カロスの中心に位置する技術と芸術の街、ミアレシティ。
数多くの人口を集めるその街並みの一つ、腕を極めた料理人達の聖地である「グランドホテル シュールリッシュ」は美しく整備された石畳の通り、ノースサイドストリートにあった。
その優美な姿は超一流ホテルの名に相応しく、美を追求する者達への神聖な場とも言える内の一つだ。

中でもわざわざ遠征してきてもその味を堪能したくなる食事は数々の賞賛を得て広まり、料理人を目指す者達の熱い視線の的として海外にもその名を轟かせた。
その狭き門を潜り抜けた職人達が、今日もこのホテルの厨房で忙しなく働いている。



「まずい」



料理の良し悪しはホテル全体の評判に関わるほど重要で、それはどの部門でも妥協を許さない。
だから私はここに働けることになっても、いつも正直にいようと思った。
遠い地方で働く友人は社会を上手く渡り歩いていくには上辺の付き合いも、最低限の愛想も必要だといったが、そんな事はここでは通用されるとは思っていない。
なのにまだ自分が可愛いとか、慰めて欲しいとか少しばかり思う人達が居たみたいで、そのドロリとした甘さに開いた口が塞がらなかった。



「最っ低」



バシャリと頭から冷たい水を浴びせられ、目の前にいる女性が更に歪んで見える。
睫の上にある雫が目に水が入らぬよう、服の袖で拭おうとしたら更にもう一度、今度はその怒りをぶつけるようにどっぷりと盛大に振り掛けられた。
なんのイジメなのか。
そのまま私の足元に投げつけられたステンレスボールは勢いよく回転し、床にカランカランと速度を増して響く音をただ黙って聞いていた。



「いい気味」



男だったら唾でも吐きそうな顔をして出て行った彼女の背に、嫌味の一つも言えずにただ髪に伝う水をじっと見つめる。
普段は輝かしい真っ白な制服も、嫉妬と怒りをぶつけられたがゆえに肌に吸い付く水分の重さで、肩にどっしりと圧し掛かった。
ああいう子供はどうしたものか。私は慰めることも、ましては謝る事もできない。
憧れの地に立つ事を許された者の勤めを、あの彼女はしているのか。いくら同じ部門の同期だろうが、私は同じ位置に並んでいるとは思えなかった。



「絶対に使わせない」



よく冷えたステンレスボールを拾い、床に散らばった氷も塵取りでまとめてすくい上げる。
どうせなら彼女が来た時よりも綺麗にしてやろうと、乾いたモップで水浸しの足元を力強く拭いた。
料理人には無くてはならない道具とその場所を汚すあの常識知らずは、ここで作業をする資格なんてない、一生来るな。

あの時言えなかった怒りを腕に込め、無駄なく ぐっと上下に動かし続けた。
疲労で痛む腰も気にせず、水気を含んだモップをスクイザーで絞り取り、足踏みレバーに添えていた力を勢いよく離す。



「バッカみたい・・・」



今この場に私一人でよかったと、つくづく思う。神聖なこの作業場でこんな醜いやり取りを見られていたらと思うと、歯が浮きそうだ。
ふと時計の針を見上げ、もう深夜に近い時間だと気付く。
仕事終わりの貴重な時間を、こんなのに割かれていたと思うだけで眩暈がしそうだ。
拭き終わった床の上を足踏みし、滑らないことを確認し終わってから腕をめいいっぱい上へ伸ばす。
ずっと下を向いていた首を左右に傾け、パキパキと間接を鳴らしてお腹の底から息を吐いた。



「疲れた」



道具を片付けてもう帰ろうと、重たいスクイザーを持ち上げながら奥へと歩き出す。
シンと静まり返った厨房内には阿呆みたいにずぶ濡れになった私一人。

の、筈だった。



「・・・・」



擦れ違い間際にその人物から一度目を離そうとして、再び戻す。
重い足取りはピタリと止まり、私の視線の先には人が一人。その人物は何事も無かったかのように作業をしていた。
いつからここに居たのか。
ただ私が気付かなかっただけなのか、それとも物音一つ立てずに手際よく作業するこの人の溶け込み具合が尋常ではないのか。
どちらにせよ見苦しい所を見せたその事実が、恥ずかしさと共にゾワリと背筋を駆け上がっていった。



「戸締りは私がしますので」



突如発せられたその声音に、びくりと肩が少しだけ震えてしまった。
作業の手を止めず目線だけスイとこちらに向けられて、その整った容姿に今更私は驚愕した。
自分より頭二つ分上背のありそうな青年の瞳はガラス玉のように濁り無く澄んでいるのに、鋭い三白眼がその隙の無さを強調している。
まさに芸術の街、このミアレに来るべくして訪れた人物なのではないのか。
淡いクリーム色の生地に柑橘の果汁を混ぜ込んだ時のような例えようの無い色合いの髪が、彼の容姿をより一層際立たせていた。

何より目を奪われたのがその手元。まな板の上に寸分の狂いも無く細切りされた果実の皮の美しさに、魅せられていた。

誰。

問いたくてたまらない。その手で生み出される神々しい物を、もっと見ていたい。
どっぷりと黒く渦巻く汚水の入ったスクイザーを持つ手に力が入る。ぐっと喉元まで出かかった言葉を飲み込み、尻込みするかのように数歩後ろへよろめく。



「お、おつかれ、さまです」



俯くように顔を背けて、足早に彼の横を通り過ぎる。
ぎこちない挨拶に一瞬。微かにだが空いたほうの手で彼が手を上げてくれたのを横目に、酷い有様である姿をした自分が恥ずかしくなった。





白い電気灯の下で輝くその姿はまさにプロ。私が見たかった光景はすぐ傍にあるのに、到底辿り着けない。
汚れたモップを見下ろしながら、ゆっくり立ち止まる。

私はいったい、何をしているのか。












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