冒険には野宿が必須である。現実はゲームと違って過酷なもので、都合良くフィールドマップを出て十歩先に村や町がある訳ではない。時々出会す卸売業者の馬車に同席させてもらったり、自分の馬があったりしない限り、大半の旅人は自分の足で世界を巡っている。アルバ達一行もその口であり、毎日自分自身の身体を駆使して目的地に向かっていた。

 「よーし、じゃあ此処ら辺で休むか!」
 太陽が大きく西へ傾き始めた頃。アルバは手頃な大木を見付けると、その根元にどっかと腰を下ろした。ルキは「さんせーい!」と声を高く上げてアルバの右隣を陣取った。
 青年二人に比べると十歳の少女にとっては何倍も長く険しい道程だっただろう。よく此処まで弱音を吐かずについて来たものだと心の内だけで称賛し、ロスは携帯飲料を彼女に手渡した。

 「わーい! ありがとう、ロスさん!」
 「戦士ぃ、ボクには?」
 「ルキの分で終わりなんで、勇者さんは自分の唾液でも摂取しておいてください。」
 「酷い!」

 そんな応酬を繰り返している内に、ルキが「お水なくなったー」と空っぽになった水筒を差し出して来る。ロスはそれを受け取ると、「では勇者さん」と言って水筒をバケツリレーの要領でアルバに手渡した。その意図を測り兼ねたアルバは「なにこれ」と首を傾げる。

 「水汲んで来てください。ダッシュで」
 「何でボク?!」
 「水が欲しかったんですよね? その水筒差し上げますので」
 「いや、まあそりゃ欲しいけど、」

 正直な所、水は欲しい。しかしアルバは、至極当然のように自分に水筒が押し付けられて水を汲んで来いと命令されて、ハイ分かりましたと動く人間ではない。このまますごすごと水を汲みに行けば、戦士の思う壺である。
 うぐぐ、と言い淀むアルバに対し、ロスはハッとしたように声を上げた。

 「あっ、もしかして僅かに残った水滴に混ざっているルキの唾液をペロペロしたかったんですか? ロリプニ好きな勇者さんらしい考えですね! 豚箱に入れられた方が良いんじゃないですか!」
 「何処ぞのロリ魂戦士を彷彿とさせるような言い方しないでくれる?! ルキもそんな目でボクを見ない! ああもう分かったよ! 汲んでくれば良いんだろ!!」

 既に干上がっている筈の喉から投げ付けられるツッコミの勢いは落ちていない。アルバは結局口では(口でも、だが)ロスに勝てないことを知っている為、渋々といった風に水筒を片手に踵を返した。

 「あ、ちょっと待ってください勇者さーん」
 「何?」
 「やっぱ『一人で出来ないもん』な勇者さんだけだと不安なんでルキも付けます」
 「一人で出来るもんんんんん!!!!!」

 今日も今日とて、勇者の叫びが地上に響き渡る。







 「行ってきまーす」

 両腕を大きく振ってから歩き出すルキに向けて、ロスはひらりと手を振り返してやる。

 「迷子にならないように気を付けてくださいね。後、勇者さんは木の根に足引っかけてダイブ&ローリングして森の生き物に迷惑を掛けないでくださいね」
 「ボクへの気遣いは!?」
 「何で俺が勇者さんを気遣わなきゃいけないんですか」
 「もう良いよっ!」

 ツッコミも程々に歩き始める勇者の背中に「ツッコミを放棄したら勇者さんのアイデンティティがなくなりますよ」と声を掛けると、煩い! と今にも泣き出しそうな声が返って来る。
 彼らが木々の間に消えていくのを見送った後、戦士は先程まで貼り付けていた笑みを消し、背後を振り返り見た。紅色の襟巻を口元まで引き上げ、小さく吐息する。

 「――さて、勇者さん達が帰って来る前に片付けておくか」











 
 「アルバさんアルバさん、こっちの方から水の流れる音が聞こえるよ!」
 「ルキ、慌てて走ると転ぶぞー」

 ぱたぱたと森の中を駆け回るルキを言葉だけで諫めながら、アルバはひっそりと溜息した。
 水を汲んで来いと言われたものの、今まで通って来た道に川は見当たらなかった。彼女の言う通り川が見付かったとしても、それが飲めるものかどうかは実際に口にしてみないと分からない。第一、何故自分とルキに水汲みをさせておいて戦士はのんびり留守番なのだろう。いっそのことパーティー全員で探せば、手間も掛からず飲み水が確保出来るのではないだろうか。
 城を出発して暫く経ってから気付いたが、戦士のアルバに対する接し方は凡そ彼が思い描いていた勇者の扱いとは程遠いものであった。元々体力もなく勉強もそこそこしか出来ず、山奥で育ち、友人も殆ど居ない自分があの伝説の勇者・クレアシオンのような男になることが出来ないのだとしても、もう少し違った接し方があるだろう。勇者でなくとも、人として。
 勿論、ロスの挙動がアルバに対する悪意から来るものでないことは知っている。ただ、彼は純粋にアルバをからかうことを楽しんでいる。短剣で腰を刺されたり食事に薬を盛られたりしているが、当然彼は本気でアルバを殺そうとしているのではない。アルバの反応を見て、「ああ、すみません」と悪戯っ子のような笑みを浮かべて辛辣な言葉で煽って来るだけなのだ。性質が悪い。

 「やっぱボク、からかわれて遊ばれてるのかなー」
 「それは今更じゃないのかなあ」
 「ルキちゃん、それは言わない約束」

 今更な気もするが、実際に口に出してみると結構精神的に来るものがある。じんわり涙まで滲みそうだ。
 ルキはそんなアルバを一瞥した後、でもちょっと違うんだけどなと呟いた。

 「え、何か言った?」
 「ううん、何でもないよ」

 ほら、アルバさんあれって川じゃないかなあ。
 早く行こうよと急かすルキに訝し気な表情を浮かべながらも、アルバはただ頷いてその小さな背中を追った。
 それから二人は程なくして小さな滝壺を見付けた。水筒を水で一杯に満たすついでに水浴びしようよと提案するルキを抑えたアルバは、顔や腕を綺麗に洗うに止めさせた。万が一、誰かがルキの水浴びのシーンに出会したとして、全面的な非難を受けるのはアルバである。
 暫く歩いて元居た場所に戻ると、其処には数時間前に別れた戦士が腰を下ろして焚火に枯れ枝をくべている姿が在った。すっかり暗くなってしまった周囲を照らす小さな光源に安堵して、アルバは「ただいま」と声を掛ける。それに気付いたロスは彼らを見てから、ぱちぱちと瞬きする。

 「何ですかえらく遅かったですね、勇者さん。何しに行ってたんですか?」
 「水汲みに行ってたんだよ!?」

 ソウイヤソウデシタネーとわざとらしい返事をする戦士に苛立ちながらもアルバはルキと共に焚火を囲むように座り込んだ。其処でロスは「ああ、そう言えば」と思い出したように掌を打つ。
 
 「二人の帰りがあまりにも遅いんで、今日の夕食は俺が作っておきましたよ」
 「え、まじ!? うわー助かる。もうボク、お腹ペコペコだよ〜」
 
 水汲みやらツッコミやらですっかり頭から抜け落ちていたが、一日中駆け回っていたお陰で胃袋の中はすっからかんだ。そう意識した途端、今更になってぐう、と腹の虫が強く主張する。今ならどんなに不味い料理でも飲み込めそうな気がする。
 戦士は「それは良かったです」と嬉しそうに声を上げると、
 「これ、俺の自信作なんですよ!」
 「へえ、どれどれ…」
 「ではどうぞ。『ヤソウソノママヌイターノ』です」
 「洗ってすらないの!?」

 こんもり積み上がった野草は本当にただ抜いただけらしい。洗った痕跡すら見当たらない。先程はどんなに不味い料理でも飲み込めそうだと思ったが、そもそもこれは料理と呼ぶには相応しくない。
 叫ぶだけでも空腹が助長されるのだから、無駄に体力を使わせるようなことはしないでくれとアルバが疲れ切った声を上げると、今度こそ戦士は「冗談ですよ」と言って焚火の中から串を三本取り出した。鉄製の串の先にはこんがり焼かれた茸がいくつか突き刺さっている。

 「そっちは偽物です。本物はこれ、『キノコソノママヤイターノ』です」
 「それもう加工法だよね…」

 まあ食事らしい食事にありつけるのなら、この際何でも良い。アルバは戦士が差し出した串を一本受け取ると、腹の中に茸を収める作業を開始した。同じようにルキも一本受け取ると、「そうだ」と言って袖の中をごそごそと探った。何だ何だと見ていると、彼女のだぶだぶの袖から林檎が三つ登場した。

 「あのね、さっき森の中で見付けたんだぁ」
 「おお、美味そう!」

 大きな赤い果実を前にしてアルバは思わず歓声を上げる。流石に茸だけでは腹は膨らまない為、たいへんありがたい。アルバはルキから二つ林檎を受け取り、一つをロスに手渡した。「どうも」と短く返事をするロスを見てから、一同は林檎に齧り付いた。
 瑞々しい林檎の果汁と食感が口一杯に広がって、アルバは人知れず頬を緩める。

 「とっても甘くて美味しいね!」
 「うん、丁度食べ頃だったみたいだ」

 嬉しそうに林檎を咀嚼するルキに笑い掛けたアルバは、ふと何の反応も示さない戦士に視線を遣った。戦士はと言うと、一口齧った後何やら考え込むような微妙な面持ちで果実を見つめている。何だろう、美味しくなかったのだろうか。

 「どうしたー、戦士」
 「もしかしてあんまり美味しくなかった?」

 口元を押さえて何とも言えない表情を浮かべている戦士に対し、彼女も不思議そうに小首を傾げた。それを受けて戦士は「いえ、」とやや歯切れの悪い返事をする。しかし直ぐににんまりと嫌味な笑みを浮かべると、
 「ああいや美味しいですよ。勇者さんの間抜け面見ながら食べるとまた格別ですね」
 「ぅおいっ!! ボクがいつ間抜け面した!?」
 「え、二十四時間通常運転ですけど」
 「常にかよ?!」

 こうして戦士はいつもの調子でアルバのツッコミ待ちのボケを連発していたものの、結局林檎を半分も食べ終わらない内に置いてしまったのだった。










 それからと言うもの、戦士の食欲は目に見えて減退した。成人男性のロスを食べ盛りのアルバや成長期のルキと同じ枠に当て嵌めるのはあまり宜しくないが、それでも彼の食事量は成人男性の摂取量の約三分の一以下だと推測される。
 道中、常に彼と共に食事を摂って来たアルバはこの食事量を不審に思い、それについて尋ねたこともあったが、「俺は勇者さんより燃費が良いんですよ」の一言であしらわれた。燃費が良い悪いの問題ではないのだが、これ以上追及すれば「しつこいですね。勇者さんは将来恋人を束縛して閉じ込めるタイプなんですか?」等とネチネチ嫌味を並べられることは目に見えていた為、打ち切りにする他なかったのだ。

 ある日、アルバ達一行はとある港町の安宿を借りることにした。アルバを含めたパーティーメンバーはモンスターを殆ど倒さずに此処まで来ている為、言わずもがな路銀の手持ちは少なく、利用出来る宿も限られている。そろそろスライムくらいは軽く仕留められるようになってくださいよという戦士の尤もな意見を耳に痛く感じながら、この日は宿に落ち着くアルバである。
 そしてその日の夕食は、宿から程近い場所にある居酒屋で摂ることにした。アルバとルキの二人は豆スープと蒸し鶏のトマトソースがけ、そして硬く焼かれたパンを一つずつだ。彼らの正面に座る戦士は、豆スープのみを注文した。それも元の量から更に減らしてもらったのをアルバは知っている。

 「お前、それだけで本当に足りるのかよ?」
 「ええ、足りますよ。俺は勇者さんと違って年がら年中ツッコんでいないので、無駄な体力使ってないんですよ」
 「誰の所為だと思っとるんじゃあああああああ!!」

 しれっと言いのけてからスプーンを動かし始めるロスに呆れ半分安心半分でアルバは息を吐いた。










 その日の夜、アルバは喉の渇きを覚えて目を覚ました。水を飲もうとして手を伸ばしかけた所で、手持ちの水筒が空っぽだったと思い出す。アルバは仕方なくベッドから下りると水筒を片手に部屋を出た。宿を出て直ぐの処に小さな井戸があったことを思い出したからである。
 月明かりを頼りに井戸の水を頂戴したアルバは再び宿へと戻る。借りている部屋のドアノブに手を掛けた時、小さな呻き声を耳にした気がして身体を硬直させた。背中を伝う冷や汗を感じながら、アルバはじっと集中して耳を欹てる。すると確かに何らかの息遣いが聞こえて来る。バクバクと煩い心臓の音を無視してその出所を探れば、どうやら声は便所からのようだった。
 少なくとも幽霊と言った類ではなさそうだと判断したアルバはホッと胸を撫で下ろし、固く閉ざされた扉を遠慮がちにノックした。

 「…あのー、もしもし? 大丈夫ですかー」

 そうして二度三度呼び掛けてみたものの、依然として返事がない。もしかすると重病人が中に居るのではないかという不安がアルバの胸を過り、慌てて扉を開けようとする。
 てっきり鍵が掛かっているものだと思っていたが、そうでもなかったらしくあっさりとアルバを受け入れる。
 そして狭い個室の中で便座にぐったりと凭れ掛かっている男を見付けたアルバは、ぎょっとして目を剥いた。

 「――戦士!?」

 先程とはまた違った意味で冷や汗が出た。言うなれば心臓に直接冷水をぶっ掛けられた気分である。

 「おいっ、大丈夫か!?」

 自分より少しばかり大きな体躯を助け起こし、揺らさないように気を配りながら声を掛ける。それを何度か繰り返している内、戦士はゆっくりと瞼を上げた。苦しそうに荒く呼吸を繰り返し、此方を見つめ返す戦士の顔は死人のように青白い。ゆうしゃさん、とたどたどしく紡ぐ唇は青紫色になってしまっている。

 「どうしたんだよお前、…体調でも悪かったのか?」
 「へ、いきです…。直ぐ、収ま…るんで、放って……置いてく、ださい」

 言外にあっちへ行けと言われて思わずムッとするが、不満を垂れる前にアルバはあることに気が付いた。

 「直ぐ収まるって…、もしかして、こういうことよくあるのか?」

 そう指摘すれば、戦士にしては珍しく苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
 これ以上踏み込んで欲しくないのだろう。煩いですもうどっか行ってください、と言って胸に手をついて身体を引き離そうとする戦士の腕を反射的に掴んだ瞬間、アルバはヒヤリとした。普段、身の丈程もある大剣を振るう彼の腕が、恐ろしく細く、頼りないものだったからである。まさかあの大剣を片腕で自由自在に振り回すとは思われないような細身の戦士だが、これは些か度を越している。よくよく観察してみれば、全体的に肉が落ちているような気がした。
 戦士は「止めてください」と言ってアルバの腕を振り解こうとするが、大した抵抗力も残っていないらしい。アルバが少しばかり力を込めれば、いとも容易く押さえ込むことが出来た。アルバは、じとりと此方を睨めつけて来る戦士の視線を真っ直ぐ受け止め、口を開く。

 「なあ、まさか食事量が極端に少ないのは、全部吐いてるからなのか…?」
 「……」
 「ロス、」

 沈黙する戦士を追い込むようにして名前を呼べば、その肩が小さく揺れるのが見て取れた。自然な流れで二つの紅玉と視線がかち合い、しばし二人の間には沈黙が下りるが、最終的に白旗を上げたのは戦士の方であった。

 「…全く、どうして貴方はこういう時だけ妙に鋭いんでしょうね」

 そういうのはモンスターとの戦闘にでも生かしておいてくださいよ。
 そんないつもの嫌味にも何処かしら覇気がなく、弱々しく感じられる。それにアルバは煩いなあとだけ返して、ロスの顔を見つめた。
 戦士は少し逡巡した後、「此処じゃあ難ですから、外に出ましょうか」と提案した。






 促されるままに宿を後にしたアルバは、暫くロスの後ろを無言で歩いていた。ひっそりと静まり返った市街を突っ切るが、二人は尚も黙々と足を動かす。一体何処まで行くのかとアルバが口を開きかけた所で、ロスは「此処ら辺で良いでしょう」と言って突然足を止めた。それにアルバは慌てたものの、その背中に激突するぎりぎり手前の所で立ち止まることが出来た。


 辿り着いたのは潮の香りが強く感じられる夜の港であった。昼間の騒がしさはすっかり鳴りを潜め、今は堤防に打ち付けられる波がチャプチャプと音を立てているだけだ。
 不意に吹き付けて来る潮風に身体を震わせると、ロスが「寒いんですか」と顔を覗き込んで来る。

 「季節の変わり目ですし、夜中の潮風は少し肌寒いかもしれませんね」
 「んん、まあ我慢出来ない程じゃないし、大丈夫だよ」

 それよりも、と視線を遣れば、その意図を汲んだらしい戦士の瞳がやや躊躇うような色を滲ませた。そんな彼を片目にアルバは腕を擦りつつ堤防の淵に座り、「お前も座れよ」と右隣の空いたスペースを掌でぽんぽんと叩いた。
 しかし彼の言う通りにするのが癪なのだろう。ロスはそれを一瞥した後、アルバとの間に一人分のスペースを空けると無言で腰を下ろした。アルバは図らずも喉元までせり上がって来た「そんなにボクの隣に座りたくないのかよ!」というツッコミを呑み込んで、ええとと話題を戻そうと口火を切る。

 「何で吐いちゃうんだろう、…拒食症ってやつ?」
 
 いつだったか、母が教えてくれた病名を一つ試しに挙げてみるが、直ぐ様戦士の首が横に振られる。

 「いえ、残念ながらそういうものじゃないです」
 俺も一度はそれを疑ってみましたが、それにしては症状が違いましたし。
 「えー? じゃあ何なんだよ。そういう医療系の知識なんてボクにはないし、何とも言えないんだけど…」
 「そんなもの、元から勇者さんには期待してませんよ」
 「ですよねー…」

 当然のことではあるが、そうはっきり言われると心に刺さるものがある。もうちょっとオブラートに包んでくれよ等と小声で文句を垂れてしまうアルバを他所に、戦士は「と言うかですね、」と後ろ頭を掻きながら、
 「そもそも、俺は味が分からないんですよ」

 拒食症にこんな症状はないでしょうと淡々と続けるロスに、アルバは眉根を寄せた。

 「味が分からない、って……」
 「ほら、あるじゃないですか。何か食べたり飲んだりしたら甘いとか苦いとか、辛いとか酸っぱいとか。……原因は不明ですが、兎に角そういう感覚が分からなくなったらしいんです」
 だから何が美味しいもので不味いものなのか分からなくてですね。
 「一応どんな味がしていたかという記憶はあるので想像は出来るのですが…。ほら、勇者さんだって、カレーの匂いはするのにカレーの味がしないカレーを食べたらそりゃ気持ち悪くもなるでしょう」

 とは言え、栄養を摂らないと色々ヤバいんで噛んで飲んでみるんですが、身体の方が受け付けないらしくて結局戻してしまうんです。
 とんでもないことをさらりと告げられたアルバは一瞬絶句してしまうが、ふと思い当たる記憶を頭の片隅から引き摺り出した。

 「じゃああの茸料理も…」
 「茸? ――ああ、あれですか」

 件の茸料理とは、二、三週間前に森で野宿する際、アルバがルキと共に水汲みに行かされたあの日のメニューである。

 「あの時既に味が分からなかったからまともな料理が出来なかった、とか」
 「あー、当たらずとも遠からずですね。実を言うとあれは正直、面白半分、嫌がらせ半分でしたが……あれを作る前に一応普通に料理しようとしていたのは確かですよ。――でもまあ味が分からないんじゃ作ってもハチャメチャな味になるだけですし」

 そりゃ加工法にしかなりませんよねと鼻で笑うロスにどうしようもなく申し訳なくなって「悪かったよ!」とアルバ。
 確かに、あの時はロスの異常に気付かず心ないことを言ってしまった。弁解の余地はないとしてただ謝るしかないアルバだったが、戦士は「別に気にしてないですからそんなに謝らないでください」と溜息した。

 「なってしまったものは仕様がないんですから」
 「いやいやいや!? て言うかお前、それってどっちにしろ病気ってことじゃん! 病院行こう、病院!」

 一通りの流れを振り返ってみて、アルバは戦士の細腕を掴んだ。拒食症でないにしろ、現在ロスの身に起こっていることを医者に相談することは必要だろう。

 「え、いや、行かないですよ」
 「何でっ?!」

 アルバは条件反射でロスを引っ張り上げようとするが、微動だにしない彼のお陰で大きくバランスを崩してしまう。勢いつけて立ち上がった為、足を滑らせてそのまま海に落ちてしまうのではないかと危ぶまれたが、今度は戦士に腕を取られることで、海へ落ちる危険は避けられた。
 身体の半分を海側に投げ出された状態で、アリガトウゴザイマスとアルバは喘ぐようにして礼を述べる。対するロスは呆れながらもアルバの身体を引っ張り上げ、
 「何を一人で盛り上がってるんですか。…味覚がなくなることなんて、別に大した問題じゃないんですからそんなピーピー喚かないでください」
 「は、」

 瞬間、アルバは自分の顔が強ばるのが分かった。その反応をどういった意味で受け取ったのか、ロスはああ大丈夫ですよと軽く笑ってみせた。

 「食べられなくても栄養の補給は回復魔法の応用でどうにかしていますので、」
 「――何言ってんだっ!!!」

 突然怒鳴り声を上げられてぎょっとするロスを無視して、アルバは冗談言ってんな! と眉を跳ね上げた。一瞬頭が真っ白になったかと思えば、次の瞬間には全身の血液が沸騰するような感覚を覚え、視界は真っ赤に染まっていた。

 「巫山戯るなよ……味が分からないってことはこれから先、何を食べても飲んでも、お前だけ何も感じないってことだろ?!」
 そんなの絶対に嫌だ!
 「今までみたいに、お前にはボクやルキが食べたり飲んだりしたものを一緒に感じて欲しいし、共有したい。食べ物だけじゃなくて、景色でも何でも……お前と見て、聞いて、分け合って行きたいんだよ!」

 だからそんな風に、何でもないことみたいに言うな!
 息継ぎもそこそこに一気に捲し立てたアルバの瞳には、薄い水の膜が張っていた。普段はあんなに自分本位の癖に、どうしてこんな時だけ、と言葉にならない思いがぐるぐると胸の内で渦を巻く。
 戦士は、涙を滲ませて肩で息をするアルバをぽかんとして見つめていたかと思えば、ついと顔を伏せて小さく笑った。それからしみじみと、
 「勇者さん…、貴方、やっぱり馬鹿でしょう」
 「ばっ…、馬鹿とは何だ馬鹿とはっ!!?」
 「馬鹿に馬鹿って言って何が悪いんですか、このバカ山アホ太郎さん」
 「何だとコラぁ!!」

 思わず涙も引っ込んでしまうくらいの衝撃である。ちょっと良いこと言ってたのに本当に聞いてたの!? と喚きたくなる程、ロスの反応は薄かった。
 しかしそんなことを続けた所で彼の身体が癒える訳でもない。アルバはすっくと立ち上がり、もう良いよと続けた。振り返り様にロスの鼻先にびしりと指を突き付け、
 「兎に角、明日は絶対病院に連れて行くからな!」
 「えー」
 「えー、じゃありません! 勇者の決定だから絶対な!」

 こんな時だけ職権使うんですか、勇者さんそれは職権乱用ですよ等と声だけで追い掛けて来るロスに「喧しい!」と一喝し、アルバは大股で歩き出した。










 「……からかわれて怒っても、結局病院に行くことは決定事項なんですね」

 勇者の背中を見送りながら、ロスは彼に聞こえないように呟きを落とす。港にたった一人取り残され、全身に吹き付ける潮風が更に冷たく感じられた。急に強くなった風に襟巻きが飛ばされてしまわないように押さえ付け、ばかですよと繰り返す。

 「馬鹿です、…貴方は…」

 馬鹿だし、とんでもなく酷い人だ。
 蚊の鳴くような声で吐き出し、ロスはグイと襟巻きを無理矢理引き上げた。


 紅色の布に押し付けられたその顔は、一体どんな表情を浮かべていたのだろうか。



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