水の音が聞こえる。
誘われるようにゆっくりと目を開け、その先へ視線を向けると遠くにあった意識が瞬時に覚醒した。
掛け布団を蹴り上げてキッチンへと走ると、その丸っこい背中に聞こえるように溜息を吐く。
主人の困り顔にも気にする事なくニシシと歯を見せて笑うこの子は悪い意味で相当いい性格をしている。
柔らかそうな両頬を抓りながら左右にひっぱると、短い手を懸命に回しながら離してほしいと訴えてきた。



「だから水浴びしたいならお風呂場って言ったでしょ、なんでいつも勝手にボールから出るかなあ」



水浸しになった床を拭くために洗面台へ歩くと、後ろからペタペタとその子も付いて来た。
身体を浮かせる事ができるのにわざわざ聞こえるように濡れた足でフローリングを歩かれると、なんだか挑発されているような気分だ。
そういった性格だからもう慣れっこだが、さすがに早朝からこれで起されたらたまったものじゃない。



「ん、ちょっと待って今何時・・・」



さあっと顔から血の気が引き、壁にかけられた時計に目をやると身体が硬直した。
家を出る時間をとうに過ぎているのを確認して、目の前がぼんやりとかすむ。
それでも僅かに残った正気に急かされ、鉛のように重たい頭を一振りする。慌てて寝室へと着替えを取りに行こうと、何も考えずに大股で踏み込んだ。



「あっ!!」



濡れた床に足を滑らせ、そのまま横倒れするように全身を強打してしまい おもわずその場でうずくまる。
片側だけ濡れたその不快感と苦痛に顔を顰めていると、後ろからまたもや馬鹿にするような笑い声が聞こえてきた。
盛大にすっ転んだ主の心配もせず、ましてやわざとやったとも取れるその行為にふつふつと底から怒りが湧き上がってくる。
ゆっくりと微かに濡れた前髪の合間から後ろを睨みつけると、ころころと笑い転げてた動きが私の視線に気付いてピタリと止まった。
いくら慣れとはいえ、今日ばかりは私も耐え切れずに久々に腹の底から声を出したくなった。



「ゲンガー!!」











**********










「腕が痛い」



もったりとした生地を混ぜるのに力を入れると、それに伴って打ち付けた場所が軋むように痛んだ。
それでも変な混ぜ方をする訳にもいかないから歯を食いしばって作業に没頭していると、何故だかいつも以上に私の周りに人が寄り付かなくなってしまった。



「はあ」



今朝は本当に散々だった。あの後叱り付けたゲンガーは珍しくしょんぼりしていて反省したように項垂れていたが、油断は禁物。
ここで甘やかすと絶対に調子にのる。そう判断して何も言わずに急いで着替えに行ったまでは良かった。
だが簡単な身支度だけ済まし荷物を持ってリビングに行くと、何故か水浸しのままになってる筈の床が綺麗になっていたから驚きだ。
いつも彼の指定席である食事席の下を覗くと、私から顔を隠すようにうつ伏せに丸くなっていて暫くその背中を見つめていた。
朝食の声掛けをしても一歩も動かない頑固さに呆れながら、結局時間が押していた為に置いておくとだけ言って今日は出て来てしまったのだが。


最後にもう一度切るようにヘラを滑らせて、聞かれない程度に溜息をそっと吐く。
幸い時間ギリギリに出勤出来たのは良かったけど、そのまま慌しく準備に取り掛かったからおかげで疲労感が増していつもより肩が重く感じる。
生地を先輩に確認してもらったら、すぐさま食堂に行こう。
朝の仕事も終わり、時刻はもうすぐ昼時。朝食と夕食しか提供営業していないメインダイニングは、夜の仕込みの準備合間に交代で各自休憩に行けるのが利点だ。

丁寧に混ぜきったのを再度確認し近くの先輩にボールを差し出せば、中身を確認した後に「いいぞ」の許しの声を貰えた。



「お昼行ってきます」



さっさと作業場を片付けて口早にそう言い残すと、周りは会釈しながらも少し不思議そうな視線をよこしてきた。
出来ればゆっくりやりたいけど、今朝の騒動のおかげで朝御飯抜きで働いた私のお腹はもうとっくに限界を超えている。
早く胃に何かを入れなければ。軽く眩暈もしてきたし、足取りもどこか危ない気がしてきた。



「今日はパンとシチュー、あとは・・・」



食堂のメニューを思い出しながら、あれやこれやと食べたい物を想像する。
パスタもいいけどバターライスもいい。普段お弁当じゃ面倒な品も、ここではとびきり美味しく食べられるから好きだ。
それでもわざわざ早起きし毎日家で作ってくるのは、正直金銭面的な不自由さがあった。
地元のカントーとは違い、ミアレは物価が高い。特に私の住んでるアパートの家賃は、街中とだけあってそれなりの値段だ。
ここの給料も勿論良いが、一人暮らしだと何があるか分からないから毎月少しずつ貯金していくと後はパンと野菜がいくつか買える程度。
だから食堂で食事をするのは弁当を作ってこれなかった日か、たまの贅沢で頑張った日にするようにしていた。



「いい匂い」



食堂が近づくにつれ、足取りも自然と軽くなる。
香り高い爽やかなジェノベーゼ、玉葱の甘さが引き立つオニオングラタンスープ、焼きたてバケットの芳ばしい香り、どれも絶品なのが容易に想像できてまだ食べても無いのにすでに幸せだ。
鼻や舌が良いから、食事の良し悪しは自信を持って言える。地元では友人に勧めた食べ物はどれも美味しいと認めてもらえるのが自慢だったが、こちらに来てからはそんな人も居ないから少し寂しい。

広い食堂の扉を通り抜け、適当に座る場所を決める為に視線を彷徨わせていると ふと誰かと視線がすれ違う。
頭の中が半分料理の事で埋っていたせいか、気付くのが遅れてしまった。
一瞬止まってしまった足を無理矢理にでも進めようとしたが、後方から聞こえた咳払いがそれを阻んだ。



「座らないのですか」

(よ、容赦ない・・・)



エプロン越しからでも分かるそのスラリと伸びた長い脚、姿勢よく背筋を伸ばして座るその光景は気品が漂っていた。
育ちの良さが滲み出ているようなその姿に、最初こそ見惚れていたが今では心臓を悪く揺さぶる元凶でしかない。

食堂にズミさんが居るなんて聞いてない。
どうしようかと迷っている間にもあの視線の脅威には逆らえず、謎の服従感を抱きながら渋々ズミさんの前の席に手拭を掛けた。



「ご飯注文してきます」



そそくさと席から離れ、カウンターへと足を運んでいる間にも何故か後ろから継続して視線を感じる。
若干歯切れの悪い声でなんとかメニューを食堂の人に伝えると、隅に避けて食事がくるのを待った。
後方に見えないように今更ながら制服の襟を正したり無造作に捲くり上げていた袖を手首までしっかり伸ばしながら後ろを振り返ると、水を飲んでいたズミさんと何故か視線がバッチリと合う。
素早く目を逸らすが無意識に手汗が滲み、何かしてしまったかと恐怖で肩が小さく震えた。

その間にも着々とトレイには焼きたてのパンとシチュー、サラダ、スープと手際よく並べられ、最後に大きめのハンバーグが乗せられた皿が置かれた。



「お待ちどう」



会計時の紙を手渡し、受け取ったそれは今までで一番重かった。
少し食べすぎかとも思ったが、元々胃がそこまで小さくない私は朝食抜きならこれぐらいの量は問題なく完食できる。

ただ完全に相席者の事を考える余裕が無くて、振り返った後で「しまった」と内心後悔した。




「・・・・」



そっとトレイをテーブルに置き、静かに着席して恐る恐るスプーンを握る。
予想通りズミさんは私の食器の数を見るや否や、驚きで見開かれた目で微かに口元を開いたまま固まってしまった。


気まずい。


その単語だけがぐるぐると頭の中で無意味に巡る。

それでも空腹には勝てなくてなるべく汚くないようにと、視線を気にしつつもスープを掬って口に運ぶ。
一口入れた瞬間に口の中で広がるコーンの甘さと後から引き立つ玉葱とバターの風味に、強張っていた肩の力が自然とひいていく。
もう一口、二口とゆっくり味わいながら咀嚼し、手を止めることなくその味を堪能していると空腹による疲労が嘘のように癒されていった。
付け合せのパンを手に取れば、まだそれは温かく中を割ればほんのりと湯気立ち、上ってくる麦の香りにますます食欲をそそられた。
小さく千切り、よく噛めばその美味しさがしっかりと伝わってきた。さすが一流ホテル、ベーカリーも完璧で抜かりが無い。

気付かない内に無言で次々食べ進めていると、突然空いた皿に丁寧に巻かれたクリームパスタが添えられた。
不思議に思って顔を上げると、ズミさんが真剣な顔でパスタを巻きながら私の皿に綺麗に盛り付けていてハッと我に返る。
一人無心で食べていたのも勿論恥ずかしいが、ズミさんのご飯まで貰うほど私は物欲しそうに見えたのか。

顔中に集まった熱に耐え切れず下へ俯くと、それに気付いたのか頭上から微かに息を漏らす声が聞こえてきた。



「私はもう満腹ですので、あなたが食べなさい」



ほんの一瞬だが微笑したその表情に、右手に持っていたスプーンを離しそうになってしまった。
ズミさんが、少しだけど笑った。
その事実に驚愕し、暫く動けないでいたがまたもや巻かれる白い麺に気付いて、慌てて腕を伸ばし静止の合図をする。



「もういいですから、悪いですし!」

「でもあなたなら食べれるでしょう」



その食べっぷりなら。真顔で言うズミさんの言葉に、おもわず言いかけていた言葉が口の中で留まった。
確かにズミさんはもう殆ど食べていたようだが、男性より大食いというのがなんとも言えない。
限られた時間を気にしながら、複雑な心境になりつつも有難くパスタを食べると 麺に絡まった魚介の旨みが凝縮したクリームソースに頬が緩む。
それでも自分の中で葛藤し、なるべく顔に出さないようにと表情を固くして口に運ぶが、それを見たズミさんはどこか楽しそうに見えた。



(考えすぎかな)



もしかしてズミさんって、私が思っているよりも優しい人なのかもしれない。



最後にとっておいたハンバーグを綺麗に食べ終わるまで、ズミさんは私の食事をただ黙って見つめていた。








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