いつだったか。
ふと脳裏を過ぎったのは、あの人との記憶だった。
今みたく雨が降り、雷鳴が空気を揺らしていたあの時の。



「ひぁっ…、!」
何度目になるだろうか。
僕は、空気を大きく揺さぶる雷に全身を強張らせ、意味などないことを知った上で両の手で既に塞いでいた耳を再度聞くまいとして固く強く押さえ付けた。気休め程度にもならないが、何もしないで蹲っているよりは幾分良い。
先刻、僕が雨宿りにと逃げ込んだ教会には幸い誰の姿も見られなかった。それ故に無理に悲鳴を呑み込む必要もなく、正直言って救われた。ひとりは良い、誰かに気を遣ったり自分を取り繕ったりする必要がないから。

――あの後、突如として落ちた大きな雷に図らずも精神の均衡を崩した僕は、恐怖故にどうにかなってしまいそうになりながらも辛うじて男達の手を振り切った。
それから後のことは、僕自身も正直よく憶えていない。兎にも角にも僕はあの雷鳴から少しでも遠く離れた場所を目指して、酷く長い間走っていたように思われる。気付いた時には、何処とも知れぬ教会の入り口に立っていた。全てが白塗りのコンクリートで組み立てられているそれは、やはりFFIの為に建設されてからそう経っていないことが窺える新築ぶりだった。
一瞬、此処は本当にジャパンエリアなのだろうかと判断し兼ねたものの、最終的にはいくら気が動転していたからと言って流石にエリア外には出ていない筈だという結論に至った。それから、取り敢えず当分は止んではくれないだろう雨のことを思って、僕はその扉を開いたのであった。

そして現在、僕は人の体温など微塵も感じさせない冷え切った室内の奥に据えられた祭壇に寄り添うようにして身を屈めていた。滝のように降る雨をたっぷり吸い込んだジャージは重く冷たく、僕の体温をすっかり奪ってしまった。しかし今の僕には、衣服が肌にべたべたと纏わり付く不快感を嘆く気力すら残っていない。
非情にも冷気に刺され続ける全身とは裏腹に熱を帯びる頬。身体、精神に掛かる過剰なまでの疲労は最早限界に達していた。
「ぅぁ、っ」
再び、窓越しに稲妻が一筋光ったのを見て、僕は全身を硬くする。
雷が落ちる度、脳裏を駆けるのは僕が家族を喪失した記憶の一部始終だった。
あの雪崩に呑まれた僕の意識は、一瞬にして肉体から剥離する。そして再び目が覚めて、気が付いた時には吹雪く雪原の中、僕は独りだった。雪の絨毯から身体を起こした僕は、打ち身による痛みや全身に吹き付ける寒さに震えるよりも前に、自身の幼いながらのキャパシティを遥かに超越した状況に呆然と立ち尽くした。
其処に、つい先程まで共に笑い合っていた家族の姿はない。ただ其処には、無惨にも雪で押し潰された父の愛車の姿が在るだけだった。立ち上がることさえままならず、戸惑いながら折った膝に目を落とせば、点々とした紅が白雪を汚しているのが見て取れた。僕のそれではない。僕は、おそるおそる視線だけでその跡をなぞっていく。見てはいけないと警鐘を鳴らす本能さえも撥ねのけた僕の視界に飛び込んで来たもの。圧力で割れてしまった窓から覗いたそれは、見間違えようのない。
(おとうさん、おかあさん、…アツヤ)
その事故で家族を失ってから、僕は生前弟と交わした約束を果たすことに躍起になっていた。父の言葉をはき違え、アツヤとふたりで完璧になることに強い拘りを持っていた。それでもその頃の僕は、矛盾したことに自身が弟の人格に呑み込まれるのではないかと恐怖し、もがいていた。僕の心に纏わり付く恐怖を払拭する為にアツヤを封じ込めようとして、またそうすることで独りになるのではないかと思い、踏み止まって。
そんな二重の恐怖に苛まれる僕を叱咤してくれた、あの人。強制的に引き摺り出される事故の記憶に苦しむ僕に、力強い言葉を掛けてくれた。僕の内に響く雨音を掻き消してくれたのは、紛れもなく彼の声だった。

「懐かしいなあ、」
言葉と共に吐き出された息は、目に見えて白い。ほんの小さな声であっても、誰も居ない建物内にはよく反響する。少しだけ開いた扉の隙間から見える風景は、相変わらずどんよりとした灰色一色に塗り潰されている。
ばしゃばしゃばしゃばしゃ。屋根を叩く雨音は、あの河川敷でのひとときを彷彿とさせた。
「あの時も、こんな風に雨を凌いで…」
まるで昨日のことのように思い出される記憶に、僕は懐かしさに目を細める。完璧になりたいのなら、選ぶものを間違えるなと告げて立ち去る豪炎寺くんの背中は、僕と違って何の迷いも感じられなかった。しゃんと伸びた彼の背筋からは、言い知れぬ力強さが感じられた。
当時の僕としては、そんなことを気にするよりも置いて行かれることにただただ怯えて。その背に追い縋りそうになる衝動を、掌に爪を立てることで鎮めたのを憶えている。
ひとりは楽だった。でも、独りは苦しかった。

ひとつ息を吐き出して、ふと身体を震わせる。今に至るまで忘れられていたかのように冷気が身体の内部に流れ込んで来る、そんな気がした。よく考えてみればあの時は少し肌寒いくらいで、今のそれとは比べものにならないのである。
「…そう言えばあの後、雨は酷くなる一方で…帰るに帰れなくなっちゃったんだよね」
物思いに耽る程、ぽつぽつと零れ出る言葉の粒。しかしそれを受け止めてくれるひとは、此処には居ない。
早くキャラバンに戻らなければと思うのに、それも出来ずに途方に暮れていたあの頃。雨は止まず、雷は酷さを増すばかりだった。
「結局あの時は、豪炎寺くんが傘を持って迎えに来てくれたんだっけ…」
ひとりで練習しろと言って帰ってしまったのに、そう時間も経たずして舞い戻って来た彼。
「…ごうえんじくん、」
此方を覗き込んだ、若干の焦りを交えた黒い瞳。泣くなと頬を撫でる指先は、ひどく優しかった。一方で僕は、本来ならば放っておかれる筈の自分をわざわざ迎えに来てくれた彼の真意を計り兼ねていた。
つめたいのかやさしいのか、判らない豪炎寺くん。
否、本当は知っていた。豪炎寺くんがその見た目に反して意外とお世話焼きで、困っているひとを見ると放っておけない質であることを。そしてそのやさしさは、世界へ行っても変わることなく僕を包み込んでくれていたことも。
染岡くんが代表落ちした時、まるで我が身のことのように落ち込んでいた僕。その後の韓国戦で負傷し、代表から外れて日本に残ることになった僕。豪炎寺くんは、そんな僕に慰めの言葉を掛ける訳でもなくただ黙って傍に居てくれた。それから、世界へ旅立つ彼らを見送る際「必ず戻って来い」と声を掛けてもくれた。何故彼が其処までしてくれたのかは判らない。でも、嬉しかった。例えそれが単なる同情から来るものだとしても。誰かが、豪炎寺くんが隣に居てくれることが。

うれしかったのだ。

「……」
どうやら自分は相当疲れているらしい。こうしてひとりきりになって考えるのは、失ってしまった家族や彼のことばかりだ。
(とうさん、かあさん、…アツヤ)
それから、それから。
ごうえんじ、くん。唯一口にしたその名前は、もう音にもならなかった。喉は擦れ、瞼が重たく沈んでいく。
(つかれちゃった、な)
少しだけで良いから、眠りたい。睡魔に手繰り寄せられる意識を引き戻す余力はこれっぽっちも残っておらず、僕はその波に逆らうこともなく従順に闇の中へと落ちていく。それと同時に、今頃皆はどうしているだろうかと頭の片隅に思い浮かべるが、睡眠欲はその猶予さえも与えてはくれない。
嗚呼、そう言えば買い出しを途中で放り出して来てしまった。薬局で購入した物も、逃げる途中で何処かへ置いて来てしまったようである。

ああ、もうほんとうに どうしようもない。


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