※ソフトな暴力表現注意
子供の頃に読んだ童話の中には綺麗なお姫様が居て、彼女を迎えに来る王子様が必ずひとりは存在した。
彼らが出逢う過程はどうであれ、最終的に彼女は幸せになって物語が終わる。
本当に愛する人とこれからの人生を共に歩んで行ける期待に胸を膨らませ、挿絵の彼女は心底嬉しそうに微笑むのだ。
当時、アツヤは童話を読み終えた後「下らない」と言って鼻で笑い、さっさとサッカーを始めてしまったのを憶えている。
でも、僕はその話を弟のように下らないとは思わなかった。
ただ、お姫様は居ないにしてもこの世界の何処かには、所謂運命の赤い糸で結ばれた誰かが居るのではないかと信じて疑わなかった。
しかし、それも幼い頃の話だ。
年を重ねるに従って、嫌でも現実は自分の前に現れる。
弟が昔好きだったヒーローも、童話に出て来るお姫様も、全てが空想の産物だったことは中学校へ上がる頃にはすっかり理解していた。
主人公がピンチに陥った時、颯爽と現れる王子様なんて現実には存在しないことも。
(どうしようかなあ、)
そんな昔のことを思い出しながら、僕は眼前に広がる風景を見据えた。
こんな状況に立たされても、頭は冷静に働いてくれている。
これも、今までの経験の賜物なんだろうなあなんて考える。
事の発端は、今から20分も前に遡る。
今日は、選手の心身リフレッシュの為にと設けられた数少ない休日だった。
各々自由に過ごして良いと言われたものの、僕は特別したいこともなく。だからと言ってぼんやり部屋で1日を過ごすのも如何なものかと思い、買い出しに出掛けようとしていた音無さんの仕事を買って出た。
選手に休日はあるのに対し、マネージャーには明確なそれがない。
僕達をサポートする立場の彼女達だって、休息は必要だと思う。
「私が行きますよ!」と慌てる音無さんに良いから、と笑う。それに尚も食い下がる彼女に「こういうことも、気分転換になるからね」と言えば、渋々といった風に了承してくれた。
僕はその買い出しリストとお金を受け取り、街へと出掛けたのだ。
そのリストの内容は思ったよりも多くて、果たして彼女だけでこれだけの買い物を済ませることが出来たのだろうかと疑いたくなる程だった。
手当ての為に必要な消毒薬から始まり食材やタオル等。僕なら運べないこともないが、彼女だけでは到底無理だ。
僕は、鬼道くんか誰か付き添いをつけるつもりだったのかなと考えつつ、取り敢えず紙面に綴られているものを買うべく歩を進めていた。
それが、丁度5分くらい前のこと。
食材は、肉等足の早いものもあるからと後回しにする。
僕は手始めに薬局へ寄って目的のものを一通り買った後、店から出て暫く歩いた所で凄い力で路地へと引っ張り込まれた。
一体何が起こったのか。
僕は一瞬状況判断に困ったが、目の前に立ちはだかる数人の男を見て納得した。
それから「またか」と胸の内だけで深く溜息を吐く。
いつだったか、悪い人は必ず顔に出るものなのよと母も言っていたが、彼らはまさに彼女の言っていた「悪い人」の典型だった。
僕は、自分よりも一回りも二回りも大きな彼らを一瞥し、「何か用ですか」と口を開く。
買い出しだって途中だというのに、こんな処で絡まれるなんてついてない。
白恋中に居た時から、こうして因縁をつけて来る連中は大勢居た。
そういった意味からの慣れや経験から、こういういざこざは早々に切り上げた方が良いことも知っていた。
そして、相手に弱味を見せず気丈で居ることが大切だとアツヤが教えてくれた。
「僕、買い物の途中なんですけど」
「…そのジャージ、イナズマジャパンだよな?」
相手は僕の話なんか、聞いちゃいない。
鼻ピアスをした男が一歩前に進み出て、確認するように僕の着ているジャージを指差す。
僕はその言葉を受けて一度自身の胸元のロゴに視線を落とし、「だったら?」と問い返した。
すると、僕からの確認が取れたことでそれまで抱いていた疑惑が確信へと変わったのだろう。
見る見る内にその顔を憤怒の情によって赤く染め上げ、「だったら、じゃねえよ!」と激昂した。
「お前のチームが勝った所為で、俺が賭けてた金が全部飛んじまったんだ!どうしてくれるんだよ!?」
「賭け金?」
胸倉を掴まんとして伸ばされる腕から逃れつつ、僕は「成る程」と思う。
鼻ピアスと同じくして顔を真っ赤にした周囲の男達が彼を囃し立てている所から、皆同様の理由なのだろう。
しかし同時に、それは何処を取っても八つ当たりなのではなかろうかと考える。
(まあ、こうやって誰かに怒りをぶつけていないと、やっていられないんだろうな)
僕はそうひとり納得しながら、怒りに震える眼前の男達を見る。
腕っ節で敵わないことは、百も承知である。そして彼らの目鼻立ち等から、少なくとも日本人でないことが判る。
その日本人離れした体格の良さからも、力の差は歴然だ。
(どうしようかなあ、)
冷静に状況把握を行ってくれる頭に謝し、僕は視線を周囲に巡らせる。
現在居る場所は、狭く薄暗い路地の奥。僕の手には、財布と先刻購入したテーピング等が入った買い物袋がひとつ。
万全の装備でもなく、かと言って策もない。
だからと言って、諦めて良いようにされてやるつもりも毛頭ない。
僕はちらりと背後を見やり、
「…僕をどうするつもりなの?」
「そんなの決まってるだろ、ちょっと痛い目を見て貰うんだよ」
にやにやと下卑た笑い声を立てる鼻ピアスに嫌気が差す。
次いで頬に降り掛かる水滴に、雨まで降り始めたことを知った。
嗚呼、本当についてない。
それから、男はまるで僕の心を読んでいたのではないかと思われるくらいタイミング良く、「運がなかったなあ」と言って乱暴に僕の右腕を取った。
振り解こうにもその力には敵わない。掴まれる腕に多少なりとも痛みが走り、僕は眉を顰める。
助けを呼ぼうと叫び掛けた所で左頬を殴られ、思わず反応出来ないまま地面に身体を強く打ち付けた。
口内にはあっという間に鉄の味が広がり、解放された後にも関わらず腕の痛みは続く。
『兄貴は敵わないって判ったら直ぐに顔に出ちまうからな、其処の所注意しとけよ』
「…判ってるよ、アツヤ」
それらに呻くよりも前に、今はもう居ない弟の言葉を思い出す。
此処で弱音を吐けば、あいつらの思う壺だ。
小さく呟いてから四肢に力を込めて何とか立ち上がり、此方を見下ろす男達を睨んだ。その態度が癪に障ったのか鼻ピアスは「気に入らねえ」と吐き捨てる。
「そういう生意気な餓鬼が俺は一番嫌いなんだよ!」
腹部に拳がめり込んだ。受け身なんて上手いものが取れる訳がない。
僕は尋常ではない痛みに続けて襲い来る嘔吐感を必死に堪えて、踏み止まる。
こういった連中にはもう理屈は通じない。助けを呼べないのなら、逃げる機会を窺わなければ。
次第に強まって来た雨脚と不穏な音を立て始めた空に、僕の気は急く。
「おい、俺達にも殴らせろよ」
「お前ばっかり殴ってるのは不公平だろ?」
その時、鼻ピアスの背後で焦れたような声が上がる。
男を半ば押し退けるようにして現れた2人は、待ち切れないとばかりに指を鳴らしていた。
その振り上げられた拳に殴られるのを予想して僕がグッと奥歯を噛み締めたのと、辺り一帯に激しい雷鳴が轟いたのは、ほぼ同時だった。