもの、物を食べては吐くを繰り返すようになった。水やスープといった液体なら未だしも、固形の食べ物は身体が一切受け付けなくなってしまったのだ。
 当初、自分のこれは所謂拒食症というものだろうかと考え、勇者達の目を盗んでは調べたものだったが、拒食症故に味覚がなくなったという事例は一向に見付からなかった。ロス自身、味がしない物を食べたいと思わないにしろ、体力保持の為に食べなければとは思うのだ。少しでも何かを食べなければ、この旅に支障が出るのは火を見るよりも明らかだ。せめて初代ルキメデスの封印を解こうとしている輩を一掃し、魔王にもう一度封印を掛け直すまでは、この身体がもって貰わなければ困る。

 試行錯誤した結果、足りないエネルギーは回復魔法の応用で補うことにした。あまり頂けたものではないが、何もしないよりは幾分マシである。
 しかし当面の問題は、共に旅をする勇者や魔王にどのような言い訳をすべきかであった。何かと理由を付けて食事に参加しなかったこともあったが、それも長くは使えない。やむを得ず彼らと食事を摂るパフォーマンスを取ってはみるが、勿論彼らと同じだけの物を食べられる訳もなく、極端に食べる量を減らすことになった。しかし城を発ってからの付き合いになる勇者には、どうやらそれが不審に思われたらしい。いつだったか、「何か最近すげぇ量が少ないけど、お前ちゃんと食べてんの?」と突っ込まれたことがあった。
 うちの勇者はただの馬鹿という訳でもないらしい。戦士は内心ぎくりとするが、表面上は平静を保ったまま「俺は勇者さんより燃費が良いんですよ」と一蹴してやった。そうすれば、勇者はうぐぐと唸り声を上げるだけだった。恐らくこれ以上追及すれば、手痛い仕返しが来ると予測したのだろう。彼にしては懸命な判断だと思う傍ら、毎日よくもまあコロコロと表情が変わるものだと口端に自然と笑みが浮かんだものだ。




 そんなある日、ロス達は情報収集と道具の調達も兼ねて立ち寄った港町の安宿を借りることになった。
 勇者をモンスターとの戦闘に慣れさせる為に戦士が殆ど手を出していないこともあり、モンスター討伐による資金調達は捗っていない。言わずもがな路銀の手持ちは少なく、利用出来る宿も限られている。それでも彼らを付け狙う輩を追い払う際に頂戴した金をこっそり路銀の足しにしている為、寝床を確保出来るくらいの額にはなっている。
 その日の夕食は、宿の受付嬢から聞いた居酒屋で摂ることにした。ロスを除く二人は成長期と食べ盛りらしいメニューを選び、美味そうに出来立ての料理を頬張った。対する戦士はそんな彼らの様子を観察しながら、注文した豆スープをスプーンでゆっくりと混ぜている。始めから味がしないと分かっている以上、どうにも食べる気にはならなかった。

 「…お前、それだけで本当に足りるのかよ?」

 ふと、前方から上がった声に落としていた視線を上げれば、勇者がよく焼けたパンに齧り付きながら此方を見つめていた。中々噛み切れない辺り、相当硬く焼いたパンなのだろう。ロスは一度手を止めて其方を見遣り、
 「ええ、足りますよ。俺は勇者さんと違って年がら年中ツッコんでいないので、無駄な体力使ってないんですよ」
 「誰の所為だと思っとるんじゃあああああああ!!」

 激しくツッコミを入れながらも全く視線を逸らさない勇者を前にして、一口も手を付けないのは不自然かと思い、仕方なく戦士はスプーンを動かしてスープを口に運び始める。

 相変わらず、豆もスープも味がしなかった。










 その夜、戦士は微かな物音を耳にして目を覚ました。
 隣に視線を遣れば、ベッドで眠っていた筈の勇者の姿がなかった。ついでに枕元の水筒も消えていることから、彼の行方は容易に想像がついた。周囲に妙な気配がないことを確認し、放って置いても大丈夫だろうと結論を出す。
 戦士はもう一眠りしようと寝返りを打った所で、突然胃袋がキュウと伸縮し、何とも言えない酸っぱい唾液が喉元までせり上がって来るのを感じた。あ、これはまずいかもしれない。嫌な汗を掻きつつ吐き出してしまわないよう口元を手で覆ってベッドから下りる。出来得る限り足音を殺して階段を下りると、廊下の一番奥にあった便所に駆け込んだ。

 「――…ぅ、えっ……!」

 元から空っぽの胃からは、消化液しか出て来ない。鼻につく嫌な臭いと生理的に滲み出る涙。吐き出しても吐き出してももう何も出て来ないというのに、反射運動は止まらない。
 そうして少し落ち着いて来た頃に、ロスはふと自分の腕に目を留めた。武器を振るうのに必要最低限の筋肉は辛うじて残っているものの、少しあった筈の肉はこの数週間で殆ど落ちてしまったと言って良い。以前よりやや骨張ってしまった二の腕を擦り、参ったなと呟く。いよいよ気分の悪さが最高潮に達し、狭い個室にずるずると座り込んで目を閉じた。暗闇の中、何処か遠くの方で声が聞こえたような気がしたが、気に掛ける余裕は今の戦士にはない。

 「…、っ」

 すると不意に身体が後ろに引っ張られた。身体に力が入らないロスは、嗚呼このままでは頭を打つかなとぼんやり思うが、何者かに頭と肩をしっかり支えられた為、その危険は免れたらしかった。何度か繰り返し呼び掛けられる内、その声に何処か聞き覚えがあるような気がして重い瞼を持ち上げる。次第にクリアになっていく視界に映り込んだのは、顔面を蒼白にした勇者の姿であった。
 どうして、何でこんな時に。色々と言いたいことはあるものの、全ては意味を成さずに吐息として唇から漏れ出すだけだ。辛うじてゆうしゃさん、と呼び掛ければ幾分か安心したらしい勇者が若干顔を綻ばせて此方を覗き込んで来る。

 「どうしたんだよお前、…体調でも悪かったのか?」
 「へ、いきです…。直ぐ、収ま…るんで、放って……置いてく、ださい」

 出て行け、と暗に言われたことが不服だったらしい勇者は一瞬表情を顰めたものの、ふと何かに気付いたように口を開いた。

 「直ぐ収まるって…、もしかして、こういうことよくあるのか?」

 核心を突かれ、戦士はああ墓穴を掘ったなと盛大に顔を顰めた。
 さて、これからどうしたものか。コンディションが最悪なこの状況で隠し通せるかどうか怪しいものだ。徐々に戻り始めた思考を巡らせながらロスは取り敢えず「煩いですもうどっか行ってください」と言って勇者の腕を振り払おうとした。普段ならば何処かしらにヒットして勇者が悶絶する流れだが、今回はそうも行かなかったらしい。あっさり捕まえられた腕に戦士が驚く前に、目の前の勇者が小さく息を呑む音を聞いた。

 「…戦士、」
 「止めてください、」

 慎重に言葉を選ぼうとしている勇者が内心で何を考えているか。そんなことは、ロス自身がよく知っていた。
 掴まれた腕は一向に解かれない。それどころか腕を掴む手の力が強くなり、戦士はじろりと勇者を睨め付けた。しかし相手は戦士の視線に怯むことなく、ただ真っ直ぐ此方を見つめて来るだけだった。

 「なあ、まさか食事量が極端に少ないのは、全部吐いてるからなのか…?」
 「……」
 「ロス、」

 普段は呼ばない癖に、どうしてこんな時だけ呼ぶのだろう。
 まるで自分を追い立てるように言葉を並べる勇者。しかしその声色は、自分を責めているものでは決してない。顔を上げれば強い光を宿したブラウンの瞳と目が合った。しばしの沈黙が周囲を包む中、ロスはどうして貴方はこういう時だけ妙に鋭いんでしょうねと吐息して、
 「そういうのはモンスターとの戦闘にでも生かしておいてくださいよ」

 試しに冗談めかして言ってはみたが、勇者はちっとも揺らがない。怒るどころか煩いなあと小さく笑って、ロスを真っ直ぐ見つめるだけだった。

 そろそろ、潮時だろうか。











 打ち明けるにしても、あんな場所では誰に聞かれるやら分かったものではない。

 
 取り敢えず外に出ましょうと提案し、戦士は勇者と連れ立って宿を後にした。真夜中の市街を通り抜け、暫く歩いた先の船着場で戦士と勇者は腰を落ち着ける。
 其処で取り敢えずは現在の状況を説明しなければならないだろうと思い、勇者にも分かるように言葉を選びながら話していたが、話せば話す程彼の顔色は悪くなるばかりだった。まるで今まさに自分の身に起こっているような反応を示す勇者を見て、理解出来ないものだと戦士は眉を顰める。
 最終的には病院に行こうとまで言い出す勇者に、とうとう戦士は「何を一人で盛り上がってるんですか」と呆れ返ってしまった。

 「味覚がなくなることなんて、別に大した問題じゃないんですからそんなピーピー喚かないでください」

 勇者は栄養を摂取出来ない危険性のことを言いたいのだろうか。
 味がなくなってから身体が食べ物を受け付けてくれなくなったのは事実だが、栄養補給については回復魔法を応用して最低基準程度には取り入れることが出来ている。確かに現在の自分では十分な魔力を解放出来ない為、高度な魔法操作は出来ないが。

 顔を強ばらせて絶句するうちの勇者は、お人好しな上に心配性だ。戦士は彼を安心させようとして、食べられなくても栄養補給の面では問題がないことを告げてみた所、「何言ってんだっ!!!」と突然怒鳴り声を上げられる。
 驚きに目を見張れば、勇者は「巫山戯るなよ」ときつく拳を握り締め、
 「味が分からないってことはこれから先、何を食べても飲んでも、お前だけ何も感じないってことだろ?!」
 そんなの絶対に嫌だ!
 「今までみたいに、お前にはボクやルキが食べたり飲んだりしたものを一緒に感じて欲しいし、共有したい。食べ物だけじゃなくて、景色でも何でも……お前と見て、聞いて、分け合って行きたいんだよ!」

 だからそんな風に、何でもないことみたいに言うな!

 「――勇者さん…、貴方、やっぱり馬鹿でしょう」

 鼻息も荒く一息で吐き出された怒りは、ただただ戦士を混乱させた。それでも真っ白な思考で何か言わなければと思う戦士の口から飛び出したのは、心にもない一言だった。当たり前ではあるが、彼にしてみれば想像もしなかった反応だったのだろう。薄ら瞳に滲んでいた涙は見事に引っ込み、代わりに顔を真っ赤に蒸気させた勇者は「馬鹿とは何だ」と叫ぶ。
 それを適当にあしらう振りをするロスの心は、依然としてぐちゃぐちゃに掻き乱されたまま、収拾の目処が立っていなかった。
 どうして、そんなことを言うのだ。

 「ったく、…もう良いよ。て言うか、兎に角、明日は絶対病院に連れて行くからな!」
 「えー」
 「えー、じゃありません! 勇者の決定だから絶対な!」
 「うわー何ですかそれこんな時だけ職権使うんですか、勇者さんそれは職権乱用ですよそんなんだからモテないんですよ」
 「喧しい!」

 余計なお世話だと言ってずかずか大股で歩き出した勇者の背中が小さくなっても、戦士はその顔に彼に対して使っていた嫌味たらしい笑みを貼り付けたままで居た。顔の筋肉が硬直して、上手く元に戻らない。

 「……からかわれて怒っても、結局病院に行くことは決定事項なんですね」

 バクバクと煩い心臓を押さえ込むようにして、戦士はシャツの胸元を掴んだ。その時吹いた強い風が、彼の襟巻きを飛ばそうと画策するが、戦士の手によってあっさり阻まれる。

 「ばかですよ、」

 どうして貴方は、そんなに優しいんですか。
 びゅうびゅうと吹き抜ける風の中、今にも消え入りそうな声が落とされる。

 「馬鹿です、…貴方は…」

 馬鹿だし、とんでもなく酷い人だ。
 どうしてたった数ヶ月前に会ったばかりの他人にそんな言葉を掛けるんですか。特に彼の中にある自分の印象は少なくとも良いものではないと自負しているのに。
 無理矢理引き上げた襟巻きに掛かる息が、異常に熱い。

 千年後の現代で目を覚ましたあの日、自分がこれから何をすべきなのかを悟った時から、再び永遠の中に戻る心の準備は出来ていた。
 いつか訪れる終焉を独りで迎える準備だって出来ていた。
 そうしてまた永い眠りにつくのなら、味覚がなくなろうがどうしようが関係ないことだと思っていたのに。

 『これから先、何を食べても飲んでも、お前だけ何も感じないってことだろ?!』
 『景色でも何でも……お前と見て、聞いて、分け合って行きたいんだよ!』

 ――これから先、なんてそんなことを言われたら。





 「――此処に居ても良いんだと、勘違いしてしまうじゃないですか…」

 これからもこうして、軽口を叩いては勇者がツッコミを入れて魔王がフォローにもならないフォローを入れる、そんな他愛のない日々を。下らないことで笑い合える、そんな日々を。

 「勇者さん、あなたはひどいひとだ」

 世界平和もルキメデスのことも、はたまた自らが背負うと決めた咎さえも忘れて、この世界で生きられたなら。いつまでもこうして三人で旅を続けられたなら。
 そんな、我ながら馬鹿げた夢を思い描いてしまう。

 (俺にはそんな権利もないのに、)

 ぎゅう、と紅色の布に顔を押し付け、ロスは固く目を閉じた。
 初めこそはただ面白そうだからという理由だけで彼とパーティーを組むことにしたが、「ロス」として彼らと仮初めの日常を送る内に、いつの間にかそのお遊戯が本物になっていった。
 唯一の肉親に親友を奪われ、故郷を失った自分には、もう何もないと思っていた。だからこそそれなりに無茶もしたし、時には死にかけたこともあった。それでもクレアシオンとして進み続けることが出来た。
 何故なら彼には、何も顧みるものがなかったからだ。

 それなのに此処に来て。


 「ゆうしゃさん、」

 戦士は――勇者・クレアシオンは、他の誰でもないアルバのことを「勇者」と呼ぶ。
 一時的な休息のつもりだったのだ。千年前に旅をしていた頃は、ただルキメデスを追い回してばかりいた為に、会話らしい会話と言えば情報収集をしたり宿を借りたりする時くらいなものだった。だからだろうか。
 王宮戦士としてまともに他人に関わるようになってから、いつか訪れる終焉を忘れて45番目の勇者と軽口を叩き合うことが楽しくて仕様がなかった。

 「…ゆうしゃさん」

 願わくば、平穏な毎日をもう少しでも長く。

 「馬鹿らしい願いだって…、…下らないって言って、笑ってくださいよ…」

 そんな戯言は、誰の耳にも届かない。じわりじわりと生暖かい水が、紅色の布に染みを作る。
 世界の安寧を願い、戦うべき伝説の勇者。
 千年の内に伝説になってしまったクレアシオンは、まるで他人のように思われた。
 お伽話に登場するクレアシオンと違って、本物はそんなに出来た人間ではないと言うのに。

 ――クレアシオン。勇者。どうか貴方様のお力で、我々を助けてください。どうか。クレアシオン。

 縋られて、大きな期待を寄せられて、千年前の少年はただただ藻掻き苦しんでいた。



 「……たすけて、…」

 それは戦士でもなければ伝説の勇者でもない、ちっぽけな一人の青年の願いであった。











 *



 そうは願えど、カーテンコールはいとも容易く鳴り響く。
 魔力を最大限まで引き上げると同時に、左腕の装甲が弾け飛ぶ。あーあ、高かったのになあこれ等と場違いなことを考えた。
 14番と45番目の勇者の時を操作し、彼らが無傷で済む地点で再び「現在」を開始する。自分の勇者が無事なことを確認してから、クレアシオンはディツェンバーを睨み付けた。ルキの歓声が上がると同時に前方の男の口からも高らかな笑い声が飛び出した。一方、五体満足で目を瞬かせる勇者は、現在自分が置かれている状況を把握出来ていないようだ。
 それもそうだろう。自分が無理矢理彼の時間に介入して、彼が真っ二つにされる直前まで時を逆流させたのだから。もしかすると、勇者にとっては一瞬の出来事だったかもしれない。



 そして、解放したばかりの魔力は匙加減が難しい。最近は勇者を小突くことばかりしていた所為か、妙に肩の力を抜いて魔力を固めてしまった。目の前には激しい痛みに悶え苦しむディツェンバーの姿がある。
 もうこれ以上奴に喋らせまいと思ったのだが、やはりもう少し慣らす必要があるようだ。慣らすついでにご所望の初代魔王を登場させてやれば、ディツェンバーはあからさまに動揺した。正直な所、相手の能力も魔力を解放することで及ぶであろう世界への影響も、はたまた魔王の封印が解けることも、何一つクレアシオンは恐れていなかった。
 ただ一つ、自分に迷いがあったのだとしたら。


 「――そうだな、最初から迷う権利なんかなかったんだ」
 
 押し込めていた魔力のことも、自分の正体も、他者の介入により削ぎ落とされてはこの身に降り掛かる。45番目の勇者が呆然と視線を投げ掛けて来るのを感じ取ったクレアシオンは、軽く唇を噛んだ。
 大丈夫だ、未だ、やれる。

 今回は、他人と関わったが故に少し大切なものを作り過ぎたのだ。自分の所為で他者の命を危険に晒し、死に至らしめたこの結果が、その罪深さを物語っている。
 だから、もうこれからは、こんなことにならないようにより強固な封印をルキメデスに掛けよう。奴も自分も、再び目覚めてしまわないように。

 さあ、黒幕を倒してこの魔王を封印すればハッピーエンドだ。
 そうして自分も再び永い眠りにつき、伝説の勇者は今度こそただの伝説になる。お伽話に登場するらしい自分は、この世に存在してはいけないのだ。
 第一、こんな思いをするような勇者は、自分だけで十分だ。


 だからせめて貴方だけは、

 「自分で勝手に勇者になってくださいよ。…大丈夫、出来ますって」

 誰にも束縛されない、自由な勇者になって欲しい。

 「――頑張れよ、アルバ」

 
 相変わらず何も感じない舌ではあるが、なくなったのが視力や聴覚でなくて良かったとつくづく思う。

 (最後に見た貴方の顔が、笑っていないのが心残りでしたが)


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