――あたたかい。
唇からじんわり広がる微かな温もりに心地好さを覚える。次いで、先程まで辛かった筈の身体が次第に楽になってゆくのを感じた。




「……ぅ、」
昔と変わらない、夢から現実へと引き戻される際に生じる独特の浮遊感。それに多少なりとも渋面を作りつつ眼を開けた先にあったのは、今となっては見慣れてしまった宿舎にある自室の天井だった。
「……あれ?僕、確か…」
教会で雨宿りしていたんじゃなかったっけ。
冷たく凍えそうなあの建物の中にいたと思ったのだが。まだ夢の続きでも視ているのだろうかと疑うが、ぱちぱち瞬きを繰り返す感覚があったり全身に倦怠感を覚えたりしていることから、これは現実であると判断した。
「でも、どうして…」
「あ、吹雪さん!起きられたんですね!」
僕の疑念に被さるようにして、声が掛けられる。僕の部屋の扉を開けて入って来たのは、音無さんだった。良かったと零す彼女の手には、おそらく冷却用の水を張った桶がある。音無さんが歩く度にカラカラ音が鳴るのは、きっと氷が入っているからだろう。
「…音無さん、あの…」
「ああ、駄目ですよ!まだ安静にしていて下さい」
起き上がろうとする僕の肩を、若干慌てた様子の音無さんの手が押し戻す。その時、自分の膝元に落ちた濡れタオルの存在に気付き、僕は首を傾げた。
彼女はそれを目にすると「ほら、落ちちゃったじゃないですか」と小言口調で言う。それから慣れた手付きでそのタオルを氷水に浸して固く絞りながら、
「吹雪さん、あれから高熱で寝込んでいたんですから、あんまり無理するとぶり返しますよ」
「あれから、って…」
「憶えてないんですか?」
本当に、何も憶えていない。素直に頷けば、音無さんは一瞬目を丸くした後、まあ無理もありませんよねと苦笑する。
「豪炎寺先輩が、吹雪さんを宿舎まで運んで来て下さったんですよ」
「…豪炎寺くんが?」
「はい。中々お帰りにならない吹雪さんを心配して、探しに出て下さって」
其処まで言って音無さんは何を思い出したのか、小さく笑い声を立てる。それに、どうしたのと問うと彼女は肩を震わせながら「すみません」と謝し、
「豪炎寺先輩、傘を持って行った筈なのに、頭からびしょびしょになって帰って来たんですよ。…それにその時の先輩、珍しく凄く取り乱していて」
中々見られない光景でしたよ!
彼女は、そう言ってにっこり笑顔を浮かべると作業に戻った。
「へえ…」
普段こそ無表情でいることが多いあの豪炎寺くんが。
残念ながら、僕の乏しい想像力では彼女の言う『凄く取り乱している』彼は具現化出来兼ねる。それはちょっと見たかったかも、と思ったのは内緒だ。
「…確かにそれは珍しいね、」
「そうでしょう?ですからそれも相まって、皆さん大騒ぎで……あれ?」
再び手を止めた音無さんは、僕の隣に目を遣った後、
「其処にあった薬、呑んだんですか?」
「え?」
声に誘われるまま、隣へ視線を向ける。ひとりにつき二棹与えられている内、洋服箪笥とは別に小物が収納出来るそれ。壁に据え付けられたその上には、開封済みらしいペットボトル入りのミネラルウォーターとガラスコップがひとつ載っていた。
その上、傍の屑籠には市販の風邪薬が一包、使用された状態で捨ててある。
状況からすれば確かに自分が薬を呑んだことになるのだろうが、先程目を覚ましたばかりの僕には全く身に覚えがなく、
「いや、…そんなの全然憶えてないんだけど…」
「ええ?変ですねえ、」
僕の返答に音無さんは驚き、その眉間に皺を寄せる。僕自身変だとは思うが、もしかしたら本当に自分が憶えていないだけで、呑んだのかもしれない。そうなんじゃないかなあと考えていると、段々それっぽく思えて来るのが不思議である。
そうして今更になって、あることに気が付いた。
「そうだ、音無さん。その、買い出しなんだけど…」
「え?…ああ、そのことならもう良いんですよ」
吹雪さんの行方が判らなくなったり、高熱で倒れてしまったりしたことに比べたら安いものです。
数瞬の間を置いて答える音無さんは、苦笑い。それに、僕は申し訳なさで一杯で、
「…ごめんね。その、本当に…」
「や、やだ!別に責めている訳じゃないんですから、謝らないで下さいよ!」
頭を垂れる僕の鼓膜を、わたわたとした音無さんの声が揺らす。
そして丁度その時、数回のノック音と共に扉から人影がふたつ、ひょっこり姿を現した。

「邪魔するぞ、春奈。頼まれていた冷却ジェルシートなんだが…」
「音無ー、吹雪の具合はどうだ?」
薬局のビニール袋を提げた鬼道くんと、その後ろを付いて来たキャプテンだ。
音無さんはそれに、グッドタイミングだとばかりに「ありがとう、お兄ちゃん!」と言って鬼道くんに駆け寄った。鬼道くんは彼女にそれを手渡す際、僕に気付いたらしい。キャプテンも同様だ。
心底ホッとしたように「吹雪!」と僕を呼び、ぱたぱた此方へやって来ると、
「目が覚めたんだな、良かった!」
「一時はどうなるかと思ったぞ、」
「うん、…心配掛けてごめんね?」
彼らの口振りからすると、自分は随分迷惑を掛けたに違いない。一言謝罪の意を述べると、キャプテンは「お前が無事なら、それで良いんだよ」とからりとした笑顔を見せる。
それから、そうだ!と何やら思い付いたようにひとつ掌を打つと、
「俺、皆に吹雪が目を覚ましたことを伝えて来るよ!」
「…それは良いが、慌てて走って転けるなよ」
判ってるって!
そう返して忙しなく出て行くキャプテンをおそらく呆れ半分で見送った鬼道くんは、申し訳なさそうに僕の方へ向き直った。
「すまないな、騒がしくて…」
「大丈夫だよ、寧ろそっちの方が嬉しいかも」
「それなら良いんだが…」
笑いながら答える僕に、鬼道くんは眉を寄せて微妙な顔を作る。あいつの落ち着きのなさはいつか矯正してやらないと、と呟く彼はまるでキャプテンの保護者のようだ。
しかし音無さんは、そんな鬼道くんに、
「でも、キャプテンのお陰で皆さんに吹雪さんのことを伝えに行く手間が省けました!」
これから続々集まって来るでしょうねと笑む彼女は、ふと此方を振り返ると鬼道くんを尻目にこっそり耳打ちする。
「吹雪さん。さっきの話、豪炎寺先輩には内緒ですよ」
「うん?」
さっきの。豪炎寺くんが彼らしくなく大慌てしていた、という話。
「吹雪さんに話したなんて知れたら、きっと怒られちゃいますから」
悪戯っぽくウインクして見せた彼女に、僕は微笑みだけで返した。


―――



そしてキャプテンは宣言通り、本当に皆に知らせてくれたらしい。

あれから少しして、自室は僕を心配して見に来てくれたチームメイトで一杯になった。
おまけにその内の数人は見舞い品まで持って来てくれた。それは土方くんお手製のお粥だったり、綱海くん特製の『綱海スペシャルドリンク』だったり(「風邪にはこれが一番効くんだぜ!」と彼は言っていたのだが、黒々としてぼこぼこ泡立つそれを呑んだら逆に体調を崩すのではないかと少し疑いたくなった)。
因みにその綱海スペシャルドリンクは、立向居くんが慌てて「吹雪さんも随分元気になりましたし、もう大丈夫だと思いますよ!」と言って取り下げてくれた(ごめんね、綱海くん。そして本当にありがとう、立向居くん)。

「ありがとう、皆」
「良いってことよ!それより早く元気になってくれな」
僕の頭をわしゃわしゃと撫ぜる土方くんの大きくてごつごつした掌は、今は亡き父のそれを思わせる。あたたかくて、やさしい。
そんな土方くんに限らず皆みんな優しくて、寂しいことばかり考えていた数時間前が嘘のように僕の心は晴れ渡っていく。醜く歪んだ僕の気持ちも、あっという間に溶かしてくれる。
(…やっぱり、此処が好きだなあ)
今更ながら、自分は恵まれているなと思う。
こうやって心配してくれるひとがいて、帰りを待ってくれているひとがいる。
『独り』では、ないのだ。

(だから、)
だからこそ、もう、これ以上望むことは許されないと思うのである。
(あの頃に比べたら、十分幸せなんだもの)

誰にも見分けられない筈の嘘っぱちの笑顔を貼り付けたまま、僕は思う。
幼い時に事故で最愛の人たちを失ってから、僕は誰かを愛することを止めた。僕にとってすれば誰かを愛し愛されることは、それを失うリスクを大きくするだけなのだ。
時は移ろい、そしてそれに伴って全ての事象は常に変化を遂げる。その内に組み込まれている限り、僕たちには「絶対」や「永遠」なんて言葉は存在しない。それなのに、愛情に餓えて渇いてしまった僕の心は、本人よりも正直だ。
幸福だと感じれば感じる程、益々欲深になっていく自分が嫌で仕様がなかった。人肌の温もりに慣れることで、他人からの愛情を欲してしまう自分が酷く恐ろしかった。
(大丈夫。僕さえ何も求めなければ、皆幸せでいられる)

だから、そんな言い訳をもう幾度となく自分に言い聞かせて来た。
(自分が『独り』じゃないと判っただけで。それだけで十分だ)
そんな風に嘯いてばかりいる僕は、とんでもない臆病者だ。






「…吹雪が目を覚ましたって、本当か?」
「お、豪炎寺!」
遅かったな!と手を振るキャプテンの視線の先に、彼は立っていた。


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