昔、夕香に読んでやった童話の中には一様に美しい姫が居て、彼女を迎えに行く王子が必ずひとりは存在した。
彼らが出逢う過程はどうであれ、最終的に彼は彼女と幸せになって物語が終わる。
本当に愛する人とこれからの人生を共に歩んで行けるという幸福感故に、挿絵の彼は心底嬉しそうに微笑むのだ。

当時、夕香は童話を読み終えた後「素敵だよね」と言って笑い、現実には存在する筈もない王子に思いを馳せていた(少しそれに不安になったのも事実だ)。
ただそれも、いつかは理解するものだと妹には言わないでおいた。
しかし現実に姫が居ないにしても、きっとこの世界の何処かには自分が生涯愛し続けるだろう人が居るのではないかと俺は信じて疑わなかった。



(一体、何処に居るんだ)

刻々と過ぎていく時間が、より一層俺の内の不安を掻き立てる。
往来の人々の中に、彼を見付けることは出来なかった。


事の発端は音無だった。
心身リフレッシュの為にと設けられた休日、明日の練習に当たってのフォーメーション等々を円堂や鬼道と共に話し合っていた所に彼女が飛び込んで来たのである。
昼食を知らせに来たのだろうかと思ったが、音無の尋常ではない様子にそうではないことを悟る。

「お兄ちゃんっ、吹雪さん何処に居るか知ってる!?」
「吹雪?」

一番始めに口を開いたのは鬼道である。彼は知らないな、と妹に答えると、
「吹雪がどうかしたのか?」
「それが、今朝私の代わりに買い出しに行ったまま、まだ帰ってないみたいで…!」

音無はどうしよう、と今にも泣き出しそうに表情を歪める。
鬼道はその背中を擦ってやりながら、窓を通した外へと視線を向けた。と言っても先刻から降り出した雨の所為でクリアには見えない。
轟く雷鳴とまるで共鳴しているかのように、雨粒は激しく窓を叩き続ける。

こんな中、まだ帰って来ていないと言うのか。
時計を確認してみると、その針は12時半を示していた。
音無の話から鑑みるに、吹雪が買い出しへ出てから少なくとも2時間半は経過している。
この宿舎から街へは歩いても10分程度のもの。仮にそれから買い物を始めたとしても、いくら何でも遅過ぎる。
もしやとは思うが、この雷で動こうにも動けなくなっているのではないだろうか。いつかの河川敷での前例もあってか、俺はそんなことを考える。
あの小さな背中を丸めて蹲り、自身の肩を抱き締めひとり震えていたとしたら。


「…音無。吹雪は街に行ったんだな?」

確認するように問えば、音無は驚いた風に目を瞬かせた後、
「え、…はい。ジャパンエリアの街に行かれたと…」
「そうか、」

彼女にありがとうと一言礼を述べてから、俺は床に広げていたノートの上にシャープペンシルを転がして立ち上がった。
特に何も言わないまま出て行こうとする俺に気付いた円堂が、「何処に行くんだよ?」と問い掛けて来る。
俺は彼らに一度顔だけで振り返り、
「吹雪を捜して来る」
「だったら俺達も、」
「いや、円堂達は此処に残ってくれ。…もしかしたら吹雪が帰って来るかもしれない」

入れ違いになったら困るからな。
「それに、街は言う程広くない」
「そうか?」

円堂は疑問符を投げる傍ら、音無の隣に立つ鬼道に目を向けた。それに気付いた鬼道が何事か言いたげな表情を浮かべるが、最終的には首を縦に振る。
今の彼の心境を簡潔に述べるなら、吹雪のことも心配ではあるがこの状態の妹を置いて出掛ける訳にもいかない、といった所か。確か、音無も雷が苦手だったか。
その思いを何となく察したらしい円堂は、じゃあ俺は鬼道達と一緒に待ってようかなと上げ掛けたその腰を再び床に下ろした。

「気を付けてな!」
「ああ、」

凄い雨だし、特に足元に気を付けろよと笑った円堂に、それは此方の科白だと少しだけ笑みを返して俺は部屋を後にした。


それが、今から20分も前の話になる。
俺は傘を1本余分に持ち、街へ出てからこの悪天候故か普段と比べると少ない人通りの中を練り歩きつつ吹雪の姿を捜していた。
しかし、一向にその姿をこの目に捉えることは出来ないでいた。
携帯電話に円堂からの着信がないことから、宿舎にもまだ戻っていないのだろうと予想する。

(一体、何処に居るんだ)

時折鳴り響く雷の音や滝の如く降り注ぐ雨。そしてその鉛色の空は、正午を過ぎたばかりの現在がまるで夜闇へ落ち始めた時刻であるかのように錯覚させる。
刻々と過ぎていく時間が、より一層俺の内の不安を掻き立てる。自然と歩みを進める足も速くなった。

ショッピング街には居なかった。ならば、一体何処へ行ったと言うのか。

ふと、巡らせていた視線がある一点を捉える。
見るからに異国出身であろう男が数人、喫茶店の前で雨宿りがてら談笑をしているのが見えた。
FFIに参加している身、異国人を見る機会は少なくないし珍しいことでもない。
それよりも先を急ごうと、例によって今回も特に気にすることなく彼らの前を通り過ぎる、つもりだった。
だが、過ぎ去る間際聞こえた彼らの会話に、俺は自分の耳を疑った。


「――しかしさっきの生意気な餓鬼、何て言ったっけな」
「ええと…吹雪士郎、じゃなかったか?確か週刊誌で見た気がする」
「あんなチビでも選手なんだよなあ…はは、訳判んねえ奴だったけどな!」
「雷が鳴り出した途端、一変して怯え出したよなあ」

お陰で抵抗も殆どなくて殴り易かったと笑い飛ばす男の胸倉を、俺は力任せに掴んだ。
どうやら聞き間違いではなかったようだ。

「今、何て言った?」

俺の耳が余程遠くなかったならば、先程交わされていた会話の内容の中には決して聞き流すべきではない言葉が幾つも登場していた筈だ。
突然のことに驚く男と残りの2人が振り返って俺を見る。
元が小心者なのか、俺の気迫に圧されたらしいその男は「何なんだよ」と動揺を隠し切れていない声を上げた。

「吹雪をどうしたって言うんだ、」
「ああ?…なんだ。お前、あいつのお仲間か」

俺の問いに応えたのは、眼前に居る男ではなく鼻ピアスをしたもうひとりだった。
奴は俺の着ているジャージを確かめた後、そんなことを言う。

「だったら何だ。…お前達、吹雪を何処へやった?」

元よりまともな会話が出来るとは思っていないが、取り敢えず少しは言葉の通じそうな相手を見付け、俺はそれまで胸倉を掴んでいた手を解いた。
小心者は解放されたことを悟ると、慌てて鼻ピアスの背後につく。
その鼻ピアスはと言うと俺の科白に心外だなあと続け、
「俺達は何処にもやってねぇよ。あいつが勝手に何処かに行っちまったんだ」
「そうそう、突然怯え出して何かぶつぶつ言ってたしよ。でもすばしっこくて結局逃げられたけどな」
「はは、確かに惜しいことしたよなー。これならもっと殴っとくんだった」

「…!」

鼻ピアスと、奴に調子良く相槌を打つもうひとりの男を前に、俺は拳をきつく握り締めた。
腸は当の昔に煮えくり返っている。だが、もし此処でこの男達を殴ってしまったならば、後々面倒事へと発展することは明らかだった。
ひとりの人間として奴らを殴り飛ばしたいのは山々だが、ひとりのサッカー選手として見れば可能な限り人身トラブルは回避すべきである。そういった諸々の理由が、理性という名のストッパーを構築し、爆発寸前の俺の感情を何とか押し止めていた。
しかし男達は、俺の心中等露とも知らず笑って続ける。げらげらと笑いこけるその様は、不快以外の何物でもなかった。

「あのでっかい独り言、もしかしてママのこと呼んでたりしたんじゃね?」
「あー、言えてる!」
「ママ、ママ助けてー、ってか?」

「…黙れ、」

お前達が、吹雪の何を知っていると言うんだ。
漸く吐き出された己の声は、予想以上に冷ややかなものだった。途端、それまで腹を抱えて笑っていた男達の顔が、違った意味で引き攣ったのが判る。
小心者は、顔面を蒼白にさえしているのが見えた。

こんな男達に構っている暇等ない。
奴らを一発でも殴ってやれない自分の立場にこれ程嫌悪感を催したのは、初めてかもしれない。傘を持つ右手に、自然と力が篭った。
今はそれに何より、吹雪を捜すことが最優先事項だ。そう自分を無理矢理納得させて、閉口したまま微動だにしない男達を尻目に踵を返す。

何も出来ない己に嫌気が差す。自分と雨を遮断する役割を持つこの傘を手にしていることさえ、億劫に思われた。
歩いて捜す余裕等ない。
依然として弱まる気配のない雨脚に内心舌打ちをして、俺は再び雷鳴轟く空の下へと駆け出した。


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