「分かった?」

「はい、有難う御座います」

「時間無いから、急いでね」



口に残る感覚だけを頼りに、頭の中に湧き上がった言葉を逃がさないうちに急いでメモ帳に書き留めていく。
中に仕込まれているソースをスプーンで掬い上げ、僅かに香るそれを瞬時に判別するのは至難の業だ。
それでもここの厨房で働いているからには、初心者の様な泣き言が通用するはずもない。分かりません、なんて誰でも言える言葉だから言いたくない。

メインダイニングの厨房で働くようになって数日。初日はその急がしさに足が竦んだが、今の私はやりがいに満ち溢れていた。
斬新さにこだわってデザートメニューの変更が頻繁にある上、シェフの書いたマニュアルも当然無い。
自分の目で見て、その味を知る。たったそれだけの作業の中で、自分の発想と技術がいかに試されているか。


毎日毎日ここで自分が働けているという事実が夢のようで、時間が過ぎるのもあっという間だった。



「お疲れ様です」



今日はよく歩いた。ほぼ走った状況に近かったが、忙しなさにある精密な職人の業を目の前で見れて、おもわず無意識に指先が震えた。
忘れない内にまた書き留めておかなければ。浮き立つような足の感覚のまま更衣室へ急ぐ途中、ふと胸ポケットに手を当て立ち止まる。



「しまった」



いつもそこにある筈のペンが無い事に気付いて、後ろを振り返った。
廊下には落ちてない。ということは、厨房に忘れてきてしまったのか。
一応下に意識を配りながら、来た道をゆっくり戻る。
料理の提供時間も過ぎ、今は残業時間の為か昼間より人通りは少なかった。

疲労のせいもあってか、痛む首を上げて左右に傾けるといつものように関節から嫌な音がごりごりと鳴る。
その時廊下に隣接していたドアの一つから聞こえた音に気が逸れてしまい小さなガラス窓の向こう側を覗くと、その視線の先には数人のシェフが集まっていた。
一日中働いたその腕からは疲労を感じさせないほどの繊細な動きで料理を彩っていき、遠目からとはいえおもわず息を呑む。



「すごい」



ついもう少し見たい、という気持ちが勝って人目を気にせずに足先を伸ばす。
人が囲っているその中心で一際輝く料理をしっかりと目に焼き付けたい。けど平均より少し小さめの私は、窓の先で作業している大人達の背中を見つめるので精一杯だった。
用も無く無断で他の厨房に入る訳にもいかないしと唇を噛んだ時、何故か目の前の窓ガラスが少しだけ陰った気がした。
同時に感じた人の気配に急いで振り向くと、おもわず出かかった声が驚きのあまり喉元でつまり、情けない声が漏れてしまう。



「物凄く不審に見えますが、こんな所で何を覗いてるんですか」

「ア、、アアッ」

「喋れていませんよ」



無意識に震える指先を目の前の人物に向けると、本人は呆れ混じりの顔で私を見下ろしていた。
微かにソースで汚れた作業着を身にまとい、タオルで濡れた手元を拭きながらズミさんは私が先程見ていたガラス窓の先へ視線を移す。



「何か用事があるなら、伝えてきますが」

「いえ、そういうのじゃないんで大丈夫です」

「そうですか」

「それよりズミさんは、何故ここに」



微かに見開かれた目に、ハッと口元を急いで覆ったが遅かった。
何故名前を。そう言いたいのが聞かなくても伝わってきて、急激に背筋が凍ったように身動きが取れなくなった。
偶然にもつい最近知った名だが、これでは私が調べ上げたみたいで自分でも引いてしまう。
弁解しようと口を開いたり閉じたり、忙しなく表情を変えてる私を見て彼が軽く溜息を吐いた。



「何か変な事でも聞きましたか」

「え、な、何ですか、噂とかですか?」

「・・・・噂があるのは知りませんが、そうですね。例えばあなたの所のシェフとか」

「え、いえ別に何も」



何故シェフなのだろうか。
思い当たる節も無い様子を感じ取ったズミさんは「ならいいです」と視線を逸らしてしまった。
ますます訳がわからない。何か良く無い事でも有るのか。



「あとそこで立っていると、出入りの邪魔になってしまいますよ」



暫く扉の前で立ち止まっていた事を思い出して、慌ててその場から飛び退く。
いくら日中より人は少ないとはいえど、メインダイニングは明日の仕込みの量が他とは違うため営業時間後も裏方は忙しなかった。
特に今いるメイン料理を扱う厨房は、先程のようにシェフが度々集まり試作品やらソースの微調整など重大部な事を成している場所。
窓の外からとはいえ、気を逸らすような行為をしていた自分が今更恥ずかしくなってきてしまった。



「すみません、私戻りますね」

「本当に用は無かったのですか」

「はい、ちょっと作業が気になって・・・」



見てただけなんで、とその先の言葉を言う前に慌てて口を噤んだ。
何を素直に要らない事までぺらぺらと言おうとしてたのか。社会見学に来た小学生じゃあるまいし。
相変わらず不審な物を見るような目のズミさんに怖気ずいてしまったが、変な誤解を生む前にさっさと退場しようと軽くお辞儀をした。



「お疲れ様です」

「お疲れ様、あなたもお気をつけてお帰り下さい」



そう言って歩き出したズミさんはてっきり更衣室の方へ行くと思ったが、何故かそのまま直進しおもわず我目を疑った。
メイン厨房の扉を何事もなかったような顔で押す彼の背を二度身し、その場で凍りついたように足が動かなくなる。
中に居るシェフといとも容易く会話をしているその様子に、何度か目を瞬いて確認するが間違いない。

先程私が熱い視線を送っていたその先に、彼が立っている。


そう言えば先程彼の制服に付いていたソースの汚れは、まさか。



「ズミさんって」



もしかして、あんなに若いのに凄い人だったりするのだろうか。


そう感じ取った瞬間。何故か私の知らない所で、いろいろな事が動いている気がした。










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